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人間関係、哲学、恋愛論などと視線との関係
長いタイトルとなってしまいました。私は近年社会の様々な分野に興味を持つようになりました。それらの情報はやはり活字(文字情報)として知る機会が多いのですが、必ずしもそれらに限らず、自分が接する状況という主観的(そして特殊であろうとも、同じ人間である以上はおそらく普遍的な)現実にも同様の興味を持っています。これは誰にでも当てはまる当然のことかもしれません。しかし意識的に、そして合理的に判断しようとする傾向は私の場合はごく最近現れたように思われ、そういった意味で新鮮に感じます。 私は自分自身を、他者から容易には理解されないと考える(無意識に、自分は他者から関心を寄せられる対象ではないと思い込んでいるのかもしれない)傾向が強いように思います。そのために、外面を取り繕ったり、他者との間に心的バリアを厚く築いてきたように思います。それによって良い結果とそうでない結果を得てきたのだろうと思います。他者への依存が減り、自己決定的な性格が強まった事(心的バリア構築との因果関係は、あるいは逆かもしれませんが)は、長所とも短所とも言え、このような性格を特徴づける典型的なものだろう思います。こういった傾向は多かれ少なかれ誰にでもあるものでしょうし、その傾向が強いことにそれほどの不利益や困難を感じたことはありませんでした。しかし先日、店員と客という、おそらくお互いを知らないであろう(そして普通は一期一会であろう)人に目を注視されるという不思議な状況に遭遇しました。これまで築いてきた心の壁が通用せず、心の奥底まで見られたような恥ずかしさと、もうこれ以上恥じるものはないという、まな板の上の鯉にも似た、他力本願な心地よさに酔ってしまいました。近距離であったこと、対応が丁寧であったこと、相手が異性であったことなど、その要因はいくつかあるでしょうが、やはり視線という要素が大きかったように思います。まるで自分以上に自分のことを知っているかのように感じられ、しょせん自分はこの世界に支配されている身で、自分自身すら自己が支配することはできないという、喜ぶべきショックといった感覚です。これまで経験してきた恋愛を含めた人間関係とは異なる、しかし人によってはある種の恋と呼ぶであろう感覚だと思います。それ以来視線の意味について、発達心理学、発生学、進化学的に考えることが多くなりました。注視は、快不快いずれにせよ、興味のある対象に行う行為ですから、自分が見られている事を認識するという、自己存在証明でもあります。また、ヒトの場合、目は特別で、注視という刺激で急激に活性化する脳神経部位があるようです。私は、このような状況に生物学的に正しく、まんまとはまった訳ですが、皆様のそのような経験について教えて下さい。(ちなみに私を注視した相手については、もし機会があれば色々と聞いてみたいと思います) http://www.psy.bun.kyoto-u.ac.jp/COE21/report/H16/D-3.pdf
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- kamikazek
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思っているほど 人は見てない。