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戦国大名の拠点前進
織田信長は隣国を占領すると拠点を映し、清州・美濃・安土と拠点を前に進めながらそこを足掛かりに次の領地を侵攻していきます。 家康も岡崎・浜松・駿府と進んでいきます。政宗も米沢からほんの一時期ですが会津に移ってますね。 ですがこうした戦国大名は少数派に思えます。 武田信玄などは徐々に領土を広げていきましたが、甲斐から遠すぎるのか川中島で大苦戦しました。上杉謙信の小田原遠征などはかなり無謀に思えます。他の大名はなぜ拠点を動かさなかった・・・動かせなかったのでしょうか?
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- あずき なな(@azuki-7)
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先祖伝来の地を離れなかった武将は名門の出が多いです 一方で信長や家康は新興勢力ですから土地にこだわりは無かったのでは? ちなみに上杉の小田原遠征は関東管領・上杉憲政に 「必ずや関東を平定し管領様にお戻しする所存」と約束したので 謙信は関東を平定する必要がありました(結局平定はできませんでしたが北関東の一部は一時期占領しています)
- eroero4649
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自動車メーカーのマツダは世界中で車を売るメーカーです。世界で車を売るには国際空港もない広島は何かと不便だし、優秀な人材の確保も大変です。そこで本社を東京に移せば世界はもちろん日本中に対しても便利になります。しかしその一方、広島の人々からすれば「地元を捨てやがった」といわれるでしょう。一度完成されたホームの地から外に出るというのは、大変に勇気がいるものです。 しかしまあそうだとしても、それぞれに事情があります。 まず武田氏ですが、武田二十四将というのは質問者さんもご存知だと思います。「名将信玄を支える優秀な家臣団」といわれていますが、鉄の結束を誇る徳川家臣団とは実はかなり違います。何が違うのかというと「主君のいうとおりに動かない」ということです。徳川家臣団は家康が命じれば地獄でもどこでも一心についていき、絶対服従です。しかし、武田の家臣団は半独立国家みたいなもので、信玄はその調整役といったほうが近い存在でした。君主に絶対的な権力がなかったのです。二十四将という「議会の可決と承認」が必要だったのです。だから後に南下路線に変更したときに嫡男を廃するほどの大騒ぎになりました。今川義元が桶狭間で斃れてから7年も経っているのに、家中の親今川派を抑えつけることができなかったのです。 武田家は勝頼の代になったとき、今の大月市辺りを根拠地にしていた小山田氏を頼って逃げようとしたところを小山田信茂に裏切られて最後を迎えています。また富士川流域は穴山氏の根拠地で、最後はこの穴山梅雪にも裏切られています小山田氏も穴山氏も武田家の一族衆ではありましたがその名の通り武田姓ではありません。そして実際に最後には両家とも裏切っているわけで「最後まで武田家に一蓮托生」というほどの強い忠誠心もありませんでした。武田氏の根拠地である甲斐国の国内でさえ、子飼いの家臣の領地で固められなかったのです。穴山氏や小山田氏に「信濃にもっと広い領地を与えるから、そっちに移れ」とはいえなかったのです。 また武田氏の場合は、首都機能を転じるに相応しい場所に恵まれなかったというのもあると思います。松本市近辺では首都機能が移ってきたときにそこに都市ができるわけですから、その人々を支えるだけの食料と水の確保ができません。都市は川沿いか海沿いじゃないと発展しないのです。信濃(千曲)川沿いとなると長野市辺りまで行かないといけませんが、信玄の代では最前線すぎます。防衛の面からも、越後とは信濃川沿いで平坦だから越後上杉氏に攻められたら守り切れません。武田氏に関していえば「移したくてもいい場所に恵まれなかった」というのはあります。 北条氏の場合は、武田氏とはちょっと事情が違います。元々北条氏は「天下を取ろう」という気持ちは一切ありません。志向としては「関東独立国」です。天下を取るより、関東に京都とは一線を科した独立勢力としてやっていこうという傾向です。だからじゃんじゃん前に出ようという気持ちが基本的にありません。 北条氏の連絡線は大きく分けて二つ。川越街道に沿った、小田原~八王子~川越というラインと、海を使って三浦半島を経て江戸城に向かうラインです。この双方の交通の交差点であり、防衛上も有利な場所が小田原だったのです。北条氏の元々の根拠地は伊豆ですし、西と北は険しい山に阻まれ、南は海です。攻めるとしたら実質的に東しかありません。そして北条氏は東に向かっているわけですから、小田原は根拠地として理想的な位置にあるとさえいえます。正攻法でいくなら川越城や鉢形城、江戸城などをちまちま潰さねばならず、それは時間がかかりすぎます。上杉謙信は大軍で一気に小田原城を直接アプローチしましたが、小田原城は当時日本でほぼ唯一の城塞都市でしたからスケールが大きすぎて攻略できませんでした。 しかし江戸城があるじゃないか。家康は江戸に根拠地を移したとおしゃるでしょうが、当時の江戸は湿地帯が広がる「どうにもならない場所」でした。今の世田谷区辺りは、沼地だったんです。だから大地震がくると世田谷は液状化現象が起きます。渋谷はその名の通り谷です。今も渋谷駅近辺は低くなっていて、宮益坂を始め周辺の坂はすべて渋谷駅に向かって下っています。五反田辺りは低くて、満潮時には五反田辺りの目黒川は潮の匂いがするほどです。翻って東側は、当時は利根川は荒川に直結していて、荒川から江戸川や隅田川が分かれていました。群馬県で大雨が降ると、全部荒川に集まって江戸川や隅田川にも流れていきます。つまり、しょっちゅう洪水が起きていたのです。だから江戸幕府はほぼそのすべての期間を通じて利根川を銚子方面へ流す工事をして、今の流れになったのです。また今の丸の内方面即ち私たちが「江戸」といわれて思い浮かぶ市街地の多くは埋立地です。天下人になった家康が全国の大名に埋立工事を命じたのです。天下取った人だったからそういう大工事もできたわけですが、当時の北条氏くらいの資金力ではそこまでの大工事を行うのは不可能です。 信長は岐阜を作り、家康も江戸を作り、政宗は仙台を作りました。彼らには都市を整備する土木や都市計画に対する優れたセンスがあったと思います。また、「おいお前ら、俺はこっちに引っ越すぞ」といったときについてくる忠誠心の篤い子飼いの家臣団を持っていたというのもあったでしょうね。 上杉謙信は、元々関東管領を名乗ったりして関東志向だったのですから、厩橋(前橋)に子飼いの家臣を置いて関東へのしっかりした支配体制を築くべきだったでしょうが、天才肌の謙信はそういう都市計画のセンスがなかったし、代わりにそれができる家臣もいなかったというのが彼の悲劇のひとつだったでしょうね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 信玄の場合甲斐を子飼いで固められなかったという面もありますし、むしろ最前線にこそ信頼おける子飼いを置いてる様子もありますね。 前線に外様・・・というか独立色の強い武将を移封すると寝返りの心配も必要ですし武功あげたなら武功挙げたで発言権が増してやっかいですし。ただ食料生産云々言いだしたら甲斐こそ水に不便するろくでもない地で、上田あたりのほうが豊かではと思ってしまいます。周りも山に囲まれ防衛に向いてそうですし。 じゃあ真田どこにもってく?そもそもあいつら梃子でも動きそうにないぞwってのはありますが。 北条は小田原があまりに優れてるのであえて振れませんでした。 上杉は・・・、謙信の軍事や商売の話はよく聞きますが内政の話はあまり聞きませんね。確かにそっちのセンス無かったのかもしれませんw ご回答ありがとうございました。
- FEX2053
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要は「田舎から都会に進んだ」だけの話なんじゃないかと。 戦国大名とて「経済」とは無縁でいられません。新しく拡大した 領土により大きな経済都市があれば、そっちを拠点にする方が 税収も上がりますし、当時絶対必要だった「人的資源」も集め やすいですからね。 すなわち「西進した」信長は、明らかに「より大きな都市」を攻略 しただけ、安土は、京都(当時、日本一の大都会です)が征服でき なかったので、より流通に有利な土地に、新しくデカい経済都市を 作り上げたってだけの話です。 逆に言えば「動けなかった」戦国大名は、その拠点都市(信玄で 言えば甲府)以上の魅力ある都市が、近辺になかったって話なん じゃ無いかと思いまし、謙信の小田原遠征は「どうしても大きな 経済都市が欲しかった」んだと思います。
お礼
うーんどうでしょう?信長の場合京には近づいてますが岐阜より名古屋の方が明らかに経済的にはでかいでしょう。 家康は京から離れていきますが徐々に豊かな地に移動してますね。 政宗は・・・荒廃した会津若松より米沢の方が当時は豊かでしょうが会津若松は天然の要害で広大な盆地を開墾し放題、軍事的意図か経済的意図かとらえがたいです。 謙信は支配領域で明らかに直江津が豊かですね。信玄はどうでしょう?確かに田舎ばっかで魅力的な地はあんまないです。 ご回答ありがとうございました。
お礼
あー確かに、甲斐守護武田信玄としては甲斐を離れるわけにはいかないですね。ご回答ありがとうございました。