はい。疑いもなく。
ところが、自然数が奇数と偶数からできていて、それらの個数が無限大だとすると、自然数の個数=奇数の個数+偶数の個数のはずなのに、無限個=無限個+無限個といった表現は数学的にはまずいような気がします。2×無限個=無限個+無限個としたいところです。
言語は道具であって、数学もまた、その道具の類だから、限界があるのでしょう。無限なものを有限なものにする人間の認識は、その生み出された有限の世界の中でしかうまく機能しないような気がします。また、その道具を使うのは人間ですから、人間の限界ともいうべきですか。
記録のない歴史の時代の、発掘された道具から類推して、太古の人間像を浮かび上がらせように、言葉というものは、人間の心を類推させます。論理的な一面もあるが、それだけではないと思うのです。論理的言語の限界が、心の無限性をうらづけてはいないでしょうか。
「この世は、有限なものと無限なものでできているとおもわないかね」(プラトン『ピレボス』でソクラテスが語る存在基礎論より)
2+3=5について、これを綜合判断とカントが言うのは、2+3を前提に5という結論が出るとしているからで、論理実証主義についてはよく分かりませんが、分析判断と主張する人は、5=2+3と考えているのではないですか。また、このような分析が可能であることを前提しないで、2+3=5などという判断ができるだろうか、という立場なんでしょうか。綜合判断といえども分析された世界の範囲にとどまった綜合なのでしょう。
言語は限界をもちながらも、無限なものを無限という名で表し、自らの限界を越えようとするものです。ですから、無限と有限を大胆に一つの世界にみる古代の賢者に、私は魅せられています。
お礼
どうもざわざありがとうございました。 5396+35205を記憶した生物がいたとしたら先天的必然性を問題にする必要も無いですね。