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戦国時代の貨幣は?
金、銀は別として、戦国時代の貨幣って誰が発行していたのですか ? 足利幕府が発行していたとすれば、幕府と敵対している戦国大名は偽の貨幣を作ると思うのですが。ましてや幕府が倒れた後ではそれも無いでしょうし、、織田と毛利、武田が同じ貨幣を使用してたとは到底思えません。 各戦国大名が自分の領土でしか通用しない貨幣では、戦費の調達などあまり意味がないようにも思います。 やはり共通貨幣は金、銀だけで、少ない単位の貨幣は自分たちの領土だけで通用をさせていたのでしょうか ?
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こんばんは。 う~む、よい着眼点です。 仰るとおり、政府には貨幣を発行する力など無かったのです。 では、どうしたか? 「輸入」です。 12世紀から17世紀にかけ中国(北宋や明)から銅銭を輸入して流通させていたのです。 当然発行元は中国ですから、国際通貨としての価値はバッチリ。 もちろん、国内で私鋳銭と呼ばれる模造品が出回りましたから、 民衆の間でその質によって受け取り拒否など「撰銭」という選別行動が起こりました。 大名たちはなんとか撰銭を取り締まろうとしましたが、 いまいち効果を発揮せず。 結局その状況は江戸時代になり、幕府が貨幣発行権を独占するまで続きました。 といった感じでよろしいでしょうか? たぶんこんな風に習いました。
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- starflora
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PCの調子が悪いのか、回答を書いて送信しようとすると、フリーズしてしまう。入力エリアに書き込んでいると、しばしば、「このプログラムは強制終了」とか言って、全部消えてしまうので、別の場所で回答文を書いて、入力エリアにコピーするようにしているのだけれど、つい、入力エリアに回答を書いてしまう。 とまれ、もう一度書きます。 >例えば、三方ヶ原の戦いで、家康が逃げる途中で団子を食い逃げをし、店主に追い掛けられて銭を払ったとの話が有ります。この時に払った銭・・・当時この地方で使用されていたと思われる小額のコインは堺や武田、上杉などの領土では使用されていなかったのでしょうか? 何と書いたのだったか。一般庶民でも、銅の貨幣は、「銅」であるが故に、金属価値を簡単に識別できたということです。金などになってくると、庶民では、鑑定力がなかったが、銅だと、見ただけでそれと判別でき、またもっと近くでよく見ると、不純物が混じっているかどうか、品質なども判断できたのです。銅の銭は、「銅」であるが故に流通したので、それは貨幣の「使用価値」と「交換価値」における「交換価値」の自立という状態とは、随分遠い話だということです。 室町幕府は、しきりに通達を出して、「選り銭をするな」と言ったのですが、一般庶民は、そういう通達には耳を貸さず、「選り銭」を行っていたという話があります。現代の感覚だと、貨幣が汚れていたり、少々傷んでいるので、受け取り拒否というのはおかしいとも思えるのですが、当時、「選り銭」の対象になったものは、半分に割れてしまって、半分しかないとか、摩耗してぺらぺらになっているとか、混ぜものが多く品質が極度に悪く、こぼれていて、触れると形が崩れるなどの粗悪なものや、また、小さい銅貨を大きく見せるため、鎚で叩いて大きく延ばして、見た目は大きいが、銅としての価値は、大きさほどないようなものです。こういう銅の銭は、実質の「銅」の価値がないか少ないので、庶民に嫌われたのです。本当に貨幣が自立していれば、「交換価値」で決まり、現在の十円硬貨が汚れているとか錆びているとか、また紙幣が汚いとか、しわくちゃだとか、そんなことで通貨として通用しないということはありません。この千円紙幣は、汚れてしわくちゃだから500円の価値しか認めないなどということはないのです。しかし「選り銭」をする場合は、そういう話も交渉次第であったかも知れません。 銅の銭として見た目で品質がよいと分かり、大きさも重さも、その形状も整っており、おまけに銘が「永楽通宝」などとあれば、知っている人は、誰でも信頼したので、日本全国で通用したでしょう。しかし、それは、「永楽通宝」が「共通貨幣」であったからではなく、「銅」の価値において、品質に信用が置けたからです。家康が払った銅の銭は、茶店の店主がそれで納得したのなら、「銅の銭」として、見た目で、銅の価値があると庶民でも判断できたのでしょう。こういう銅の銭なら、堺でも武田・上杉・織田・島津などの領地でも、銅の価値として通用したでしょうから、日本全国で、銅の価値を知る人には共通に通用したということです。しかし、どこでも、それで物品を購入できれば「共通貨幣」の資格を持つかと言うとそうではないはずです。 例えば、重いかも知れませんが、米を5合持って、これで布を売ってくれとか、酒を売ってくれとか、飯代をこれで払うといえば、米が腐っているとか、砂だとかでない限り、これも日本全国で通用したはずです。では、米は「共通貨幣」かと言えば、違う訳で、それは物品としての価値の準普遍性による、物々交換の「代理貨幣」だということになります。銅の銭も、特に永楽通宝はじめ永楽銭も、銅の金属価値で「代理交換価値」が生まれたので、原始的な物々交換よりは遙かに進んで、貨幣経済の段階に踏み入れた時の代理通貨ということになりますが、日本全国どこでも通用する「米」と同様に、これを、共通貨幣というには、条件が満たされたいないのです。江戸時代では、「米」を武士階級は給与として受け取ったので、外国では、「塩」を給与として渡した例もあります。「米」も「塩」もかなりな普遍性を持って、物々交換の際に利用できたので、共通貨幣のような相を呈しているということです。 昭和時代に入って、敗戦直前の日本の少額通貨は、現在の1円アルミ貨幣のようなものが、現在では、100円ぐらいに相当する貨幣であったことがあります。これは戦争末期、金属がほとんどなかったからですが、実質価値がとても100円もない、ぺらぺらな1円アルミ貨が貨幣として通用したのは、その「使用価値」ではなく、「交換価値」で、交換がこれで可能だったからです。室町幕府や、江戸幕府や、江戸時代の藩が、どう裏書き保証しても、紙の貨幣は通用しなかったでしょう。江戸時代の藩札は、紙幣というより、いまの国債のようなものと考えた方がよいでしょう。 「偽金造り」というのが(非合法)商売になるのは、貨幣がある程度「交換価値」で意味を持ち始めてからです。江戸時代中期になると、そういう事態になる訳で、そうすると、小判の偽造を行って利益を上げようという犯罪者も出てくるのです。小判の偽金は、品質を落とし、混ぜものをするか、鉛に金鍍金などを行って造るのですが、前者は、偽金造りではなく、当の江戸幕府自身が実行しました。50万両の小判を改鋳して、品質を落とし、金含有率を減らし、重量も減らし、100万両分の新しい小判にすると、差額の50万両が幕府の収入になるというので、現実にそういうことを行いました。従って、江戸幕府が造った小判は、初期に造った小判の金含有量がもっとも多く、品質もよく、後になって改鋳したものは、金の品質が落ちてきます。金貨として見ると、初期のものと後期のものでは、価値が二倍以上違って来ます。 敗戦後、日本は金属がなかったのですが、当時造られた十円銅貨は、いまの十円と同じデザインですが、コインの周囲にぎざぎざが付いていました。また、百円ニッケル貨は、最初に造られたものは、銀を含有しており、これも、縁にぎざぎざが付いていました。このぎざぎざは何かと言うと、流通途上で、コインの縁を削られないための工夫です。金属の価値で見ると、銅銭や銀含有の硬貨の縁を削って貯めると、金属が蓄積されて、それなりに利益が出たからです。現在でも法律で、貨幣に傷を与えることは禁じられているはずです。それは、金属を削って、金属としての価値が低減することを防ぐ意味もあったのです。 金貨なら、ローマ帝国時代にもありましたし、それ以前にもあったはずです。これらは、金属の利用価値を前提として通用したので、「交換価値」、象徴的な価値として通用したのではないのです。永楽銭も同様です。永楽銭は、明から「輸入した」と表現します。ドル紙幣を「輸入した」とは言わないでしょう。 貨幣は、広い範囲で流通するということだけでなく、「使用価値」と「交換価値」が分離し、「交換価値」で規定されるものを貨幣というのです。「交換価値」で流通しているからこそ、大インフレーションが起こるとか、「交換価値」を保証していた国家等が破綻すると、貨幣は、ただの紙屑の山に変化するということが起こるのです。南北戦争の時、南部諸州は、北部に対し、独立宣言をして、南部共和国独自の紙幣を発行しましたが、南部が敗北した時、この南部共和国の紙幣は紙屑になりました。紙屑になる前は、流通していたということで、こういうものが貨幣なのです。 「米」は先に言ったように、堺でも、武田・上杉・織田・島津領へ持って行っても、これで物品を購入することができます。では、「米」は共通貨幣かというと、「代理貨幣」だとは云えるでしょうが、それが代理貨幣として通用するのは、「米」の「使用価値」に基づいているのです。別に、国家が国内貨幣として規定していなくとも、ドル札は、アメリカ以外の多数の国で通用します。この通用の理由は、ドル札が紙として価値があるからでなく、アメリカの経済力によって、ドル札で、色々なものが購入でき、またドル札を他の貨幣に「交換」できるから価値があるのです。アメリカが経済崩壊して、ドルの価値が現在の1万分の1にでもなれば、ドル札は、紙屑に近くなるでしょう。 広い範囲で「通用」するのが貨幣の条件ではないのです。貨幣は、貨幣経済の成立を前提として意味を持つものですし、貨幣経済の発達においては、その実質が利用価値ある貨幣ではなく、「交換」において意味を持つ、経済の価値象徴媒体が必要で、これが「交換価値」で規定される貨幣なのです。貨幣経済も十分に確立しておらず、貨幣も「交換価値」だけで純粋に自立していないのでない場合は、貨幣に見えるものは、その物品価値=利用価値で決まっている、代理貨幣でしかないのです。 以下のURLの第一節の「現金決済」の「近代紙幣」「電子マネー」を参照してください。また、第二節の「信用決済」なども、貨幣経済が、通貨の利用価値を離れた場合に、有効に成立するものです。(永楽銭の輸入は、「銅の輸入」なのです。明王朝が永楽銭を価値保証したのでなく、銅としての価値の品位の高さで共通に通用したのです。形状や銘は、銅に品位の保証であったのです)。 >第二章 従来の様々な決済方法 >http://kt.sakura.ne.jp/~ksugi/2.html
お礼
PCの調子が悪いのに再びの回答、ありがとうございました。 >明王朝が永楽銭を価値保証したのでなく、銅としての価値の品位の高さで共通に通用したのです。 納得です。 >このぎざぎざは何かと言うと、流通途上で、コインの縁を削られないための工夫です。 これはビックリしました。大変面白く読ませていただきました。ありがとうございました。
- tiuhti
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ちょっと横から失礼します。家康が払った団子代が何で払われたのかは知りませんが、永楽銭(=永楽通宝)は相当幅広く使われていたはずです。(おそらく洪武通宝もそれに近い。)(参考URL御参照。)勿論、「法的な強制力を持った貨幣が独占的に流通していた」のではない事をもって、「共通貨幣がない」というのなら、その力を持つ中央政権がなかった以上、全くその通りですが、「貨幣を受け取ってもらえる局面でありさえすれば、たいていは受け取ってもらえる」という意味なら、共通の貨幣は存在していた、と言っても良いかと思います。因みに、余談ですが 伝説では「豊臣秀吉が子供の頃、亡父の形見として持って家をでて、木綿針にかえたのも、永楽銭一貫文」って事になっています。
お礼
回答ありがとうございました。 URLに疑問に思っていた事の回答がほぼ書かれていました。
- starflora
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日本にしても、西欧にしても、中国にしても、16世紀や17世紀は、未だ「貨幣制経済」ではなかったのです。「貨幣」は「貨幣」ではなく、「地金(金・銀・銅)など」を、適当な分量で大きさを決め、それに、時の権力者や過去の権力者が、確かに「この重量のある金属である」という証明を刻印していたので、現在で発想するような「貨幣」ではなかったのです。 文明が発達すると、まず、度量衡を決めます。つまり、「ものの重さ・長さ」などの広域に流通する「基準単位」を決めるのです。この度量衡の上に、或る重量の銅とか銀とか金として、準貨幣金属品として、物々交換の手段として当時の貨幣は存在したのです。だから、これは「貨幣」ではないのです。 日本も、和同開珎以下皇朝十二銭を鋳造したのは、実用的な貨幣というより、中国が、度量衡を定め、定重量金属貨幣を発行しているので、日本もそれに負けない度量衡を持つ文明国だということを主張するため発行したので、実用貨幣には、ほど遠いものです。元の後の明が発行した銅貨、特に「永楽銭」と呼ばれた銅銭は、重量が極めて正確で、かつ、純度保証があったので、便利なので、物々交換の際の代理物品として重宝され、明から輸入したもので、これは「貨幣経済」ではないので、こういうことが可能だったのです。「永楽通宝」という名の「銅の品物」だったのです。 「貨幣」と言っても、いま言ったように、地金を一定の形にして、重さを表示した「金属品」であったので、銅以外の別の安い金属を混ぜて銅銭を作り直したり、銅銭の端を削ったりするので、重量・品質共に、信頼できないことが多々あったので、当時は、「両替商」が重要な役割を持っていました。「両替商」というのは、例えば、1万円札を千円札十枚に「両替」するというような仕事をしていたのではなく、「金属貨幣」や「金属塊」を計りで計り、純度を見積もって、その実質価値を判断して、金属塊を、輸入貨幣に交換したり、見栄えの悪い貨幣を、もっと立派なものに交換したり、物品と金属物品(貨幣)のあいだで両替する仕事をしていた人のことです。 だから、両替商は、計りと、金属を見分ける識眼力が必要になりました。江戸時代でも、貨幣経済とは言い難いことがあり、そもそも、自給自足をむねとする農民は、普段から貨幣など使いませんし、武士も、そうです。江戸や大坂や京都などで、貨幣が流通したぐらいで、まだ、貨幣経済とは云えません。各藩が幕府の許可を得て、「藩札」などを発行していたことから、貨幣経済だったような錯覚が起こりますが、「藩札」は、有価証券のようなもので、いまの「社債・国債」に当たるもので、借金状のようなものです。 豊臣秀吉の造った「大判」は、貨幣ではなく、楕円形をした金塊というのが正しく、江戸時代の小判は、貨幣かも知れませんが、これも、重量を幕府が公認した「金塊」の形態だとも云えます。一分銀などは、小さな銀の丸い塊で、貨幣というより、銀塊でしょう。 江戸時代も、中後期に入って来ると、銅銭は、貨幣に似た機能になってきますが、それは、「米穀本位制」経済が崩れて来たからで、また、実質においても、銅銭貨幣経済が日本でも成立して来たからです。 戦国時代には、そもそも貨幣制経済などなかったのですから、「共通通貨」も何も本来まだないのです(つまり、貨幣と言われているものは、「地金」としての価値で意味があったので、地金と物品を交換する物々交換経済だったのです)。 戦費の調達は、米や特産品や、そして無論、金などの金属も交換に使ったでしょうが、基本的には「米」でしょう。 繰り返しになりますが、「貨幣経済」が成立していない時代に、貨幣はないのです。それは、地金を特定の形や大きさに造った、商品の一種だったのです。「地金貨幣」の実質価値を決めるための専門家が両替商だったのです。でないと、米とか、日本の特産品を明に輸出し、代わりに、「永楽銭」などの「銅貨」を「輸入した」というのは、どう考えてもおかしいでしょう。 日本全国どこでも通用する共通貨幣などなかったのです。明の銅銭が、純度・品質などで、優れているので、物品交換の交換代理物として使用されていたので、これは貨幣とは云えないのです(貨幣は、現在の「紙の貨幣」を考えれば分かるように、そのもの自体の「価値(実質価値・利用価値)」ではなく、「交換価値」において意味があるのです。インフレーションも含め、国家が破綻して、通貨に「額面通りの交換価値」がなくなると、紙の貨幣などは、ただの紙切れになるというのは、これが通貨なのです。昔の紙幣には、国家銀行に持って来れば、「相応の金(銀)に交換します」という保証があって、これを「兌換紙幣」と呼びましたが、これは、「地金」の価値がやはり、意味があった時代の名残です。
補足
回答ありがとうございました。出来ましたらもう少し質問をさせてください。 戦国時代が、「貨幣経済が成立していない時代」である事はある程度想像がつきます。 >日本全国どこでも通用する共通貨幣などなかったのです。 例えば、三方ヶ原の戦いで、家康が逃げる途中で団子を食い逃げをし、店主に追い掛けられて銭を払ったとの話が有ります。この時に払った銭・・・当時この地方で使用されていたと思われる小額のコインは堺や武田、上杉などの領土では使用されていなかったのでしょうか?
- shoyosi
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本来、戦国大名が必要としているものは年貢を売り、それを永楽通宝などの輸入銭に換え買い物をしていました。家臣には、土地を与えることで金銭は必要ありませんでした。輸入銭は当時の共通貨幣です。しかし、精錬法の改良と共に、鉄砲などの高価なものが出現するに及び、金や銀を発掘して、甲州金のようなものにして、貨幣にあてるようになりました。下のHPに貨幣の歴史がわかりやすく書かれています。
お礼
回答ありがとうございました。URLも大変参考になりました。
お礼
回答ありがとうございました。 そーでした。そういえば昔そのように習ったような気がします。 しかし、それでは当時の日本は国家としての体を成していませんね。中国から見ればまったく属国のように映ったのではないでしょうか? 余裕は無かったかもしれませんが、プライドの高かった信長には悔しかったでしょうね。