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戦前の天皇の実権
明治維新後から第二次世界大戦終戦までの間の天皇はどの程度の権力を持っていたのでしょう? 天皇がYESと言ったらYESに絶対なってしまうものだったのか。 それとも首相等の傀儡であったのでしょうか? ご存知であれば細かい所まで教えてください。
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立憲君主制、という制度を知らないで回答している人もいるようですから、鵜呑みにしないようにしましょう。 明治天皇の時点で、既に天皇は政府の決定に対し拒否権を失っています。つまり、権力はありません。 それが具体的に確定したのは、日清戦争です。1885年の豊島沖海戦で日清戦争が開始しますが、この報を受けて明治天皇は伊藤博文首相に戦闘停止を命じました。しかし、政府はそれに従わず、清と戦争を続けて勝利します。 つまり、政府の決定に対し天皇は拒否権を持たなくなったということです。その後、今に至るまで、天皇に実権はありません。 「天皇大権」をふりかざす人もいますが、これは政府が機能しなくなったときにのみ有効な権限です。国家のリーダーがどこにもいなくなったら、例えば戦時であれば降伏もできず、敵から兵士も民間人も無く蹂躙の限りを尽くされても何の文句も言えないという状況が生じます。それを避けるため、政府が機能停止したときに限定して天皇が権限を持てるという極めて限定的なものです。 実際、2・26事件とポツダム宣言受諾の二度しか、大日本帝国においては天皇大権が振るわれたことがありません。 つまり、天皇がYesと言おうがNoと言おうが、政府決定を受け入れるしかないというのが、実態です。それが立憲君主国家の君主の立場ですし、そうでなく拒否権を持っていたら、それは専制君主国家の君主です。 なお、これを「傀儡」とは呼びません。 傀儡というのは、制度上は実権を握っているべき立場の人が、実権を持てずに操られている状態を指します。従って、そもそも制度上実権を持たない立憲君主国家の君主を傀儡と呼ぶのは、誤りです。
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- questman
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法的な権限は前の回答者様の意見にお任せするとして。 実際の陛下は前線は当然としても市民の前にすら簡単にお出になれる環境ではありませんでした。つまり戦況も市民生活や経済状況も外からの「報告」でご判断されるしかなかったわけです。 ミッドウェー海戦やレイテ沖海戦、サイパンやアッツ島の玉砕等に関して、天皇陛下が知りたい時に知りたい情報を的確に入手できたかどうか非常に疑わしいです。おそらく陛下のお耳に届くまでに握りつぶされていたか、大幅に脚色されていただろうと思います。 したがってそれなりに小さくない権限はあったものの、判断できないように仕組まれていたと言った方が適当ではないでしょうか。
時代の情勢にもよりますが、 明治時代には岩倉具視が1882(明治15)年に皇室財産の設定を行い、 皇室御料地・政府所有の有価証券も皇室の財産でした。 1889(明治22)年大日本帝国憲法(欽定憲法)が発布され、 天皇は国の元首としての主権者・統治権者とされました。 陸海軍の統帥権・官吏の任免・議会の招集など多くの権限を持ち、 内閣は天皇の輔弼(大臣助言制 つまり、天皇は内閣の助言を受けて 政務を行う)でした。 第二次世界大戦終戦まで、つまり昭和時代には、 天皇は日米・日中戦争開戦については、軍部の暴走を御前会議で 抑えられなかった といわれています。 終戦の詔が「玉音放送」(玉音とは、天皇の声のこと)で流され、 それまで「神」とされていた天皇が「人間宣言」を行ったという 歴史を見ると、現憲法で象徴天皇となるまでの間は、 絶対的な存在だったと考えます。
- fixcite
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おそらくご理解されているように、明治維新まで天皇は権力でなく権威のみを有する装置としての政治機構として位置づけられ、権力を有する政治機構として格上げされたのは明治維新のときの俄仕立てに過ぎません。 幕府を倒すための大義名分にすぎなかったため、明治政府としても天皇を離れた政治体制が整うようになると、天皇の政治権力は名実ともに制限されていきます。 日露戦争宣戦布告のとき、明治天皇は消極的だったものの重臣や軍人に押し切られ「如何ともすべからざるなり」としつつ裁可しました(開戦を憂慮していた記録が残っています)。天皇の意向に反する政治行為が政治体制の力で行われ正当化された瞬間といえるため、この時点を以って天皇は立憲君主としての位置づけが確定した「そのとき、歴史が決まった」とされています。 ただ、依然として権威に基づく一定の政治的影響力は残っています。 関東軍の工作員が満州軍閥のドン張作霖を暗殺した満州某重大事件のときの田中義一内閣の退陣にも一役買っています。田中総理は諸外国の日本陰謀説に配慮して徹底して捜査する旨上奏した後に陸軍の反発にあい一転蒋介石工作説を採用、捜査不要とします。上奏を受けた昭和天皇は朝令暮改に対して露骨に不信感を示し辞表を出せとまで言い放ちます。田中総理には相当堪えたらしく、あっさり内閣総辞職(天皇による唯一の倒閣事例)、当人は2ヵ月後に別宅で謎の死を遂げます(公文書では病死とされていますが…)。 また、その後2・26事件のとき、当初昭和天皇がクーデタを容認する意向とみていたことが首謀者の大義名分でしたが、重臣等の殺害が明らかになると激怒、自ら鎮圧に当たろうではないかとされたため、クーデタは大義名分を失いあっさり瓦解します。「凶暴ノ将校等、其精神ニ 於テモ何ノ恕スベキモノアリヤ」以下の有名な発言であり、鶴の一声といえるでしょう。 さらに、WWII終戦における異例の玉音放送自体が天皇の権威を示すものでしょう。天皇自らの肉声によるとされる放送が流れない限り、スムーズな降伏が期待できなかったとも考えられますし(満州や樺太の日本軍がソ連軍に抵抗しながらも専守防衛の域を出なかった一因でもあるでしょう)。
- yakyutuku
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時代時代により天皇の実権は変化しているので、一概に答えが出るものではないと思います。戦争突入直前では、昭和天皇が戦争回避を目的として、実質的に米内光正を首相に指名しています。それさえ陸軍により倒閣されていますから、このころは陸軍の力が天皇を凌駕していたと思います。