- 締切済み
大納言
徳川宗春は大納言でしたが、大納言とはどう言った位なんですか?。
- みんなの回答 (4)
- 専門家の回答
みんなの回答
- m41
- ベストアンサー率30% (346/1127)
これが解りやすいと思います↓
- notnot
- ベストアンサー率47% (4900/10358)
大納言自体の説明はすでに出ていますが、これは律令制度の京都貴族の話です。 江戸時代では、京都貴族と別に武家に形式だけの官職を与えるようになっています。武家官位といいます。これは律令制度の定員外で、律令制度の役職の意味は無く全く名誉職です。具体的な仕事はありません。 家格に応じた役職がなかば機械的に与えられました。紀伊徳川家と尾張徳川家が大納言で、水戸徳川家が中納言です。
お礼
有り難うございました、また宜しく。
- Willyt
- ベストアンサー率25% (2858/11131)
大宝律令ので定められた官職で、太政大臣、左大臣、右大臣に次ぐ大官です。そうは言っても4番目。飛鳥時代には今をときめいていた大伴氏は平安時代には零落れて大の字をなくし伴大納言に成り下がっていました。応天門の変では讒言がばれて捕まり官位剥奪の憂き目に遭い、大伴氏は断絶してしまいました。しかし武士にとっては目の眩むような大官でした。上杉謙信でさえ弾正少弼。警視庁の次官より低いですね。井伊直弼は掃部頭 掃除人夫の頭目。しかし秀吉は関白。令外の官ですが、武士ではただ一人です。あ、秀次がいた(^_^;) 水戸光圀は中納言。これも令外です。 大納言が機能していたのは極くわずかの間で、蔵人所、つまりは秘書室の長官である蔵人頭が権力を持つようになり、大納言はお飾りになってしまいました。摂関家の若い跡継ぎは大納言ではなく、蔵人頭を経て大臣の位に登って行きました。秘書官が力を持つのはソ連の書記、江戸幕府の側用人など、よくある例ですね。
お礼
ご苦労様でした。
- tatsumi01
- ベストアンサー率30% (976/3185)
飛鳥時代から(形式的には)江戸時代まで日本の政治制度は律令制度です。律令制度ではいろいろな役所がありますが、現在の内閣に相当する役所が太政官です。 太政官の長官(かみ)が、太政大臣、左右大臣ですが、太政大臣は滅多におかれないので、左右大臣が現在の首相でしょうか。太政官の次官(すけ)が大納言、中納言です。三番目(じょう)の位が少納言、丞、四番目の位(さかん)を録と言います。 したがって、大納言は副首相あるいは内閣官房長官といったところでしょうか。ただし、江戸時代の官職は名前だけで実際の業務には関係ありません。大納言も中納言も官職としては非常に位が高いので、普通の大名ではとても貰えず、御三家だから貰えたのでしょう。
お礼
ご苦労様でした。
お礼
また宜しく。