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なぜ文学作品は「過去形」で書くものなのか

一般的な文学作品は、大体「~であった」「~した」という過去形で書かれているものです。これはどうしてこうなったのでしょうか。日本だけではないと思われるので、どういう世界共通の認識があって、こういう方法が確立したのでしょうか。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.4

質問者氏がどこまでの知識を求めていらっしゃるのか、いまひとつよくわからないのですが、この問題は、それほど簡単なものではありません。 最初に、日本語の記述と「物語文」そのものをいったん分けて考える必要があります。 日本語の過去形「~た。」という文体は、明治以降、翻訳によって作られた、とする柳父章の論考『近代日本語の思想』(法政大学出版局)があります。 詳しいことは同書を読んでいただくとして、ここで要旨だけを書いておくと、近代より前の日本の文章には切れ目というものがなかったこと、「文」という概念そのものがなかった日本語の文体に、明治期、翻訳によって「文」の切れ目がつくられていき、句読点などが苦心して導入されていった経緯が述べられます。 さらに、近代日本の小説に決定的な影響を与えたのが、二葉亭四迷が訳したツルゲーネフの『あひびき』で「有ッた。」「のぞかれた。」「傾けてゐた。」という「た」止めの文体が翻訳によって生みだされたことが明らかにされています。 > 一般的な文学作品は、大体「~であった」「~した」という過去形で書かれているものです。 という文体は、翻訳によって生まれた、と柳父は結論づけています。 その翻訳の原典である西洋の文学作品は、一部の実験的な作品を除けば、そのほとんどが「過去形」で記述されています。 それはどうしてか。 デイヴィッド・ロッジは『小説の技巧』(白水社)のなかで、端的にそれを語っています。 ----p.186からの引用------ 小説の想像の世界に入り込むために、我々は登場人物と同じ時空に身を置かねばならないが、未来形ではそれができない。過去形は物語にとって「自然」な時制なのだ。現在形ですら、何となくしっくりとこない。なぜなら、何かが書かれているということは、論理的にそれがすでに起こっていることを前提としているからである。 ------- この「何かが書かれている」ということをもう少し詳しく見ていくと、ダントの「物語文」になります。 アーサー・C・ダントは『物語としての歴史』(国文社)のなかで「少なくともふたつの時間的に離れた出来事を指示し、そのうちの初期の出来事を記述する」のが「物語文」であるとしています。この特徴は単に文学作品のみならず、出来事を記述するあらゆる文に現れている、とも。 ダントはサンプルに「三十年戦争は、1618年に始まった」という文章を取り上げます。 これは 1.1618年に、「あること」がおこる。 2.1648年以降のあるときに、「あること」を起点とする一連の出来事を「三十年戦争」と名づける。 というふたつの出来事を結びあわせた文章です。 つまり、「三十年戦争」のことを記述しようと思えば、2の時点よりさらにあとにならなければ、それを記述することはできません。 より本質的には、わたしたちは現におこりつつある出来事を単独では認識することはできません。わたしたちの認識とは、それに先行する出来事と、いま起こりつつある出来事を結びつけた、原因と結果の関係、すなわち、物語という形式を必要とするのです。 神話なり、昔話なり、大昔から人間とともにあった「物語」という形式は、同時に、人間があらゆる事象を、自分が認識し、理解し、他者に説明して共有するための形式としてありました。 語り手が行き会った「出来事B」を先行する「出来事A」と結びつけて、「Aということがあった」と語り、記述してきたわけです。 何かが語られる、あるいは記述される、ということは、すでにそれが起こってしまっているからこそ可能なので、必然的に「過去形」ということになります。 わたしたちの認識の形式がそうなっているために、「過去形は物語にとって「自然」な時制なのだ」ということになるのです。 相当に荒っぽい回答ですので、不明のところがあれば補足してください。

noname#32495
質問者

お礼

大変勉強になりました。しかし、日本には過去形文学は一般的ではなかったんですね。翻訳で生まれてきた「~た」なんですね。そして、心理的メカニズムは非常に納得できました。物語を語るという事は、必然的に過去を語ることなんですね。

その他の回答 (3)

  • Big-Baby
  • ベストアンサー率58% (277/475)
回答No.3

 日本語以外なら文学作品で過去形を使わない(or 過去形がない)言語はたくさんありますよ。いちばんよく知られている例なら、漢文。漢文に過去形などありません。日本書紀の冒頭です。  古天地未剖,陰陽不分,混沌如鶏子。(いにしへ、天地いまだ剖れず、陰陽分かれず、混沌たること鶏子のごとし)  西洋語でも歴史的現在という書き方があります。過去形はあっても、過去形の代わりに現在形を使うものです。日本語に訳す場合は、過去形に訳す人が多いですが、それは日本語訳の問題に過ぎません。  英語にも歴史的現在の用法があります。参考URLを参照ください。

参考URL:
http://www.englishcafe.jp/tense2/1-2-1.html
noname#32495
質問者

お礼

そうですか。日本語以外には現在もあるのですね。

noname#22222
noname#22222
回答No.2

幸子は、部屋のカーテンを開けてコーヒーを飲もうとしている。 一郎は、ようやく、原稿の清書に取り掛かろうとしている。 そんな二人の一日が、今、始まろうとしている。 (終わり) 幸子は、部屋のカーテンを開けてコーヒーを飲んだ。 一郎は、ようやく、原稿の清書に取り掛かった。 こうして、二人の一日が始まった。 (続く) 一つひとつが過去となる情景でなければ、書き進めないと思います。 世界共通認識などという大袈裟なもんでなののでは。 「こうして、あーした」は、必然的に過去形で表現されるもの。

noname#32495
質問者

お礼

そうなんですけどね。そのメカニズムがどうなっているのかわからないところです。なぜ現在形が不自然なのでしょうね。

回答No.1

「記録」から発展してきたからじゃないですか。それが事実の記載ならノンフィクション、虚構ならフィクション。 また「現在形で」何でもいいから書いてみてください。非常に座りの悪い文章になるのがわかるでしょう。

noname#32495
質問者

お礼

記録がやはり発祥ですか。日本書紀でしょうかね。

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