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将軍様の武芸
征夷大将軍といえば武門の棟梁だと思うのですが,一応は皆,武芸の修練をするものなのでしょうか?(古い時代には,坂上田村麻呂などいろいろ武勇伝があるようですがあれは伝説ですよね?)
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武芸というのは「芸」という文字が示すように、芸人のやることで、あまり高い評価は受けません。 柳生家が1万石の大名ですけど、これは例外で、超一流といわれる小野次郎右衛門が300石、宮本武蔵が合力米300石(知行に直すと倍ほど)で、これでも破格の待遇と言われますから、おして知るべきかと。 踊りやお花のお師匠さんと同じ待遇ですから、武士もたしなみとしてやれればよく、戦国時代は無駄と考える武士も多かったと考えます。 甲冑武者を切ることは難しいので、鎧の隙間を突いたり、棍棒のように叩きつけ、弱ったところを組み付いて首を掻くという戦法ですから、切るということを修練しても、どうしようもなく、江戸時代に入って鎧が廃れたからこその剣術と思います。 こういう時代ですから、将軍が剣が強くても仕方なく、足利義教や義輝などの将軍は暗殺者に切り殺されますが、織田信長のように割り切って逃げ足を鍛えたほうが余程マシです。 因みに、信長の逃げ足の速さは当時でも定評があり、金ヶ崎の逃亡戦や手取川の戦いでは、見事な引き際を見せています。 こういう状況ですから、将が剣に強くても自慢にもならず、そもそも将が自ら太刀を振るう事態になったことは恥となりますから、体を鍛えたり不動心を養うという、心身の鍛錬が中心になったと思います。 尾張徳川家の藩主の何人かは、柳生流正統伝承者になっており、徳川義直(4世)、光友(6世)、綱誠(7世)、吉通(9世)・・・、これらも実際に強いというより、(名誉職的に)剣理を極めたと認められた結果と考えます。
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歴代の将軍の内、切り殺された将軍は 1. 源頼家 2. 源実朝 3. 護良親王 4. 足利義教 5. 足利義輝 鎮守府将軍も、3位以上の官人が兼務すると征夷大将軍と同格になるので、 同じと考え 北畠顕家(鎮守府大将軍) このうち、実際に剣をふるって戦って殺されたのは北畠顕家(戦死)、足利義輝で、源頼家、護良親王は押し込められて、どさくさに紛れて殺され、源実朝、足利義教は刺客に襲われて落命、このうち護良親王と北畠顕家は実際に戦陣に立って戦っている実績もあるので、それなりに強かったと思いますけど、武家の棟梁が自ら剣を振るうのは負けて味方が散ったときですから、どうしようも無いです。
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回答ありがとうございます。たしかにそうですねえ・・・
「殿、お強い」「筋がおよろしい」というような、接待稽古だったのでしょうね。 本気で、打ち込んだり、本気で、鍛え上げようと、試みる無茶な師匠がいるとも思えません。 徳川家よりも、まだ地方のお殿様のほうに、多少ユニークな人材がいたところを見ると、真綿でくるむように大事にされ、個性がなかなか育たなかったと、思われます。 少しインパクトのある将軍は、他家からの人物ですしね。
お礼
回答ありがとうございます。たしかに・・・武芸稽古とはいえ、将軍様にケガさせたら大変ですものね。
- yochanjr
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もちろん、たしなみとして武芸は練習しました。なにしろ武家の棟梁ですから。 徳川将軍ですと柳生家が指南役であったといわれていますし、 足利将軍もそれなりに修練はしていたようです。 第13代足利将軍義輝は、三好勢の謀反にあったときには 名刀を畳に差し、襲い来る敵兵を刀をとっかえひっかえして、 切り倒していったといわれています。かなりの武芸の心得があったものと思われます。 全ての将軍がそれほどの心得があったとは思えませんが、 それなりに修練はしていたものと考えて間違いないと思います。
お礼
回答ありがとうございます。7人の侍の一場面のようですね。事実だとしたら相当の腕前ですね・・・!?
- kawakawakawa13
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初期の征夷大将軍は、のちのそれと違い、派遣軍の指揮官としての役割で、自分も武将として戦うわけですから、個人的武術も要求されました。 しかし、鎌倉幕府が開かれ、執権が実権を握るようになると、武芸は要求されなくなります。 室町幕府では、先頭に立って戦うことよりも、政治的象徴とされるようになります。 以後、戦術指揮官というより、戦略指揮官と象徴としての働きが求められ、武芸はあまり要求されなくなりました。 でも、「武士の嗜み」として、一通りはしたみたいです。
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回答ありがとうございます。
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回答ありがとうございます。信長って逃げ足速かったんですか。意外。