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普遍に生きるための矛盾?
先日、知り合いと話をしているとき、 『人は普遍の中で生きるために普遍を壊そうとしている矛盾が心の中に存在する』 という話題が出てきました。 哲学というものに縁遠い私はこの意味をうまく理解できなく今に至っています。 人間とはそもそも矛盾している生き物なのかもしれませんが、それは意識のなせる業なのでしょうか? 皆さんはどうお考えですか、教えてください。
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- kokorononabi55
- ベストアンサー率25% (1/4)
先ず、「普遍」と言うことは、人・時・所が変わっても通用する「調和」と言うことを前提に考えましょう。と言うことは、矛盾は無くなるということになります。矛盾が出るのは、人・時・所が変わると通用しなくなる。つまり調和できなくなるということを先ず前提に...考えなければならないと思います。 このテーマもそうですが、哲学とは一体何かということを原点に戻して見る必要があると思います。哲学とは「大宇宙の真理」を知性や理性に翻訳して、知ろうとするものだと思います。 つまり、根源の考え方は「大宇宙の真理」を神や仏(ハイ・スピリット、高級霊界)の世界から人間に悟らせようとして説くか、これを宗教と言っていますが...。 あるいは、「大宇宙の真理」を道徳・倫理のように日常生活レベルで説こうとしているのか、この違いを先ず認識しなければならないと思います。 いずれにしても「大宇宙の真理」を探求、理解しようとしてあらゆる分野(政治、経済、文学、哲学、教育、芸術、宗教、倫理、道徳、医学、科学、軍事、貿易、宇宙科学等など)でも具体化して日々進歩向上を目指しているのです。 一方では進歩を目指し、一方では調和を求められている。このベクトルの違いは、人間の認識ではもともと矛盾しているのですが、より高次元の認識世界から見れば矛盾ではなくなるのです。ここに人間が日々学びたいと思う情熱のエネルギー源があるのです。 結論として、人間は仏や神から分かれて、永遠の生命を与えられ、あの世とこの世を輪廻転生する過程で個性化し、精神的進歩向上を目指している存在です。その過程で矛盾も出ますが、その矛盾をいかに克服(調和し進歩)できるかが喜びであり幸福でもあると思います。 注意しなければならないのは、大宇宙も人間もあらゆる生命が偶然の所産ではなく、大昔から言われている神や仏によって創造されたという真理です。念いによって造られた存在である真理を理解できるか否かにかかっていると思います。
- kokorononabi55
- ベストアンサー率25% (1/4)
先ず、「普遍」と言うことは、人・時・所が変わっても通用する「調和」と言うことを前提に考えましょう。と言うことは、矛盾は無くなるということになります。矛盾が出るのは、人・時・所が変わると通用しなくなる。つまり調和できなくなるということを先ず前提に...考えなければならないと思います。 このテーマもそうですが、哲学とは一体何かということを原点に戻して見る必要があると思います。哲学とは「大宇宙の真理」を知性や理性に翻訳して、知ろうとするものだと思います。 つまり、根源の考え方は「大宇宙の真理」を神や仏(ハイ・スピリット、高級霊界)の世界から人間に悟らせようとして説くか、これを宗教と言っていますが...。 あるいは、「大宇宙の真理」を道徳・倫理のように日常生活レベルで説こうとしているのか、この違いを先ず認識しなければならないと思います。 いずれにしても「大宇宙の真理」を探求、理解しようとしてあらゆる分野(政治、経済、文学、哲学、教育、芸術、宗教、倫理、道徳、医学、科学、軍事、貿易、宇宙科学等など)でも具体化して日々進歩向上を目指しているのです。 一方では進歩を目指し、一方では調和を求められている。このベクトルの違いは、人間の認識ではもともと矛盾しているのですが、より高次元の認識世界から見れば矛盾ではなくなるのです。ここに人間が日々学びたいと思う情熱のエネルギー源があるのです。 結論として、人間は仏や神から分かれて、永遠の生命を与えられ、あの世とこの世を輪廻転生する過程で個性化し、精神的進歩向上を目指している存在です。その過程で矛盾も出ますが、その矛盾をいかに克服(調和し進歩)できるかが喜びであり幸福でもあると思います。 注意しなければならないのは、大宇宙も人間もあらゆる生命が偶然の所産ではなく、大昔から言われている神や仏によって創造されたという真理です。念いによって造られた存在である真理を理解できるか否かにかかっていると思います。
- sho5349
- ベストアンサー率0% (0/1)
この命題で使われている「普遍」という言葉が意味としてよく理解できませんでした。ここでは「ありきたりで平凡」という意味で使われているのでしょうか? もしそうであるならば、命題は、「人は平凡の中で生きるために、その平凡を壊そうとする矛盾を抱えている。」になりますが、これでも意味が通じにくいです。そこで、勝手な解釈でもう少し噛み砕くと、結局、「人は、平凡で幸せな生活を求めているのに関わらず、変化を求めてその平凡から脱却しようとする矛盾を抱えている。」という命題なのでしょうか?、、、となるとこれは矛盾でも何でもない気がしますがどうでしょう?人が、平凡な生活による変化の乏しさから刺激が欲しくなりそれまでとは違った行動をしたくなるということは、極めて自然な事だと思います。(命題を解釈し間違えていたらごめんなさいね)
- zenzenzen
- ベストアンサー率1% (1/67)
無事であることや 平穏であることが 平和の証なのだが 人は平凡さに飽きてしまうようなところがある. 変化や刺激が生きている証と思っているようなところが 変化や刺激の後には 平凡.平穏.無事であることこそが幸せなのだということに行き着くのだが.
- pcbc
- ベストアンサー率0% (0/2)
心理学にこういう一説がありました。 (善()悪)←この真ん中の○がエゴだそうです。矛盾とはこの部分のことではないでしょうか? >人間とはそもそも矛盾している生き物なのかもしれませんが ◆矛盾を持っている生き物のほうがわかりやすくありませんか?矛盾を持っている生き物が、普遍の中で生きるために、普遍ではない矛盾と戦い生きる、それが、人が普遍の中で生きるってことだと思います。 余談ですが。そもそも人間は、悪があるからこれが善だと、知り、学ぶわけですよね?悪がないところに善は生まれない、とすれば、矛盾があるから、これが普遍だと自分自身で学ぶことが出来る、あなた様はそうではないと思いますが、否定的に人間は矛盾していると高らかに、流行のように最近言う人が多いいですが、あれはなんなんでしょうか? 善も悪がなければ、善となりえないなら、矛盾があるからこそ、そこから善を生み出せるわけで、矛盾があるからこそ、善と悪の戦いがあり、悪の人間が善の人間に目覚めるということもあるんでしょう。矛盾がなく、善だけ、悪だけの人間なら、どんな世の中になったんでしょうか・・・そう考えれば、矛盾は大切な物だと思います。 私は矛盾を善と悪を繋ぐ、パイプのようなものと考えています。 『普遍だ』という物だけだとすれば、それは人間ではないですし、ありえません。
- Syo-ya
- ベストアンサー率31% (558/1780)
人間(意識?)も「炎」の性質を持っていると想うんです。 必ず、何かに憑いてウツロイながら燃え続けるといった感じです。 例えば、疑問が生じたら、質問してみるというウツロイに発展します。 これも炎が次から次へと燃え移るのと似ていると想うんです。 お腹がすいたら買い物して食べるというウツロイに発展します。 絶対に同じ場所に留まるということが出来ないのが「炎」の性質です。 ローソクの炎も遠くから見ると一箇所に留まっているように見えますが、よく見ると川の流れのように常に流れていて、ローソクも段々短くなっていきます。 人間の肉体も新陳代謝を繰り返して常にウツロッています。 もちろん、これはなんでか解りませんが、太陽が炎の塊のように、地球というのも生命という炎の塊のような気もします。 この世に常在する「実体」なるものは一つもなく、 「諸行無常」ということに尽きるのかも知れません。 消えないために拠り所を求めながら、でも全てを壊していく「炎」のような矛盾が存在すると想います。
- sinfonia
- ベストアンサー率42% (53/124)
哲学的パラドックスの一つに亀を追い越せないアキレスの話が あります。それに似ていますね。 「人は無限の時間の中で有限の生しかもたないから~」といった フレーズもよく使われます。 「普遍」というものは実は抽象的な意味での「変わらない」とか 「同じ状態」という分には使用に耐えますが、「普遍の中で~」と いった表現をしてしまうと超越項的な扱いになってしまいます。 誰もそれを確かめようのないいわゆる形而上学の分野に突入して しまうのです。 従って言われるような矛盾の契機になるか否かは「人それぞれ」と いったことになってしまいます(信心や人生哲学的な話になって きます) そのお知り合いの方がどういった意味でそう言ったのか、もう少し 掘り下げる必要があるような気がします。 答えになってなくてすみません。 話題としては非常に面白いので気になってしまって。 cf: 仏教で言う「業」(ex.食べなければ死んでしまうという事実)は、 そうした矛盾観に近いかもしれませんね。
- vagabond_0710
- ベストアンサー率26% (68/257)
普遍と思われても、本当に普遍かどうかを確かめるためには、普遍を壊そうとするのもひとつの手段となります。 私たち人間の生活を観察してみてください。科学にしろ何にしたって、普遍的な絶対的な確実なものに向かっています。例えそのことを意識しなくても。だからこそ、そのことに疑ったり検証したり反論したりすることに意味があるのです。哲学や人生に一つの正解がないように、その過程にこそ価値があると僕は思います。 人間的矛盾は意識のなせる業だと思います。すくなくとも私たち人間は人間的矛盾を意識しているのですから。つまり意識をすることができないことならば、矛盾を克服することはできないと思われます。その辺りから「無知は罪」という言葉ができるのではないでしょうか。