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阿弥陀仏とイエス・キリストの救い

阿弥陀仏とイエス・キリストの救いは、どこが違うのでしょうか?

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回答No.8

あるオーストラリアの熱心な青年が仏教の深遠さを勉強しようと日本へ来た。 たまたま、学んだのが浄土真宗だった。 すると、この青年はキリスト教と同じではないかと失望し帰国した。 という話を聞いたことがあります。 そういう話もあるくらいですから、質問はもっともなことです。 浄土真宗の門徒の発言として読んでください。 類似視される考えられる要素はおそらく (1)弥陀一仏への帰依   → 一神教 (2)罪悪深重の凡夫の救い → 原罪 (3)往生浄土       → 天国 あたりでしょうか。 (1)阿弥陀仏の救いは仏教の教えですから、成仏道です。 いかなる仏教においても仏になるのが目的ですが、キリスト教で「人間が神になる」という文言を聞いたことはありません。 神は創造主ですが、阿弥陀仏は如来(一如より来たらしめた)です。 (仏典に出てくる神々はキリスト教でいう神とは意味が違います。) 私の迷い元は、無明(真実が明らかではない)ですが、それを打ち破るはたらきが、仏の智恵と慈悲のはたらきであり、仏が私の境遇を定めたり試練を与えたりするという訳ではありません。 また、仏を自然(しぜん)界そのものという汎神論的解釈をする人もいますが、それもちょっと違うような気がします。 自然界の中に満たされた、私を真実化するはたらきは真如法性、無上仏と呼び「いろもましまさず、かたちもましまさず」ゆえに自然(じねん)と申す、とあるように私とは関連不能。 その真如からはたらきをもって、あらわれたから阿弥陀仏を如来と呼びます。 親鸞聖人は 「弥陀仏は自然(じねん)のやうをしらせんれうなり。(有り様を知らせる手立てである)」(自然法爾章) と言われています。 (2)旧約聖書は物語としては面白いですが、私にはとうていついていくことができません。 新約聖書の瑞々しさは魅力的です。 「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である」(マタイ9-12) 「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9-13) あたりは歎異抄3条の悪人正機(悪人こそ正しきめあて)を彷彿とさせます。 この場合の悪人は成仏の材料が欠けた私ということであって、罪人とは違います。仏教にあっては全てのものは縁によって成り立った存在ですから、私のありようは本来、無記(善悪が決まった存在ではない)です。 天罰ということばはありますが、仏罰ということばは本来存在しません。仏は、私を救う存在です。 仏のはたらきは 「真実なるものは、真実ならざるものを、真実にさせようとするはたらきをもつ」 というふうに言ってみます。 ただし、こういう表現はなんとなく解ったつもりになるという恐れがありますので聞き流してください。 (3)浄土は阿弥陀仏のはたらきの完成の表象であり具体化です。 固定化された土は化土と呼ばれ、真仏土は「光明、寿命無量の願」に基づくものです。 浄土はたらきの世界、常にあらゆる境遇と関わりをもつ(還相回向)ものです。 浄土に心を向けること(願生)は、私を悟りに導く妙法ということになります。 私の感じからいうと、浄土真宗の教えはキリスト教よりは、やはり禅宗や真言、天台のほうにずっと近いと言う気がしています。

pas26
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  • ri-zyu
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回答No.10

鈴木大拙という禅の先生が、真宗にもキリスト教も精通しているでしょから。 真宗は母親的であり  キリスト教は父親的と それを元に私の拙い考えは  真宗は無条件に救って下さる・・・ キリスト教条件付に救って下さる・・・

pas26
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pas26
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>キリスト教条件付に救って下さる・・・ どのような条件なのでしょうか?

回答No.9

>>それで、阿弥陀仏に救われるといえるのでしょうか? ちょっと言葉が、自力的に傾きすぎてしましましたかね。 「極楽浄土という世界は安らかな眠りの地でもパラダイスでもなく、死後も自らを高める場である」というのは極楽に往生した後のことであって、我々が娑婆にいる間はどうやって極楽浄土に行くかということが問題になります。  そうなると、我々は阿弥陀仏の本願に頼るほかありません。その本願は第十八願「設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆誹謗正法(私が仏になった暁には 全ての行きとし生きるもの全て 裏表のない心で深く信じ 極楽浄土に生まれたいと思って 大体十回お念仏しなさい ましそれで極楽に生まれないものが現れたなら 私は悟りを開いたとはいえません ただ五逆罪を犯したり仏教を誹謗中傷する人は除きます)」ということになります。  では、なぜ「自らを高める世界」が救いなのかというと、娑婆世界が末法の世であるからです。 末法はどういった世界であるかというと。仏教ではお釈迦様入滅後の世界を三期に別けます。  一時目を「正法時」とい、お釈迦様が説いた教(教え)があり、それに則って行(修行)する者もいて、その修行の成果で証(悟り)を得る人もいる時代。  二時目を「像法時」といい、教(教え)は残っていて、それに則って行(修行)する者もいるが、人々に機根が劣っていくのかその修行が上辺だけになっていくのか証(悟り)を得るものがいなくなってしまう時代。  三時目が「末法時」であり、教(教え)だけが残り、行(修行)をする者はなく、そのため証(悟り)を得るものもいなくなる時代で、吉蔵の『法華玄論』よれば一万年続くといわれています。  そしてこの三時が過ぎると教(教え)すらなくなる法滅を迎えるという。  それを表にするとこのようになります。      正法 像法 末法 法滅 教(教え)○  ○  ○  × 行(修行)○  ○  ×  × 証(悟り)○  ○  ×  × 日本においては、先にも挙げた吉蔵の『法華玄論』等に基づく正法千年・像法千年説が一般化し、唐代の法琳『破邪論』上を引く『周書異記』にお釈迦様の入滅は「周の穆王の五十二年、壬申の歳(紀元前949年)」とあることから、末法元年は西暦1502年ということになるそうです。  ということは、今まさに末法であり、悟りどころか悟り向って修行すらできない時代ということになります。  また、浄土宗を開いた法然上人は「三学の非器」という告白をしています。つまり、自分は三学を修する器ではないということです。三学とは「戒(戒律を守って心を清める)」「定(戒を守ることで、禅定に入ることで心身統一する」「慧(そういった修行によって、悟りの智慧に向う)」のことをいい。仏道を修行するものが必ず修めるべき、三つの基本的な修行項目をいい、「三勝学」とも言います。ところが、法然上人は末法という時代背景を踏まえたうえで、一つの戒律も守れないとおっしゃっています。戒が守れないなら定に至る事や、ましてや悟りの智慧を得られるはずがないと悲しまれています。ところが、周囲から見ると法然上人ほど持戒堅固な人はいない「智慧第一の法然房」とまで言われていたそうです。その法然上人が戒一つも守れないというのは、行為よりむしろ心の問題であったのでしょう。  「戒律」ということで言えば「大乗戒」と「小乗戒」があり、日本では主に小乗戒が採用されていましたが、天台宗を開いた伝教大師最澄は『山家学生式』のなかで大乗仏教をを信仰するものは戒律も大乗戒を持つことを主張します。その二つの違いは、身(行動)・口(言葉)・意(心)の「三業(一切の行為を三種に別けたもの)」のいずれに重きをおいて制定されているかということです。小乗戒は意(心)を正しく保つことを主とし、小乗戒は身・口の悪業を防ぐことを主としています。人間はふとした瞬間に人を憎み、心の中で相手を傷つけることがります。心の中で傷つけたことを隠すために嘘をつく。大乗戒を正しく解釈し、自己を徹底的に見つめなおしたからこそ「一戒も保てない」という考えに至ったのでしょう。  末法という時代であることで、悟りに向えない時代に悟りに向えない自分という、悟れないことの二つの要因を持つことになります。その時代の救いとは何か。それは「悟るための修行ができる世界」極楽浄土へ向うことです。  悟るどころか修行すらできないわけですから、「自力」の修行によって極楽浄土に向うほどの善行を積むこともできません。  そこで、大切なのは先に述べた第十八願です。十八願で説かれる念仏は阿弥陀仏が人間にかした修行ではありません。十八願は念仏した者はどんなものでも救うと阿弥陀仏が自分自身にかした修行の目標です。その阿弥陀仏の本願という「他力」の念仏を我々は称えさせていただくことで、阿弥陀仏の他力によって極楽浄土へと往生させていただくのです。  また、『無量寿経』に説かれる「唯除五逆誹謗正法」は、浄土三部経の一つ『観無量寿経』の下品下生の文にある五逆・十悪の悪人でも十念を具足することによって、極楽往生することができるとしている文と、大きな矛盾が指摘されます。『無量寿経』と『観無量寿経』の相違点について、善導大師は『観無量寿経疏』散善義には、「抑止門」「摂取門」の二つを説いています。『無量寿経』は五逆罪などの罪をまだ犯していないものたちへの戒めとして、その罪を犯すことを抑止するために説かれた「抑止門」であるとし、『観無量寿経』は五逆罪を、もうすでに犯してしまったものたちへの救いの「摂取門」であると説きます。この解釈によれば、五逆罪を犯したものでも、懺悔し念仏すれば阿弥陀仏は救ってくださるということである。この説によって、法然上人は十八願の引用をする時は「唯除五逆誹謗正法」は引用することはしていません。  この「唯除五逆誹謗正法」の文に関しては、山崎正一氏(1912年東京に生まれる。東京大学文学部哲学科を卒業。東京大学名誉教授。西洋哲学、比較哲学を専攻し、人類の哲学的思惟の展開を研究。)は「この文は比較的古い経典には欠けていて、比較的新しい経典に多く書かれているという。したがって、この部分は後世になってから経典が増広や補筆されたときに書き加えられた部分であるといえる。もちろん法然はそのようなことは知らなかったであろうが、あながち、この部分を引用しなかったことは正しいのかもしれない。」と評し、もともと阿弥陀仏の救いに制限などはなく、念仏するものを全て救うものであり、制限を加えたのは人間であることを示しています。  長々説明しましたが、悟れない時代に残された悟るべき手段が極楽往生ということになります。的外れな回答で、お答えになったかどうかは分かりませんが、参考にしていただければ幸いです。   合掌 南無阿弥陀佛

pas26
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  • lightgrid
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回答No.7

阿弥陀仏(他力本願)は大乗仏教の創作した架空の仏です。 仏教では、自分を救済するのは(最終的に、本来的に)自分だけです。 イエスキリスト(キリスト「教」ではありません)は、人が自分で自分を救済することを伝えているのであって、 イエスキリストが、神のように人類を救済すること(人が求める神の理想像)はありません。 仏教もイエスキリストも、自分で自分を救済するという意味では、同じといえます。

pas26
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  • 1katyan
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回答No.6

キリスト教は善き人が天国にいくのではありません イエスキリストを信じる人が救われるのです また信じている今、すごく心が穏やかになって救われていると言う人もい。だから天国に行くだけでもありません。 神はその独り子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに世を愛された。それは独り子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るためである”(ヨハネ3:16) つまり神様は私たちが罪を犯して天国にいけなくなっているために 私たちの罪を取り除くために 人しての人格を持った神の子(イエスキリストをこの世に送ってくださった。その方を信じることが救いであり 信じたものはどんな人でも救われるという教えです。 そこには修行というものもなく、儀式をやることもない もししりたければ ひろさちやさんが詳しく仏教とキリスト教の違いを書いています 検索してください (知識としての宗教と経験されている方の感じ方は少しちがいますが

参考URL:
http://structure.cande.iwate-u.ac.jp/religion/contents.htm
pas26
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  • koko_u
  • ベストアンサー率12% (14/116)
回答No.5

>来世の到着する場所の違いと考えます。 生まれ変わってしもたら、悟りに失敗しとるがな。

pas26
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noname#30044
noname#30044
回答No.4

こんにちは 簡単に回答してみると・・阿弥陀仏は http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E5%A6%82%E6%9D%A5 仏陀のひとりとして衆生をヨーガで呼ばれているニルバーナ、つまり解脱、悟りへと導き、涅槃の境地へと導くもの。 あと、イエス・キリストは、よく聖書で"父よ"ということばが、確か、あったと思いますが、つまり、その"父よ"と呼ばれる神が、いらっしゃる、天界へと生まれ変わりを導くものと考えます。 つまり、来世の到着する場所の違いと考えます。 以上

pas26
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  • riehana
  • ベストアンサー率28% (14/50)
回答No.3

こんにちは* 私自身、なかなか周りの友人、家族と“救い”というものについて話し合うことが無いまま 生きてきました。 日本において、やはり政治や宗教、信仰心といったものはある意味タブーなのだなと日々感じています。 私がクリスチャンとして神様と共に歩むようになって約1年なのですが、 救いというものの人生における重大さを日々強く感じながら生きています。 仏教、その他の宗教等の救いについてはよく分からないのですが、 クリスチャンとして、私が思う救いについて書き込みさせていただきます* イエス・キリストの救いの大きな特徴は、“何かをしたから得られるものではない” ということです。 聖書をいっぱい読んだから、毎日お祈りしたから、犯罪を犯していないから、 清いから。ということではありません。クリスチャンといっても人間です。人を傷つけるようなことをいってしまったり 、言い訳を言ってしまうこともたくさんあります。 自分が聖人である。または清い存在だ。と思ったことは一度もありません。 むしろ、自分の罪というものを日々感じながら生きています。 自分の罪(ここで言う罪とはcrimeではなくsinのことです)を感じていないクリスチャンはいません。 罪を感じない人は、救いを求める必要性も分からないからです。 “神はその独り子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに世を愛された。 それは独り子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るためである”(ヨハネ3:16) とあるように、神様の救いを受けるのに必要なのは“イエス・キリストを自分の救い主であると信じる”それだけです。 修行や、何らかの行いによって与えられるものではなく、非力なお年寄りだろうと、 子供であろうと、国籍、バックグラウンドに関係なく、“信じるか、信じないか” という一人一人に与えられた選択によって与えられるというのが、 他の救いと違うところではないかと思います。 あくまで、いちクリスチャンとしての意見です。 他の信仰を持っていらっしゃる方に不快な思いをさせてしまったら お許しください。

pas26
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回答No.2

私は浄土真宗の人間ですが、キリスト教に関してはなんとも知識が浅いのでなんともいえない部分があります。ただ、日本のキリスト教徒のかたとお話しする機会があったのですが、なんとなく馬が合いました。それはお互いに近いものがあるからでしょうかね。  さて、それでは私の感じる違いについて述べさせていただきます。まったく見当はずれな違いかもしれませんので、そこは無智のなせるわざとご容赦ください。その違いは、一つには天国への行き方と極楽浄土への行き方の違いがあげられると思います。    天国とはキリスト教の唯一神と天使、聖人等の善き死者たちが行く世界を示す言葉であると理解します。我々人間は敬虔なる信仰心と罪を犯さない無垢の人生をもって、はじめて死後に天国へ行けるとされます。 『新約聖書』の中にも、 「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができません。」( ローマ人への手紙{ロマ書}) 「しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にあります。」(ヨハネの黙示録 ) 「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」(ヨハネの福音書) なんてなことが書いてありますから、天国とは「善き死者が向う所」ということになるでしょう。 かたや極楽浄土ですが、善き死者が向う所ではありません。しかし、最近の葬儀などに出向くと、仏式であるにもかかわらず「故人は善人だったから天国に行くでしょう」なんてなことをおっしゃる方がいるとほとほとさびしくなります。それはさておきまして極楽に行くための方法は、『無量寿経』に書かれています。 「設我得佛 十方衆生 至心信樂欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」(第十八願) {訳・私が仏になったあかつきには、全ての世界の生きとし生けるけるもの者 裏表のない心を持って深く私を信じ極楽浄土に生まれたいと思って 十回ほど念仏しなさい。 もしそれをしても極楽浄土に生まれないものがあれば 私はその悟りを捨てる覚悟です。 ただこういった方除きます。五逆罪を犯している人 仏教の悪口を言って中傷する人です。} また、『観無量寿経』には 「汝好持是語 持是語者 即是持無量寿仏名」(アナンへの付属) {訳・あなた(アナン)はよくこの語をたもちなさい この語をたもてとは すなわち無量寿仏のみ名をたもちなさいということである。} このように極楽浄土に行くための方法は、キリスト教のように敬虔なる信仰心と罪を犯さない無垢の人生ではないのです。何よりも大切なのは、念仏することなのです。  では、その阿弥陀仏の救いの対象はいかに設定されるかですが、『歎異抄』のなかの「善人なおもて往生をとぐいわんや悪人をや」という一文からなる、悪人正機(悪人こそ救いの対象である)というのが有名でしょう。一般にはこの言葉は親鸞聖人の説とされますが、実は法然聖人が説いたというのが今は主流になりつつあります。  ではここで言う悪人とはどんな人間のことかというと、仏教の基本は「廃悪修善(悪を廃し善を修する)」ということです。しかし、我々人間(凡夫)は善だけをしようと思っていても、なかなか100%善でいることはできません。少なくとも、我々は牛や魚・植物など何かの命を奪わなければ生きていけません。また、心の中などを見ると、あれがしたいこれがしたい・あいつは嫌いだからいなくなればいいなどふと思ってしまうものです。仏教では、心で思ったこともまた行動の一つととらえます。キリスト教で言えば「原罪」とでも言うものでしょうか。  そうやって、自分という人間はなんと「悪人」なのだろうかと自覚した人間が、悪人正機で言う「悪人」ということになります。逆に善人とは、自らが悪人であることに気づかず善人だと思い込んでいる人を言います。  ですから、極楽浄土という世界はそういった悪人たちが目指す世界であるといえるかもしれません。ただ、それは見方の問題ともいえます。自分は善人と思っている人よりも、自分は悪人だと思っている人のほうが、周りから見れば謙虚な人に見えるかもしれません。    一つにはそのような違いはあると思います。 また、天国と極楽浄土の世界観の違いもあるでしょう。極楽浄土というところは、正確にキリスト教だとどうかはわかりませんが今の日本で言うところの天国とは大きく違います。天国というとどうしても楽しいパラダイスを思い浮かべがちです。しかし極楽浄土という世界は娑婆(こちらの世界)にいるときに悟りの境地に入れなかった者達(悪人)を、極楽浄土という教室に招き、阿弥陀仏や観音菩薩・勢至菩薩という先生方がついて悟りの境地へと手取り足取り導き仏にしてくれる世界です。そして仏になった人々は還相回向(げんそうえこう)といって、娑婆世界(こちらの世界)の人々を正しい方向に導いてくださるそうです。  ですから、極楽浄土という世界は安らかな眠りの地でもパラダイスでもなく、死後も自らを高める場であるのです。 まぁ、天国ということに関しても、一般に天国の概念は、ギリシャ神話のオリンポスや北欧神話のアスガルドとユダヤ・キリスト教の天(=神の居場所)、イエスの説いた神の国などが民衆レベルで混ざり合って成立しているために、純粋なキリスト教の教えとは言えないのが現状でしょう。  さて長々駄文を書き連ねましたが、的外れな回答かもしれませんが、参考にしていただければ幸いです。また、下に仏教とキリスト教について触れているホームページをのせておきました。  合掌 南無阿弥陀佛

参考URL:
http://www.geocities.jp/fujisawa_church/shiryo/bud-chr.htm
pas26
質問者

お礼

とても詳しい説明によるご回答と有益なサイトどうもありがとうございました!

pas26
質問者

補足

>極楽浄土という世界は安らかな眠りの地でもパラダイスでもなく、死後も自らを高める場である それで、阿弥陀仏に救われるといえるのでしょうか?

  • koko_u
  • ベストアンサー率12% (14/116)
回答No.1

すでに救済済みなのがイエス・キリスト、これから救済してくれるのが阿弥陀仏

pas26
質問者

お礼

そうですか、ご回答ありがとうございました!

pas26
質問者

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>すでに救済済みなのがイエス・キリスト イエス・キリストを信じれば救済されるのでしょうか?

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