• ベストアンサー

哲学的に善悪とは何?

哲学的に善悪とは何でしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.8

古代ギリシャ哲学で、義だったか善だったか忘れましたが、今回 義も善も同一として考えるとして、、、、 集団全員が同じ思考だと、たとえ間違えていても、善としか思えませんよね。 これはいくつかの宗教が正義とう名目で大量殺人をやっていることと同じことです。 大量殺人 のっとり行為ですが、それは善だとその宗教は言い張っています。 その宗教全体が同じ思想なので、日本人が見て大量殺戮 強奪としか思えない悪事を、その宗教・国家は全くの善とて、暴力と威嚇と強迫により他の国を脅して文句を言わせないようにしている。 その宗教・国家がヤクザ・マフィアなわけです。 宗教という名の麻薬を信者に与え、奴隷としてしまった。 全くの欺瞞で愚かな宗教団体ですが、、、彼らは気づきもしない。 全体が同一の思想になるよう刷り込まれてしまったからです。 自分達の教義を疑うと死んだら地獄に落ちると刷り込まれたので、疑う自由も許されない奴隷が信者の実態です。 さて、古代ギリシャ哲学では、義を証明するにはどうしたらいいかと考えたようです。 それは、全ての善をその人から剥ぎ取ってしまうというやり方。 例えば何か善をやった褒美として名誉を与えられたら、その人はその褒美のために善をやったのかもしれないですよね。 あるいは誉めてもらうとたくらんでやったかもしれない。 それではその人が本当に義なのか証明できない。 そこで、その人から全てを奪うのです。 名誉も地位も財産も全て奪い取って、鞭打たれ槍で突かれ十字刑になろうと、最後まで善を訴え続けた場合、その人は善だとなる。 こう古代ギリシャ哲学では考えたようです。 確か紀元前、、、何百年頃だったか忘れました。

pas26
質問者

お礼

>集団全員が同じ思考だと、たとえ間違えていても、善としか思えませんよね。これはいくつかの宗教が正義とう名目で大量殺人をやっていることと同じことです。 そうですね、かつて日本でもオウム真理教がそうでしたね。 とても詳しい説明によるご回答ありがとうございました!

その他の回答 (14)

  • nisekant
  • ベストアンサー率11% (13/112)
回答No.15

ありません! ショーペンハウアー「哲学とは自然の模写でなくてはならない!」

pas26
質問者

お礼

そうですか、ご回答どうもありがとうございました!

pas26
質問者

補足

そもそも善悪の基準とは何でしょうか?

noname#31063
noname#31063
回答No.14

善は幸せで楽しんでやってます。 すでに報われている自分がいて、目的も同時達成しているので それ以上に見返りを求める必要を感じない。 悪は否定する発想から来ていて 今の自分以上のもの、或いは以下になるべく 報われることを目的にしている。かと。 後、一人の利益が多数の利益を奪い上回る場合は悪です。

pas26
質問者

お礼

なるほど、そうかもしれませんね。 ご回答どうもありがとうございました!

回答No.13

補足を御要望ですので簡単に。 ヴィトゲンシュタインの著書『論理哲学論考』に、こう述べられているそうです。 『梯子を登りきったのち、それを投げ捨てなければならない。』 申し訳ないことに私は、この著書を読んでいません。今のところ、あまり読む必要を感じませんもので。御質問者様は、もし御興味を持たれましたら一度御読みになられてみては?著者は、なかなか人気が高く有名です。 「梯子」というものは、当然ですが、掛けないでいる限り、はずすことなどできません。当たり前ですね。 哲学的思索というものは言うなれば「梯子を掛け、それを一段一段上って行く」作業のようなものでしょう。 そのプロセスを一足飛びに端折って、いきなり見下ろすことをしたがる人は天才でなければ横着者か、うぬぼれやです。 (根本的な思考能力の差を指摘なさる人もいますが) 少なくとも哲学向きではないでしょう。たとえ天才の名に値する人でも最初から端折ろうとはしていないのじゃないかと思います。 登りきってこそ、次は投げ捨てる番です。だが登ってもいないうちから投げ捨てる梯子とはなんでしょうか。 私は、このように単純に理解しています。

pas26
質問者

お礼

>もし御興味を持たれましたら一度御読みになられてみては? そうですね、暇ができたら読んでみます。 >だが登ってもいないうちから投げ捨てる梯子とはなんでしょうか。 哲学的思索が完成の域に達していないということでしょうかね。 補足に対するご回答と説明ありがとうございました!

回答No.12

「義」ということを挙げていらっしゃるかたがおられますので、つい釣られまして。 「義を見てせざるは勇なきなり」というコトバがあります。 「勇ありて義なきは乱を為(な)す」ともいう。 義のない行為に加担するのは蛮勇だとも。 勇でないもの、勇以外のものがそこにあるとき、それは義ではない。 勇があっても義でないものは似ても似付かぬものに成り下がってしまう。 根本原理を追求する学問が哲学というものだそうです。 少なくとも、条件という条件付けを全て排してのちに残るものが「哲学的な」善悪というものでしょう。 「はしごをはずす」のは、それからではないでしょうか。

pas26
質問者

お礼

アドバイスどうもありがとうございました!

pas26
質問者

補足

>「はしごをはずす」のは、それからではないでしょうか。 意味がよく分かりませんので、補足をお願い頂けたら幸いです。 読解力がなくて申し訳ありません。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.11

No.8です。 >そうですね、かつて日本でもオウム真理教がそうでしたね。 そして現在のアメリカがそうです。 正義という名の破壊・のっとり・虐殺です。 日本人 いえ どの世界から見ても明らかに強奪・破壊・大量殺戮ですが、アメリカの宗教ではこの強奪・殺人は正義のためだ確信しています。 これに反対してアメリカやイギリスの戦争を支援しなかった国に対し、ブッシュはイラクをのっとった後の利権にはありつけないぞ と脅しました。 ちなみにブッシュは自らをもっとも敬虔なキリスト教徒であるとし、アメリカのキリスト教徒もそうだと同意し、彼を再選させ帝国の維持を熱望し実現させました。 社交サロンとも言われる国連でしたが、アナン氏がこの巨人にくいつきました。 しかし、逆に国連の別の姿である死の商人の面を公表されてしまい、「人のことは言えないだろう 国連も随分と悪よのう」とやられてしまった。 完璧な集団はいない。 それぞれに正義がある。 正義は一体いくつあるのでしょう。 先に書いた古代ギリシャ人の義の証明。 何百年か後に、新約聖書という物語によってその空想上の義の人が語られています。 そしてさらに2千年後、その義の人を崇拝する人たちによって、イラクがあんな目にあっている。 イラクにエデンの園はあったとも言われています。 現代のイラクは滅茶苦茶に破壊されてしまった。 エデンの園があったとされるイラクが、その新興宗教によって破壊されてのっとられてしまった。 因果なのでしょうか。 古代ギリシャ哲学が考えた義の証明という思想が、地球に永遠に虐殺・のっとり・破壊をする宿命をもたらしてしまった。 ということで、誰一人義を証明できる人はいないし、哲学で義の証明ができた人もいない。 みな義を見つけようとして、沢山の人を殺してしまう結果を産むこととなった。 義とはかくも恐ろしい破壊の神なり。 カッバーラに生命の樹という概念があります。 日本の門松にも現れています。 主柱の右が慈悲、左が峻厳です。 生半可にこの峻厳に近づくものは、滅ぼされると言われています。 生半可に義を追い求めると、大量殺人・破壊・のっとりをやりたくて仕方なくなるって事なのでしょうか。 生命の樹を逆さに辿っていくものは、全ては逆に思えるそうです。 生命の樹を昇っていっているとしか思えなくなり、人々がムゴイと思うことを、正義だとしか思えなくなるそうです。 ブッシュを再選させた巨大な宗教信者たち。 彼らは義を生半可に追い求め峻厳に近づこうとしたため、世界の人が批判していようと自分たちは義をやっているとしか思えなくなってしまったと思えます。 彼らの住む逆の世界は、日本語では地獄と呼ばれるものだと思います。 生きながら地獄に住む人々。 意外と地獄とは身近なもののようです。 死んでから行く世界ではなく、生きているのに地獄に住む。 しかも自分が地獄にいることしら気づかないでいる。 どんなひどいことをやったので、生命の樹に逆さに貼り付けにされる罰をうけることになったのでしょうね。 生半可に義を追い求めたからだと思えます。

pas26
質問者

お礼

とても詳しい説明によるご回答どうもありがとうございました!

回答No.10

遅ればせながら、素人が少し。 善悪に関しては今まで色々と質問もあるでしょうし、 なかなか難しい問題のようです。 私見ですが、一先ず、カントから始めるのが分かり易いのではと思います。 「我々の住む世界においてはもとより、およそこの世界のそとでも、無制限に善と見なされえるものは、善意志のほかにはまったく考えることができない。」 「それだから常識がこのコンパスを手にして、およそ事の起きるたびに、何が善であり何が悪であるか、何が義務にかない何が義務に背くかを判別する技に熟達している様子を指摘するのは、極めてたやすいことであろう。・・・それだから誠実で善良あるためには、それどころか賢明で有徳であるためには我々は何を為すべきか、ということを知るのは、何も学問や哲学を必要としないのである。」道徳形而上学原論 岩波文庫 つまり、カントは、善悪については誰もが知っている。 しかし、感性や傾向性によって、善を実践することは容易ではない。としています。 ではなぜ、人は善悪について尋ねるのでしょう。 善は誰もが分かっている、しかし 私の善、あなたの善、私達の善、社会の善と考えると、同じ善が対立する事は容易に想像ができます。 そこで、色々な議論が現れてくるのですが、善悪に関しては、因果関係が確認できないというか、同じ行為が善とも悪ともとれる訳で、常識的な結果から善悪を判断する事は、哲学的な思考からは、少々ずれてしまうのかも知れません。 さてさて、 私はカントの説を一先ず信じたいですね。 善とは何かと問う事、善の根拠を追求する事は、善の名において、悪を行う議論のすり替えかもしれません。 例えば、道で子供が困っていたり、中学生が隠れてタバコをすっていても、あれこれ理由を付けて、見てみぬ振りをする事が多いでしょう、理由を付けるという事は、すでに、した方が善い、でも・・ 私たちは、善とは何かについては、よく知っているのです。

pas26
質問者

お礼

>私たちは、善とは何かについては、よく知っているのです。 そうなんですかねー、いろいろ考えれば考えるほど自信ないですが・・・。 詳しい説明によるご回答ありがとうございました!

  • htx2005
  • ベストアンサー率25% (22/87)
回答No.9

哲学的にとは哲学的な見解での善悪でいうならば、 その定義はありません。 その2極は社会的または倫理的かつ道徳的見解において 検証評価されるべきものであり 哲学的などという思考ゲームや理屈問答において それを問うことは無意味です 善悪とは性善説や性悪説などの宗教的土壌に根ざした既成概念や 政治的背景に照合された思想的見地での善悪という きわめて流動的で解釈に変化をともなうものまで、 標準化された基準値が、 時代や場所に左右されるものであり、また 個人レベルでの解釈によっても その判断hあまちまちであります。

pas26
質問者

お礼

>その2極は社会的または倫理的かつ道徳的見解において 検証評価されるべきものであり 哲学的などという思考ゲームや理屈問答において それを問うことは無意味 確かにそうかもしれませんね。 哲学において、善悪を問うのはおかしいかもしれません。 やはり、善悪は極めて流動的で、解釈に変化を伴うものなのでしょうね。 アドバイスどうもありがとうございました!

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.7

#3です。ご返事ありがとうございました。 哲学は全くの素人でして、他の回答者の方々の見解を拝見でき非常に嬉しく思っております。 ご質問者の方にも感謝いたします。 「時空を超えて善であり、あるいは悪であること」に特に深い意味などはありません。 仮に「完全なる善悪」があるとすれば、それは普遍性を持ったものでしょうし、即ち時間や空間を超越した概念であるはずです しかし、誰にとって「完全なる」なのかということを考えた場合、今度は「完全」とはどのような状態かという問題が出てくるはずです。 人間は他の生命を犠牲にしなければ生きられない存在であるという事実がある以上、 全ての状況に通用する「完全なる善」というものが果たして成立し得るのか。 これを特定して言語で表現しようとすることは、神の存在を確認しようとするのと同じぐらいに難しいことなのかもしれない。 しかし、表面的な現実的判断を安易に下さずに本質的善を模索しようとする姿勢自体が哲学的善であり、 そこから導き出される善は、完全とは言えなくとも次第に理想形に近づいていき、「完全なる悪」の放逐に多少なりとも有効な現実性を持ち得るのではないか、と思うわけです。  

pas26
質問者

お礼

>完全とは言えなくとも次第に理想形に近づいていき、「完全なる悪」の放逐に多少なりとも有効な現実性を持ち得るのではないか そうですね、確かに理想形に近づけば、完全なる悪の放逐に有効な現実性を持ち得るかもしれませんね。 補足に対しての詳しいご回答どうもありがとうございました!

  • Helfgott
  • ベストアンサー率44% (66/149)
回答No.6

ものすごく単純化して言うと、歴史的にみて最初に成立したのは、 共同体が決める規範=善悪でした。つまり、人間が集まって共同の 生活をするようになると、お互いの利害を調整するために、善悪の 基準が生まれてきます。「おらが村の掟」ですね。 もう少し進化したのが、宗教が決める善悪です。これは、キリスト 教に典型的に見られるのですが、小さな部落や民族を超えた超越神 というものがいて、それが全ての世界を創造した存在で、なおかつ 善悪をも司っている、という考え方でした。これが今までと何が違 うかというと、善悪は人間やその共同体が決めるものではなくて、 それをはるかに越えたところにあるのだ、という「革命的な」考え を導入したことです。 今日でもアメリカでは妊娠中絶の善悪などに関して、日本では想像 できないくらいに厳しい議論が行われますが、これは「神の掟」を 守るかどうか、というレベルで、彼らが考えているからですよね。 この「神の決める善悪」という考え方は、20世紀になってニーチェ が「神は死んだ」と宣言することで、だいぶ揺らぐことになりまし た。ニーチェは宗教的な善悪を否定したのであって、善悪そのもの を全て否定したわけではないと思うのですが、彼の思想が影響力を もった結果、恐るべき事実に我々は突き当たりました。それは、 「善悪を決める決定的な根拠など、ないかもしれない」という、突 き詰めるととてつもなく恐ろしい考えだったのです。 「善悪の根拠はない」とすると、実は殺人でもなんでも、全てが肯 定されることになりかねません。そして、確かに善悪を決める絶対 的な根拠など、ないのです。「善悪に絶対的な根拠はない」という 考え方は、「善悪はああも言えるし、こうも言える」という、相対 主義の考え方を広げることになりました。 また、善悪はわからないのですが、「快楽」ならわかる、という考 え方も広がりました。「善悪」は考えると難しいのですが、「快苦」 は、誰にとっても明瞭なものだからです。「快=善」と考えると、 ある意味すっきりします。これに「他人に迷惑をかけてはならない」 という前提がついた上で(これがないと、殺人でもなんでもOKという ことになってしまいます)、個人は快楽を追求してよい、という考え は、資本主義的な価値観と相まって影響力をもつようになりました。 こうした風潮に対する反動で、善悪というものは、証明などしなくて も、根拠などなくても、理屈抜きであるのだ、という考え方も根強く、 中でもそれを伝統の中に求めようとする主張が今日では強くなってい ます。会津白虎隊の「什の掟」の最後には、「ならぬものはならぬもの」 という掟がありますが、善悪は、もはや考える余地なくあるものだ、 ということですね。また、イスラム原理主義のような、宗教的な善悪 に回帰していく傾向も、世界的には強いです。 突き詰めて考えると、例えば殺人がいけない、としても、それは人間 のレベルで考えている話で、動物まで広げて考えると、人間が牛や豚 などを殺して食べるのは正当なのか?などという問題も出てきます。 ニーチェ以降の私たちには、安定してものを語れるような地盤がなく なってしまいました。哲学者は、無重力状態の中でなんとか善悪につ いての解答を見つけようとしている、というのが、現在の状況といっ てもよいのではないでしょうか。

pas26
質問者

お礼

>哲学者は、無重力状態の中でなんとか善悪につ いての解答を見つけようとしている そういう現状があるわけですね。 それにしても、善悪の基準を定めるのって困難ですよね。 歴史的背景からのとても詳しい説明によるご回答ありがとうございました!

  • nabayosh
  • ベストアンサー率23% (256/1092)
回答No.5

善悪については、哲学の大御所達が語ってきました。 その限りにおいては、行動の基準となるもの、と言えるかもしれません。 善悪が定められていないことについては、どう振る舞うことも自由ですが、その代わりどれかを選ぶということはできなくなる。しかし生きている限りは選択を迫られるので、何かしらの理由をつけてどれかを選ぶしかない。その時に設定される「行動の基準」が善悪である、と私は解釈しています。 しかし、ニーチェが登場してから、その様相はがらりと変わります。 善悪はどうやって生まれたか、とか、善悪を超越した彼岸について語られはじめたのです。 これは現代に大きな影響を与えています。 その後20世紀は、「善悪を抜きにした学問」として科学技術が進歩しましたが、大きな戦争や公害をもたらすことになりました。その反省を踏まえてモラルが問われる時代になったのが今です。 私が尊敬する思想家のウィトゲンシュタインは、善悪のようなものは「語りえぬもの」であるとし、それについては「沈黙しなければならない」と述べています。彼は善悪は哲学の問題ではない、と言い切っていますね。 私たちが「善悪」と日常使う時、どうしてもその局面に応じて判断された善悪のことを指します。将棋に例えれば相手の駒を取ることは目先の善ではありますが、その結果負けてしまってはなんにもなりません。目先の善悪に惑わされると、最終的な目標を見失ってしまうことが多いのです。 善悪を語ることは、賢慮の欠如なのかもしれません。

pas26
質問者

お礼

>生きている限りは選択を迫られるので、何かしらの理由をつけてどれかを選ぶしかない。その時に設定される「行動の基準」が善悪である なるほど、確かにそんな気がしますね。 >善悪のようなものは「語りえぬもの」であるとし、それについては「沈黙しなければならない」 そんな見方もあるんですね。 >善悪を語ることは、賢慮の欠如 確かに、目先の善悪に惑わされて本質が見えなくなるのは、賢慮の欠如かもしれないですね。 詳しいご回答どうもありがとうございました!

関連するQ&A