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徳川家康の、大阪夏の陣での討ち死に説の信憑性?

徳川家康が大阪夏の陣で討ち死にしたという説に信憑性はあるのでしょうか? 家康が大阪夏の陣の際、後藤又兵衛とかいう人に槍でつかれて、その傷がもとで死んだとかいう話等です。 堺市の南宋寺に家康の墓があり、瓦に葵の紋があり、秀忠・家光が将軍就任の際に訪れているそうです。 秀忠・家光が南宋寺をわざわざ訪れているのは、そこで家康が死んだからなのでしょうか? しかし、家康が大阪夏の陣で死んでいたとしたら、久能山や日光には誰が埋葬されたのでしょうか? 大阪夏の陣で家康が討ち死にしたという説に信憑性はあるのでしょうか?

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  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11074/34516)
回答No.1

武田信玄が「我が死を三年秘すように」と言い残したという有名な伝説があります。実際に弟である信廉が信玄によく似ていることで有名だったので、影武者を演じたという話があり、そういった話をもとにして作られたのがあの映画「影武者」です。 さて、史実に話を戻しますと、信玄の死を隠そうとしたのは信廉が影武者を演じたことでもわかるように、隠そうとしたこと自体は間違いないようですが、しかしその信玄が亡くなってからわずか3ヵ月後には、関東の北条氏が武田領と隣接している多摩と秩父の家臣に対して「信玄が死んだって噂があるが本当かどうか確かめよ」と命じた文書が残っていますので、どうもすぐに噂が広まっていたようです。 だから実際もしそうだったとしたら、どうにも隠しようがない噂になることは避けられなかったと思いますよ。まあ話としては非常に面白いし、そこから物語にするのは楽しいことですが、信憑性はゼロと断言してもいいくらいだとは思います。

noname#222268
質問者

お礼

御回答ありがとうございました。 信憑性はほとんどゼロなのですね。 これですっきりしました。 ありがとうございました。

その他の回答 (4)

  • mm058114
  • ベストアンサー率30% (102/337)
回答No.5

色々なウワサというか説が出てきています。 ・本能寺 ・関ヶ原 ・大阪の陣 間違いないのは、現在の教科書の歴史は、明治新政府が作ったモノです。 これが、何らかの作為があるとしたら、 実はという形で、 本能寺などの説が、漏れ出てきても不思議じゃないかもしれません。 信長公記や太閤記を、後世に都合良く作られたモノと主張する学者さんもいますし、 明治天皇替玉説もあります。 豊臣秀頼の九州落ち延び説もあったり、事実秀頼の墓も複数存在する。 明智光秀の天海説や、 果ては、源義経のチンギスハン説もあります。 更には、桶狭間や関ヶ原の戦い自体も怪しくなってきています。 つい70年前の太平洋戦争のことすら、解明されていない事が多いのですから。 天皇陵も実は別人のモノらしいと分かってきたが、 今だに、宮内庁は発掘を認めようとしないで、歴史の真実解明を拒んでいたりまします。 やっぱり、歴史の真実は曲げられているのかもしれません。 我々は、更に後世の研究に任せるしかないのでしょう。 まあ、歴史のロマンです。

noname#222268
質問者

お礼

御回答ありがとうございました。

  • oska2
  • ベストアンサー率44% (2301/5116)
回答No.4

>徳川家康が大阪夏の陣で討ち死にしたという説に信憑性はあるのでしょうか? まぁ、色んな説があり+色んな場所に「伝・家康の墓」がありますよね。 しかし、家康の墓+伝・家康の墓の発掘調査を行わない限り信憑性も何もないでしようね。 家康に関して有名なのは・・・。 1.本能寺の変で、堺から三河に戻る途中で死んだ。 1.関ヶ原の戦いで、死んだ。 1.大阪の陣で、死んだ。 が、有名ですね。 >秀忠・家光が南宋寺をわざわざ訪れているのは、そこで家康が死んだからなのでしょうか? 先ず、常識として「秀忠・家光が将軍就任の際に訪れている」事は「家康の可能性は低い」ですね。 堺は、当時の大都市です。 そんな事をすれば、「今の家康は、偽者だ」という話が広がります。 お忍びでも、「瓦に三つ葉葵」だと・・・。 秀忠の時代だと、未だ「反徳川・新豊臣」勢力が力を持っていますよね。 また、戦乱の世に戻るかもしれません。 将軍家と言えども、こんな地雷は踏まないでしよう。^^; >家康が大阪夏の陣で死んでいたとしたら、久能山や日光には誰が埋葬されたのでしょうか? もし、(家康が影武者ならば)家康の木像若しくは、形見の品ですかね。 「神君」ですから、金地院祟伝とか将軍家及び数人の実力者しか「埋葬物・遺体」を見る事は出来ません。 棺の中に、何が入っているのかは「秘密中の秘密」ですよね。 幸か不幸か、日光東照宮は「先の戦争で、爆撃を受けていない」ですよね。 「神君」ですから、(平成の世でも)発掘調査も不可能です。 東京増上寺は、空襲で焼けました。当然、歴代将軍の墓は(移転・修復の為)調査が行われています。 >大阪夏の陣で家康が討ち死にしたという説に信憑性はあるのでしょうか? ある!と言えば、ある! 無い!と言えば、ない! 日本は、国定教科書がありませんから「政府・国が決めた正しい歴史」は存在しません。 教科書以外の歴史を信じても、教育・信条の自由で(某国と違って)処罰を受ける事はありません。 歴史の「ロマン」で、良いと思いますがね。 余談ですが・・・。 安徳天皇・武田勝頼・明智光秀・豊臣秀頼・真田幸村大介父子など、全国に生存説が残っています。 何故か、西日本(四国・九州)に多いですね。^^;

noname#222268
質問者

お礼

御回答ありがとうございました。

noname#230414
noname#230414
回答No.3

家康の影武者説は。 1、桶狭間の合戦のと不慮の死を遂げたそこで現れる家康は世良田二郎三郎が成り代わった説。 2、関が原の合戦で暗殺されて世良田二郎三郎が影武者説で、用なしになったので天ぷらに毒を入れて殺された。 3、大阪夏の陣(岡山の戦い)真田信繁の奮戦により家康は驚愕に陥り自害するというのを無理やり籠に載せられて槍で突かれて死亡、小笠原秀政が影武者といわれるが、小笠原秀政ではなく百姓の矢惣次で榊原康政に見出だされて関が原以前より影武者を務めていたが用なしで天ぷらに毒を入れて殺された。 というう事は家康は関が原で死んでいる?????

noname#222268
質問者

お礼

御回答ありがとうございました。

回答No.2

まぁ歴史は勝者が作るもの と言われてますから 今知られてる史実は徳川に都合よく作られてると思います 大阪の陣における真田信繁(幸村)の家康本陣突入は事実 あれだけの激戦です 家康の身に何かあったと考えるのは不自然ではありません 後藤にやられて死んだ だと家康を神格化した幕府の権威が落ちるので 歴戦の勇者と言われた真田が家康の本陣まで迫って、家康を討つまであと一歩だった と言う事にしたんだと思います。 大阪夏の陣後の家康の影武者は信濃の小笠原秀政だと言われています(家康と秀政は非常に容姿が似ていたらしい) 久能山や日光には誰も埋葬されてない可能性があります 棺の中なんて誰も見れませんからカラのまま埋葬しても気づかないでしょう

noname#222268
質問者

お礼

御回答ありがとうございました。 >久能山や日光には誰も埋葬されてない可能性があります http://sumpu.net/#01 ↑このページによると、久能山から日光への勧請を天海が指揮した記録が残っているようです。 誰も埋葬されていないことはないのじゃないでしょうか? http://sumpu.net/ 御回答ありがとうございました。

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