• ベストアンサー

武家諸法度の改訂

発布者である徳川 秀忠によって自ら改訂された法度は、どこをどのように変えたのでしょうか? 家康の死後に変えていますよね。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • Reynella
  • ベストアンサー率51% (550/1068)
回答No.2

最初の公布は1615年7月7日。13条からなっていました。 最初の改訂はその翌年、1616年10月に行われました。内容は次の2条の削除です。この結果11条になっています。 ・自今以後、国人ノ外、他国ノ者ヲ交置スヘカラサル事。 ・諸大名参勤作法ノ事。 最初の武家諸法度は、原本といえるものが清書・草稿含めて伝わっていません。この最初の改訂版は、金地院崇伝自筆の草稿で、現在需要文化財に指定されていて、金地院にあります。自筆本は現時点ではこれだけしかありません。

gesui3
質問者

お礼

詳しく有難うございます。 初版13条は、家康が存命中に秀忠の名で発布したもの、2版11条は家康死後の千姫事件を踏まえた修正版であり、秀忠の真正の武家諸法度なのでしょう。にしても千姫事件の教訓がなぜこの2条削除か、不思議です。

Powered by GRATICA

その他の回答 (1)

  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10005/12514)
回答No.1

以下のとおりお答えします。 >発布者である徳川秀忠によって自ら改訂された法度は、どこをどのように変えたのでしょうか? ⇒徳川秀忠自身が改訂したことがあるとは思いませんでしたが、自信がありませんでしたので「GPT-4を使用したCopilot」に聞いてみました。 Q:「徳川秀忠が発布した武家諸法度を、(徳川家光の改定以前に)自ら改訂したことはありますか?」 A:「もちろん、徳川秀忠は武家諸法度を発布した人物であり、その後の改定にも関与しました。初めて武家諸法度が発布されたのは**元和元年(1615年)**で、これは大坂の陣によって豊臣家を滅ぼした徳川家康によって行われました。この法令は、諸大名の統制を目的として、全13ヶ条で構成されています。具体的な内容は、文武や倹約の奨励、領内に逃げた罪人を匿うことを禁じるなど、統治の制限が含まれていました。 その後、将軍の交代と共に改訂が続けられ、寛永令(1635年)や天和令(1683年)、最後の改訂となる**享保令(1717年)**が知られています。これらの改定により、参勤交代の義務化や大船建造の禁止、殉死の禁止、末期養子の緩和などが定められました。 徳川家光の改定以前に、徳川秀忠自身が武家諸法度を改訂したことはありませんが、彼は初版の発布者であり、その後の改訂にも影響を与えた重要な人物であったことを覚えておいてください。」 最後の3行でよく分かりました。つまり、要約すれば、「秀忠自身が改訂したことないが、家光以下の改訂に重要な影響を与えた」ということですね。 なお、その家光以降の5回の改訂については、https://hugkum.sho.jp/226091に詳しく説明されていますので、どうぞそちらをご覧ください。

gesui3
質問者

お礼

Copilotはなぜか「もちろん、~」と答えることが多いですね。その割には間違った情報を頻繁に返してくるので、要注意です。 回答をありがとうございました。

Powered by GRATICA