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朝聞道、夕死可矣
こんにちは。この質問に興味を持って頂き、ありがとうございます。 孔子は言った。「朝聞道、夕死可矣」{ 朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり。} これは、どういう意味なのか?(論語には、いろいろな解釈があるそうなので) 時代的背景にのみ成り立つのか、現代には、通用しないのか。 教えてほしいです。よろしくお願いします。
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No.4です。 なるほど、死に対する御懸念がおありになるということですね。 死んでも構わない、というのは孔子の覚悟の程度の比喩的表現です。 だから「可なり」なのであって、「死すべし」ではないのです。 可能であって当為ではない。 死は選択肢の一つであって、必然ではないということです。 当然、比喩ですから、真理を得たところで孔子が死のうと思うわけはないし、死んでいい、と弟子に許可しているわけでもなく、ましてや死ねと言っているわけでもないです。 よく勘違いされることですが、論語は決して孔子が自分の思想を広めるために書いたものではありません。弟子が師の言葉を孔子の死後に書きとめたものです。 例えば、不惑といった年代の表現でも、40にして迷うな、という意味にとらえられがちですが、孔子は自分はそうだった、と言っているに過ぎない。人はそうあるべきだ、と当為で語っているわけではないということですね。 死可の部分も、死の意味を具体的に読み取ろうとしなくてもいいだろうと思います。 今でも「死んでも約束は守る」と言いますよね。慣用句的な意味としての死と考える方が妥当だろうと思います。 慣用句を比喩とせず、具体として考えると孔子が言いたかったこと、あるいは質問者さんが子供に伝えたいと思うこと自体が伝わらなくなってもしまうでしょう。 比喩表現の死にこだわるあまり、この言葉を子供に伝えることをためらうならば、それこそ大いなる損失となるだろうと思います。 仰る通り、子供にこそ論語は知っておいてもらいたいですよね。 孔子の教えは謙虚でシンプルなものだと思います。 孔子の人のよさこそが孔子の教えの骨子ではないかと個人的には思っています。 人として当たり前のことが当たり前ではなくなってしまうのが世の中というものであり、その理不尽を孔子は素直に嘆いているように思います。 その素直な境地は子供の方があるいは共感しやすいかもしれません。 孔子はおそらく何も教えはしないでしょう。ただ、思ったことを語るのみです。それは教育でも指導でもなく、物語です。おそらく子供にも受け止めやすいはずです。 ですから、論語を教えるのではなく、ただ本を読み、孔子と出会ってほしいと思います。 子供は直観的に真理を受け取るだろうと思います。
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- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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ANo.5です。 pixsfineさんコメントを有り難う。 少しpixsfineさんに失礼かと存じますが、コメントを頂いたので、ちょいと私の主観からの感想を申し上げます。どうか気を悪くしないで下さい。 言葉尻になりますが、【なるほど、】“なるほど”っていう語列はお礼欄でのコメントでよくみかけるのですが、私たちはこお語列を書くことに抵抗を感じます。 【”求める人の充実感を吐露した言葉”でしたか。そこまで気がつきませんでした。】 いえ私はそうとしか受け取れず、そのように共に感じました。 【それならば、現代人でも、同じ充実感があっても、自然ですね。】 同上 【”我、日々に死し日々に生きる”】 これは生活者としては誰もが感じざるをえないことがらでしょう。 【“荀に日に新たなり、日々に新たなり”この言葉の意味を知りません。わたしの生活には、おそらく登場してこない言葉だと思います。】大学(四書五経の中の)ですが貴方に登場してこないって奇妙な表現と存じます。人生とはそういうものでしかありませんので。 【人生は、四季の移り変わりであり、長い一日でもあるからです。】 そうですね。 【「朝」を若い時とし、「夕」を年老いた時と解釈すれば、「若いうちに道を聞いたならば、年老いて死ぬまで、コツコツ学び続けるのが良い」と、解釈することも、出来そうな気がしてきました。】 私はそういう受け取りは全くできないですね。 精進や生活は死ぬまでコツコツやるのですが。 「朝」とは元旦の「旦」であり、「一旦」でしょう。その瞬間でしょう。 【万人に実践できる範囲でなければ意味をもたないと思っておりますので、今、思いついた、こちらの解釈で、実践させていただきたいと、思いました。】 はい結構です。どのような【万人】かですものね。 pixsfineさんのいわれる【万人】に意味がなくても、真理は真理でしょう。 これは実践する事柄でもなく、そうでしかない事柄ですので。
お礼
まずは、お礼が遅れたことを、お詫びします。 私は、昼も夜も働いていますので、空いた時間にしか、 返事ができませんので、ご了承ください。 続いてお礼を申し上げます。 私の解釈を、証明していただき、ありがとうございました。 昔から、若い時は、一瞬の輝きである、と言われています。 私に気遣いは無用です。遠慮なく、krya 様の、主観で、お願いしたいです。 多少、乱暴でも構いませんので、どうか遠慮なくお書き下さい。 このたびは、私の生活に、一日の区切りなどない事、 そして、一時間ごとに新しい自分に変わっている事を、 説明しなかった為に、誤解が生じましたので、もう一度、 お詫びします。大変失礼いたしました。 こちらの質問は、明日未明に閉じさせていただく予定です。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
[朝聞道、夕死可矣] 時代的背景にのみ成り立つのか、 ○ 道を求める者がいる限りいつの時代でも成立する「一点語」ですね。 現代には、通用しないのか。 ○ 道を求めることのない一般の多くの人には何の意味もない言葉でしょうね。 むしろ誤解や誤解釈を恐れるのであれば不要な言葉でしょう。 そういう意味では通用しないということでしょうね。 でも上の回答でも述べたごとくいつの時代でも一群の道を求める者がいることは事実ですね。その人たちへの道しるべですから[朝聞道、夕死可矣]は不変ということですね。 強いていえば、孔子の論語は「道を求める者」に対する孔子の回答集ですから、それ以外の者には通用しないのかもしれませんね。
お礼
mmky 様、ありがとうございます。現代でも通用する人には通用するんですね。解釈が難しくなった現在では通用しないとも言われかねませんね。たった、七文字が、これほど難解だとは、人の言葉とは、かくも深いものであったかと、思い知らされました。ありがとうございました。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
ネットでは変な頁ばかりが上がってきますが、古人のことばで“学人の自己”というのを聞いたことがあります。 誠実に、真剣にそしてそれを普通にした生き方、求めて生きている人は、そういう喜びと充実感なんではないですか? 孔子の時代の時代的背景を考慮しての理解もありましょうが、私は求める人の充実感を吐露した言葉だと受け取ってきていますが。 《「死んでも構わない」で、お子さん達に、論語を教えるとき、このまま教えて良いものか。 危険な考えを持たれはしないかと、心配しております。》 とは始めてであったご心配ですね。 こういうことは語る人が語り、受け取る側が受け取るものでして。 そうでない人がそうでないところで語ってもしょうがないことですよね 意気に感ずることもなく、理屈と現実の運びレベルだけの人に何か言っても通じないのではないですか。 「死んでも構わない」ってそういうレベルのことですからね。 判らない人には、我、日々に死し日々に生きるも判らないんですよね。荀に日に新たなり、日々に新たなりも、そういう事ではないかと、現代人の私は孔子の言葉を受け取っていますが。
お礼
krya1998 様、ご回答を、ありがとうございます。 なるほど、”求める人の充実感を吐露した言葉”でしたか。そこまで気がつきませんでした。 それならば、現代人でも、同じ充実感があっても、自然ですね。 孔子による、教えの言葉だとばかり、思っていたもので、危険な感じがすると、思っていました。 ちなみに私は、”我、日々に死し日々に生きる”そして ”荀に日に新たなり、日々に新たなり”この言葉の意味を知りません。わたしの生活には、おそらく登場してこない言葉だと思います。 私にとって、人生は、、四季の移り変わりであり、長い一日でもあるからです。 今、お礼を書きながら思いついたのですが、「朝」を若い時とし、「夕」を年老いた時と解釈すれば、 「若いうちに道を聞いたならば、年老いて死ぬまで、コツコツ学び続けるのが良い」と、解釈することも、出来そうな気がしてきました。 私は、万人に実践できる範囲でなければ意味をもたないと思っておりますので、今、思いついた、こちらの解釈で、実践させていただきたいと、思いました。 はからずも、新しい発想に至る、機会を与えていただいたことに感謝します。
- codex_regius
- ベストアンサー率52% (55/104)
儒家思想において道は道義的真理だと思いますから、真理を朝知ることができれば、夕方死んでも構わない、という意味だろうと思います。つまり、それほどの覚悟で孔子は真理を渇望していた、と解釈しています。 すさまじいまでの真理への探究心ということですね。 時代背景にのみ成り立つのか、とお尋ねになっているということは、質問者さんは違う解釈をされているということでしょうか。 真理探究への真摯さはどの時代の学者にも通じるところだろうと自分は思います。
お礼
codex_regius 様、ご回答をありがとうございます。 真理を朝知ることができれば、夕方死んでも構わない、という、 すさまじい探求心を表現するものである。 という解釈として参考にさせて頂きます。 実は、私が現代に通用しないかも知れないと思ったのは、 「死んでも構わない」の部分なのです。 お子さん達に、論語を教えるとき、このまま教えて良いものか。 危険な考えを持たれはしないかと、心配しております。 今、本当に論語を必要としているのは、この腐敗した世の中を、 変えていかなければならない、お子さん達であるからです。
- HANANOKEIJ
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好きな言葉です。「朝に道を聞かば」どんな苦難、苦労、拷問でもおそれないぞ、という覚悟のことだと聞きました。 少数派、負け組、生涯仕官と無縁だった孔子の、自分の信念です。もののふは、かくありたいものです。 道とは、真理のこと。大義のこと。 現代に通用するか、しないかは、あなたしだい。道に出会えば、わかります。 孟子の、「自らかえりみて、直からずんば、・・・。自らかえりみて、直くんば、千万人といえども、我行かん」 「至誠にして動かざるは、未だこれあらざるなり」なども、好きです。
お礼
HANANOKEIJ 様、ご回答を、ありがとうございます。 当時は内乱が絶えないようでした。そこで活躍された武将もいたと思います。 孔子も武将のごとく、強い意気込みを持っていた。という解釈として、 参考にさせていただきます。 現代に通用するか、しないかは自分しだいのようですね。
- kuriabook
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誰の本か忘れたけど、こういう解釈がありました。 道を聞く、とは勉強を教えてもらいに行くこと。 当時はネットはおろか紙もない時代なので、 学問をするには遠くまで歩いていかなければいけなかった。 しかも治安は最悪。 朝勉強をしに行ったら、帰りは殺される可能性も充分ある。 そのくらいの覚悟をもって学問に取り組め、と。
お礼
kuriabook 様、回答を、ありがとうございます。 なるほど、山賊や、内乱に巻き込まれる可能性は、当時の状況ならば、 十分に考えられます。 状況を考慮したうえでの解釈として、参考にさせて頂きます。
- tumaritou1
- ベストアンサー率28% (260/913)
人間には多かれ少なかれ、人生に対する不安が付き纏っています。生きてゆく事に対しての不安です。この場合の『道』と云う問題の答えとは、仏教における『悟りを開く事』を意味しています。 この意味するところは、人間の心に対する、理解です。或は、不安や恐怖心や疑問に対する答えです。『人間はどうして、苦しまなければいけないのか』と云う事の答えが『道に至る事』を意味しているからです。 人間は、如何しても『死を厭います』その答えが『道』に至る事によって判るからです。簡単明瞭に書くなら、『自我意識』が真実の世界に目覚める事が出来ない事で、死を恐怖していると云う現実があります。 わかり易い例を引くなら、人間の目の前に展開する世界は『全てが真実の世界ですが』目の前に展開する世界が『偽物の世界に見える場合も在る』と云う意味です。 一つしかない世界を『心の持ち方一つで』二つにして見てしまう場合です。恰も、受入れがたい現実が目の前にあるように振舞う場合です。この場合に心には、不安や恐怖が走ります。つまり現実には無い、頭の中の世界で『身体と心』が、実際に不安や恐怖が在るように感じてしまって、反応する場合です。 この場合、頭の中で作られた世界を『妄想』、現実に展開する世界を『真実の世界』と云う風に二つにして見ています。この頭の中で作られた世界を人間は『地獄』と感じて、古今から苦しんできた事になります。 この苦しみからの解消を『道』に至ると言います。 精神科医が存在しなかった昔は、その心の救済を、宗教が果たしていたと感じます。今は宗教の意味さえも、あやふやになって、宗教家の家系でさえ、宗教の意味が判らなくなっていると感じられる向きもあります。 どうして人間は『人生に対して、或は死に対して、或は生きる事に対して』不安を抱えてしまうのか?と云う悩みがあります。 この悩みとは『心の矛盾』の産物です。魂の救済とは、『心の矛盾の解消』と云う事になります。 心の矛盾の解消とは、二つにして見ている世界を、もう一度一つに見えるようにすると云う意味になります。自我意識が見ている世界が真実の世界と重なって見えるようになると云う意味です。 それは、見る者と見られる者が一つになると云う意味でもあるし、悩む者と、悩ませている者が一つになると云う意味にもなります。 言い方を替えるなら、命を惜しんで、限り在る命を儚んでいた者が、自身の中に『もう既に永遠の命が宿っていた事を知る事』で、死に対する恐怖感が消滅する事を意味しています。 この体験の事を『生死の問題が解決する』『魂が救われた』と言います。此れ以後、心には『死に対する恐怖感が消滅します』 この体験後は、生きてゆく事に、不安がなくなってしまいます。生きるも死ぬも自由と云う心境になります。つまり自身の心は『争わなくなって、心は静寂に包まれます』 死を受け入れる事が『意識の根底から出来た時』全ての疑問や、障害が取り払われて、全てが肯定出来る者として『新生』します。仏教の要諦はここに有ります。同じ心的内容を『孔子は言った。「朝聞道、夕死可矣」{ 朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり。}』 ソクラテスが言った事『汝自身を知れ』と云う意味と同じです。キリスト教的に云うなら『神と和解せよ』と云う事になります。自身を不安におとしめていた者は『実は自身の心』だった事が分る事を意味しています。
お礼
回答ありがとうございます。その通りでした。仏陀と、孔子は、同じ時代を生きた人達でした。同じ時代の背景において、同じ迷いのなかで、「道」すなわち「悟り」を求めた事は自然な事であり、縁、を感じました。 tumaritou1 様の解釈は、本来であれば、私にとって、十分な指標となるべきものです。しかし、現在もちいられている、論語は、「論語集解」に基ずくものであり、それ以前にまとめられた物は、既に消失している為、直訳してよいものかどうか、判断に苦しんだあげく、今回の質問に至ったものです。 この事情により、また違った解釈も、待ってみたいと思いますので、もうしばらく、質問を続けさせていただきたく、お許し願います。 ありがとうございました。
補足
この場を、おかりして、補足させていただきます。 孔子は日頃から、弟子達に対して「死を語る暇があったら、良く生き、良く人に仕え、良く働きなさい」と、 言っていたそうです。 ですから、道を探求する者が、死を可とする筈がないと思いました。それで、別の解釈が、あるのではないかと思ったわけです。 弟子が孔子に対して、こんな質問をしています。「先生ほどの人なら、仁、に達したといえるのではありませんか?」これに対して孔子は「未だ成らず」と答えています。つまり、孔子は「悟り」に達していなかったわけで、あくまでも、「道」の探求者としての立場を、くづさなかったのです。 これをふまえて考えますと、孔子の言葉としては、「あすに道有りを聞かば、夕べに士官するも可なり」の方が、現実味を、おびてくる様な気がしました。 これは、あくまで私個人の考えなので、あてになりません。 皆様のお知恵を借りたいと思います。よろしくお願いします。
お礼
>論語は決して孔子が自分の思想を広めるために書いたものではありません。弟子が師の言葉を孔子の死後に書きとめたものです。 その通りでしたね。 私は実践に、こだわっていたようです。そのために、教科書として、論語を読んでいたようです。 codex_regius 様、教えて頂き、ありがとうございました。