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顔淵のどこが偉いの?
いま、論語を読んでるんですが、なんで孔子が顔淵をべたぼめするのかよくわかりません。徳が高いといいかすが、具体的にどんなとこが偉かったんでしょうか。 また顔淵は非常に貧乏な暮らしをしてたそうですが、このような人物が現代に生きていたら、はたして評価されるもんなんでしょうか?
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何かを成し遂げたとか、すごい能力があったとかという人ではないですねえ。 以下は個人的な想像です。 まず、あまり人に嫌われない人だったと思います。 論語を読んでも、この人の悪口はあまり無いようです。 子貢や子路がちょと嫉んでたようなフシはありますが…。 努力家で、素直で、それに加えて頭も良かったのでしょう。 しかし、孔子が顔回を評価するのは、最終的には、 「孔子と顔回の資質が合っていたから」 ではないでしょうか。 『わが言に於いてよろこばざる所なし(先進篇)』 孔子のようなアクの強さとバイタリティは無いようですが、 それ以外は、方向性においてぴったり合っていたものと思います。 だから孔子は、美しい鏡を見るような気持ちで顔回をほめ、 自分の後継者として期待していたのでしょう。 もしも孔子がいなかったら、顔回は歴史に残る事は無かったと思います。 「まじめで優しい寺子屋の先生」ぐらいで一生を終えたのではないでしょうか。 能力という点では、子貢や子路の方が上だったかもしれません。 しかし彼らは、資質の方向性が孔子とは違っていました。 だからしばしば、言い過ぎをして、しかられます。 孔子は彼らを「優秀な弟子」とは思っても、「後継者」としては見られなかったと思います。 結局、孔子の学問を継いだのは、孔子に「鈍い」と思われていながらも、 資質の方向が近かった曾参でした。
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- eeldog_2005
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単純化していうと、顔淵(顔回)の偉いところは、「はたして評価されるもんなんでしょうか」というようなことを気にかけていなかったということにあるのではないかと思います。 「具体的に」と言いますが、徳の具体的な表れは、その局面ごとの顔淵の行動に現れていたのでしょう。でも、それは具体例の積み重ねであって、その徳そのものを言い表すことは難しいのではないかと思います。つまり、「具体的に」言っても、あまり意味がないのではないか、ということです。 ところで、酒見賢一の「陋巷に在り」は、まったくのフィクションですが、かえって、ある種の真実の姿(と思える)が、書かれていると思います。 エンターテイメントとしても楽しめますので、ご一読をお勧めします。
お礼
世俗的な評価や利益を離れるのをよしとすると、儒教よりも老荘に近いように思えます。 「陋巷に在り」、ちょっと読んでみます。 回答ありがとうございました。
bougainvilleaさんは、顔淵の偉さが分からないのですね。 その偉さを分かるように回答すればいいのですね。 具体的に、質素な生活をしていて偉いということがかかれてあったのですね。 それに対して、質素な生活をしているだけでは偉いということにならないだろうと考えているのですね。 そうすると、顔淵の偉さは、外見の具体的なことではないということになりませんか。 顔淵をまねて、質素な生活をしているだけでは偉くなれないのでしょうね。 外見の偉さであれば、社会で高い地位についている人は、皆、偉いように思えますが、内面の偉さは、それを示すものが普通の人には見えないのだと思います。 顔淵ような内面の偉さは、孔子のように優れた人でなければ、評価できないのではないでしょうか。
お礼
回答ありがとうございます
お礼
回答ありがとうございます。各国で受け入れられなかった孔子が顔回を気に入るというのはわかりやすい図ですね。 現代に生きてたら、顔回はいい人どまりかもしれませんね。