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青蓮院、将軍塚、坂上田村麻呂について
- 桓武天皇が和気清麿呂の案内で将軍塚を訪れ、都の安泰を祈念したと伝えられる。
- 将軍塚は鳥羽僧正絵巻に描かれており、その存在は資料により裏付けられている。
- 青蓮院は門跡寺院となり、具体的な経緯は不明だが坂上氏から土地を譲られた可能性がある。
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質問者様が細かい点まで考えておられることが分かりましたので、補足させて頂きます。 私が『歴史読本』で確認した「将軍塚縁起絵巻」は、全体が写真で8分割されて掲載されたものです。 私が引用したのは、全体を解説した文章の一部です。 もう少し解説文をご紹介します。 “紅葉の名所栂尾の高山寺が所蔵するこの絵巻は、将軍塚を造営するところを描いた詞(ことば)のない白描の絵だけの絵巻である。 (中略) この絵巻を通観してみると、全巻粗暴ともいえる筆致で東山山頂の光景を豪快に描破しているが、前半の造営に働く人夫たちを表す軽妙な描線は、いかにも忙しげな雰囲気や掘り返されて足の踏み場もない光景を巧みに表し、後半の検分の官人を描く息の長い描線の流麗さや、甲冑を着けた土人形の持つ弓の弦を、一回継ぎとはいえ、一分の弛緩もなく引き切った腕の冴えは、高山寺の鳥獣人物戯画の伝統を引く大和絵白描画の高い水準を示している。おそらく鎌倉時代前期の作品なのであろう。 しかし、この絵巻に登場する人物の服装は、制作された時代のそれより古様を伝えているようである。前半に登場する人夫たちの細く長い袖や髻(もとどり)を包む幞頭(ぼくとう)、後半に登場する官人の萎装束(なえそうぞく)(鎌倉時代の強装束に対して柔らかい服)、短い巾子(こじ)、幅の狭い袍の袖、短い裾、細く先の角ばった笏、反りのない直刀など、延暦時代もさこそと思われる服装である。また、甲冑についても、現存する平安時代末期の大鎧と比べると、その形式は古様に思われるし、太刀も直刀である。鍬形が後方に垂れ下がるほど反っているのも、古様を示しているのであろうか。 しかし、官人の袍については、鈴木敬三氏が、丸首のままとせず刳りこみを描いている点に、新しい時代の服装の混入があることを指摘され、大鎧については、制作年代より古様とはいえ、末永政雄氏が、後三年合戦当時の様子が復元的に推察されると考えられている。 京都の時代祭に登場する延暦武官の古墳出土のそれを思わせる甲冑はともかくとして、この絵巻に登場する人物の制服に、延暦時代の面影を求めるのは無理であろうが、この絵巻の制作に当たって、古い時代の本を手本にしたことは考えられよう。 この絵巻は、縦38cm、横380cm、8枚の紙を継ぎ、各継ぎ目に高山寺の他の絵巻同様「高山寺」の朱印を押し、巻頭には「高山寺」朱印のほか、「十無盡院」の朱印も加える。” つまり、「将軍塚縁起絵巻」は、同時代に描かれたものではなく、後世平安末期に描かれたものだということです。 しかも一切鳥羽僧正が作者だとは言っていません。 栂尾・高山寺所蔵なので、その可能性はあるのでしょうが。 8枚の絵の下に書かれている解説文をご紹介します。 (1) 「二人一組になって枋(おうご=てんびん棒)で土を運ぶ十二人の男。 幞頭に窄袖の欠胯衫(けっこさん)は無位を表す。」 (2) 「造営前の山頂の光景。 老樹が立ち並び、下草が生い茂っている。 その描線は奔放を極めている。」 (3) 「鍬やシャベルで土を掘り、塚を築く男三人。 激しい筆致が工事の喧騒を暗示する。」 (4) 「工事現場と造営完成場面とのつなぎ。 土坡の描き方に大和絵の伝統がうかがわれる。」 (5) 「完成した塚の正面。 『都名所図会拾遺』にも「塚上老松四五株」とある。 松の簡略な描き方がおもしろい。」 (6) 「入口を斜めから描く。 検分の官人の下半身がみえる。 塚の輪郭線の筆勢がみごとである。」 (7) 「西を向いて立つ土人形とその前に立つ検分の官人。 人形は鉄の甲冑を着け、鉄の弓矢をもっている。」 (8) 「塚のなかでひざまずいて長の検分をみつめる従者五人。 冠も束帯も古様に描かれている。」
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- technatama
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延暦13年(794)、平安京に遷都したとき、桓武天皇は都の長久を祈って、土で8尺の人形を作り、これに鉄の甲冑を着せ、鉄の弓矢を持たせて、西向きに立姿のまま埋めたそうです。 (私の持っている『歴史読本臨時増刊号(79-6)』征夷大将軍系譜総覧の中で、「将軍塚縁起絵巻」の解説を当時の京都国立博物館の中野玄三氏が書かれている文章が出典です) 質問者様が引用されている説明文に「その後」とあるのは、「都を定める決心」をしたのち、実際に造営を開始したときに、と解釈できると思います。 青蓮院門跡の由来については、 平安時代末期に、青蓮坊の第12代・行玄大僧正に帰依した鳥羽法皇が、第7皇子をその弟子とし、院の御所に準じて、京都に殿舎を造営、青蓮院と改称したのが門跡寺院としての始まりだそうです。 http://www.shorenin.com/info/
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回答ありがとうございます。 中野玄三氏の解釈では、人形を埋めたのは桓武天皇となっているのですね。 >質問者様が引用されている説明文に「その後」とあるのは、「都を定める決心」をしたのち、実際に造営を開始したときに、と解釈できると思います。 ふつうに考えるとそうですね。 でもある神社の塀に神社の由来を記した絵巻が展示されていまして そこに宇佐八幡神託事件のことが書かれてあったんですね。 その中では称徳天皇も光仁天皇も同様に「お天子さま」とあり さらに、称徳天皇が崩御して光仁天皇が即位したことが書かれていませんでした。 絵も、称徳天皇は御簾の中の着物がちらりと見えているだけでした。 あれは宇佐八幡神託事件を知らない人が読んだら お天子さまはひとりだけだと勘違いするだろうな、と思いました。 また、鳥羽僧正が将軍塚絵巻を描いていて、その中に将軍塚に人形を埋める絵があるそうなんですが 鳥羽僧正は桓武天皇よりあとの時代の人なので、もしかしたら鳥羽僧正が生きていた時代に人形を埋めたのだろうか、とも思いました。 その将軍塚絵巻の内容が確認できないので、なんともいえないのですが。 青蓮院の由緒についてはに、貼っていただいたサイトにある通りだと思いますが 坂上田村麻呂がなくなったのが粟田で、青蓮院の住所も粟田、さらに青蓮院は坂上田村麻呂(将軍塚の案内板には坂上田村麻呂の人形と記されているようです。)ゆかりの将軍塚を飛び地としてもっていることから、何か関係があるのだろうかと思ったわけです。 しかしながら、歴史読本の中で桓武天皇が人形を埋めたという記述があるということは大変参考になりました。 一般的に、人形を埋めたのは桓武天皇であると認識されているということだと思います。 ご回答をありがとうございました。 心よりお礼申し上げます。
お礼
うわあ~、何度も回答をありがとうございます! 「将軍塚絵巻」見たかったんです。 解説文の転記、説明をいただけてすごい嬉しいです。 うう・・・・これだけの文章を転記するのってすごい時間がかかったと思います。 本当にありがとうございます。 絵巻には詞書がないのですね。 そして、着ているものが少し流行遅れのファッションであると。 延暦時代・・・するとやはり桓武天皇代に人形が埋められたのですね。 あるいは、桓武天皇が将軍塚に人形を埋めたという言い伝えがあって、それに基づいて描いたものであるかも。 そうではあるけれど、官人の袍は新しい時代のものというのが面白いですね。 梅原猛さんが昔の人は生きている人と死んだ人を明確に区別しないと言っていたことを思い出します。 例えば古今和歌集に「平城帝が柿本人麻呂と身をあわせた」という記述がありますが、二人は生きていた時代が違うんですね~。 末永政雄氏が、後三年合戦当時の様子が復元的に推察されるとおっしゃっているのですね。 このとき、将軍塚は鳴動して予兆をしめしたのでしょうか。 歴史読本、図書館にあるかもですね。 探してみます。 本当にありがとうございます。