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善悪に対する基本的な勘違い
私たちは結果を見て善悪を判断しようとしますが、 善悪は人の心の属性であって、物理現象としての結果に善悪はないのではないでしょうか。 私が寄付を行ったとしても私が善人であることにはなりません。 結果を見て善悪を判断することは本来であればできないと思われないでしょうか
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- aomushi3cm
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たとえば、広島と長崎に原子爆弾が落とされましたが、何が結果なのでしょう。 人が死んだ、殺したことですか。 日本が無条件降伏した、連合軍が勝利したことですか。 何を意図して、期待して行動したかという、善意、悪意が問題なのだと思います。 あなたが行った寄付は善意だったのではないですか。 金銭目的でうその寄付を募り、あなたの寄付が人殺しのための包丁購入に使われたとしても、あなたの善意は善だと思います。
お礼ありがとうございます そうです 人によって感じ方は違います 善悪は誰が決めるのでしょう 何が基本なんでしょう 答えはない だから答えがない だから自由ってこと
お礼
ご回答ありがとうございます。 そもそも他人の善悪を評価する必要があるのかと思いますね。
結果を見て善悪を判断する場合 それは結果に対しての判断だと思います その結果を出す過程は見なくても判断できますよね でも人としての善悪は結果だけでは当然判断できないし 判断しちゃいけないと 私も思います
お礼
ご回答ありがとうございます。 結果というのは観察者によってその意味が違います。 ある人にとって悪い結果も別の人によってはよい結果であるかもしれません。 結果をみて善悪を判断するということは、結果の持つ意味が善悪の判断に影響されてしまうのです。 私たちは日ごろ無意識にそのような判断を行ってきました。 それゆえ善悪は相対的なもの(ある人にとっては悪、ある人にとっては善)になってしまったのだと思います。
人間であれば善の心や悪の心は皆持ち合わせているものです。 善の心は行いとして行動に表した方が良いし、悪の心は行動に移したりはしない方がよいものです。 それは理性で歯止めが効くものですし、善は結果を期待するものではないと思います。 偽善でも、やらないよりやった方がましなのが善。 善は人の評価なんか、本来、どうでも良い事なのではないでしょうか。
お礼
ご回答ありがとうございます。 極論すればその通りですね。 善悪の物差しですべてを図ろうとすることがそもそも無理があるのでしょう。
- jinseiwalk
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はい、そのとおりです。 さらに宗教家がこれみよがしに寄付している行為は偽善そのものです。 また、美醜もありません。これも個人の属性で、同様に浄不浄=きれいきたないもありません。 これを理解するのを悟るといいます。
お礼
ご回答ありがとうございます。 結果を評価するせいで人の言う善悪は相対的なものになってしまいました。
お礼
ご回答ありがとうございます 問題は自分の意図を正確に理解しているかということになりそうですね。