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1+1=2でしょうか? (分析哲学)
1+1=2でしょうか?
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- corpus
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#15です。 連合学習というのは、同時に二つのものを感覚することを何回も経験すると、その二つが結合して学習されるというもののつもりで書きました。1+1=2の場合も、”1+1=”と”2”を何度も同時に観察することが多かったので、今もそれが記憶に残っているということです。ただ5396+35205の答えは何かというと、単純な連合学習では説明できないかもしれません。
- corpus
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#12です。 条件反射的というのは、幼いころの連合学習による後遺症だと思っています。 機械的に計算をしつづけていたということです。 もし1+1=6ということを学習していたら、私は1+1=6を正しいと感じていたでしょう。 それだけのことです。
お礼
ご回答いただいた皆様どうもありがとうございました。 ポイント評価の方が皆様の回答がどれも素晴らしく甲乙つけがたいので今回は無しにいたしました。 またよろしくお願い申し上げます。
補足
すいません、連合学習ってなんですか?
#13です。 1+1の事は#8の回答さんがすでに書かれていたのですね。 しかし、哲学的に1+1を考えれば、 1人で出来ない事を2人ですると1つの事が成し遂げられると いう解釈をする事が出来ます。 そう、1人+1人=2人と1つの事を成し遂げるという事ですね。 まぁ、チームを組んで仕事を成し遂げるという事でしょうか。 なので2人以上のチカラを出す事があるのでしょうね。 (1人1人だと100%チカラを出せないとも言えるのかも知れませんね。火事場のチカラって事ですか。)
お礼
どうもありがとうございました。 たいへん参考になりました。
1+1をアンド回路と解釈すれば別の解釈が生じますね。 http://www.infonet.co.jp/ueyama/ip/semi_cnd/gate.html
お礼
どうもありがとうございました。 たいへん参考になりました。
- corpus
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1は0の後続数であり、2は1の後続数であります。 後続数のことを+1と表記すれば、2=1+1となります。 しかし、私は条件反射的に1+1=2となるものだと思ってしまいます。 計算のようで実は計算でないかもしれませんね。
補足
質問の趣旨をご理解いただきありがとうございます。 >私は条件反射的に1+1=2となるものだと思ってしまいます。 この「条件反射的に」とはno11で補足させていただいた どちらの立場によるものでしょう。 つまり認識のアプリオリな形式によるものか同義反復的な性格に由来するものかということです。
はい。疑いもなく。 ところが、自然数が奇数と偶数からできていて、それらの個数が無限大だとすると、自然数の個数=奇数の個数+偶数の個数のはずなのに、無限個=無限個+無限個といった表現は数学的にはまずいような気がします。2×無限個=無限個+無限個としたいところです。 言語は道具であって、数学もまた、その道具の類だから、限界があるのでしょう。無限なものを有限なものにする人間の認識は、その生み出された有限の世界の中でしかうまく機能しないような気がします。また、その道具を使うのは人間ですから、人間の限界ともいうべきですか。 記録のない歴史の時代の、発掘された道具から類推して、太古の人間像を浮かび上がらせように、言葉というものは、人間の心を類推させます。論理的な一面もあるが、それだけではないと思うのです。論理的言語の限界が、心の無限性をうらづけてはいないでしょうか。 「この世は、有限なものと無限なものでできているとおもわないかね」(プラトン『ピレボス』でソクラテスが語る存在基礎論より) 2+3=5について、これを綜合判断とカントが言うのは、2+3を前提に5という結論が出るとしているからで、論理実証主義についてはよく分かりませんが、分析判断と主張する人は、5=2+3と考えているのではないですか。また、このような分析が可能であることを前提しないで、2+3=5などという判断ができるだろうか、という立場なんでしょうか。綜合判断といえども分析された世界の範囲にとどまった綜合なのでしょう。 言語は限界をもちながらも、無限なものを無限という名で表し、自らの限界を越えようとするものです。ですから、無限と有限を大胆に一つの世界にみる古代の賢者に、私は魅せられています。
補足
質問の趣旨をご理解いただきありがとうございます。 簡単に言うとこういうことなんです。 カントの説では、2+3=5と言う判断は理性の先天的形式によるものでしかも新しい知識が加わるので先天的綜合判断であり、論理実証主義の見解によれば、2+3=5という判断の先天的必然性は記号の用法の取り決めと演繹的で同義反復的な性格によるものだということです。 だから論理実証主義の立場では先天的即分析的な判断になり、総合的な命題とは経験によって真偽が決定されるような感覚命題のみということになります。 問題はコンベンショナリズム対論理のリアリズムと言うことだと思います。 クワインはこう言っています。 「分析的な言明と総合的な言明ののあいだの境界は、まだ引かれていない。そもそもこうした区別が必要だということそのものが、経験主義者の非経験的なドグマであり、形而上学的な信条なのである。」
- nabayosh
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>例えば2+3=5 >はカントによれば綜合判断で >論理実証主義によれば分析判断ということですが >どう思われますか? それぞれの立場でそう思うのなら、それでいいと思います。私がそれらについてどうこう言うつもりはありません。 ただし、私の先の回答は、確かに双方のハイブリッドなところがあるようですね。
お礼
そうですか。 どうもわざわざありがとうございました。
- 8942
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水素2リットルの値段をa 酸素1リットルの値段をb だとする この水素と酸素をセットで売るとと 価格はa+b+α でも良い場合はあるでしょうね。
お礼
どうもご回答ありがとうございます。 αは付加価値ということでしょうか。 なるほどよく分かりました。 どうもありがとうございました。
自分はかつて、1+1=1だと考えていました。確かにそう考えていた思考形跡が記憶にあるのですが、その回路に今は電気が通っておらず、説明することはできません。 この世には様々な結びつき方があり、安逸に1+1=1(乃至2)であるとはいえないと思います。 赤+橙+黄+緑+青+藍+紫=虹とも言えれば、=白とも言えます。 1+1も混ぜれば1ですが、個の境界を保って、集合として見るならば2と言うことができます。 1+1が2になるよりも、1になる方が、論理としては原始的で、たやすいのではないかと私は考えます。
お礼
どうもご回答ありがとうございます。 >1+1が2になるよりも、1になる方が、論理としては原始的で、たやすいのではないかと私は考えます。 なるほど論理というのはそういうものかも知れませんね。 たいへん示唆に富んだご回答ありがとうございました。 よく考えて見ます。
- kigurumi
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No6です。 >ラッセルの名前を出すと 私の暗示がわかったのでしょうか? それともただの偶然だったのでしょうか。 ただの偶然ならすごいですね。 二つの映画の主人公が陥ったもの。 それが全ての疑問の根源だと思えます。 この謎が解けたら、答えが見つかると思います。
お礼
あまり内容のある映画とは思えませんでしたが、もう一方の映画とはなんでしょう?
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- 2
お礼
どうもざわざありがとうございました。 5396+35205を記憶した生物がいたとしたら先天的必然性を問題にする必要も無いですね。