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江戸時代は箪笥預金しか方法がなかったのでしょうか

家族や奉公人が寝静まった深夜 商家の旦那が床の間の床下へ隠しておいた甕を引き上げて 一枚 二枚・・・小判を押し頂いてにんまり なんて光景が時代劇にありますが 江戸時代というのは カネを保管するには すべて自己責任 庭に埋めるか箪笥預金しか方法がなかったのでしょうか

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  • Pinhole-09
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回答No.3

町人の金持ちは盗賊を恐れて、信用ある両替商に金を預け、預かり手形を受け取りました。   いまの預金証書ですが無利子です。   銀行の貸し金庫という所です。    両替商はこの預金も、無利子の幕府の御用預かり金と共に、高利で貸し付け莫大な利益を得ました。 大名貸しでは五年年賦で、年一割から一割二分の利子を取ったと云われています。  商人貸しはわかりませんが、年一割二分が相場でしょうか。 江戸時代は多様な高利貸がいたといいます。   公認は質屋とNo.2さんの座頭貸しですが、利子は時代で変りますが、年一割二分から一割五分と云われています。   これらも庶民から有利子の、金を集めていたかも知れません。   もぐりの高利貸があります。   小口貸しでは年十割も取ることが、あったそうです。   これも金集めしたことでしょう。 一般庶民は銭を壷に入れ、板敷きの下や土間の穴に隠す、おなじみの方法と言われています。

essa5242
質問者

お礼

う~む やはりそうでしたか わがご先祖様のような一般庶民は「壷隠し」方式だったのですね もっとも たいそうな現金があったとも考えられませんから それで安心だったんでしょう

その他の回答 (3)

noname#24872
noname#24872
回答No.4

No.2の方が書かれているように、江戸時代には両替商が今日の銀行業務のような役割を果たしていましたが、両替商の扱う金額は、とても一般庶民が日常扱うような少額ではありませんでした。 そこで一般庶民は、頼母子講あるいは無尽講とよばれる組織を作り、少額の金銭を持ち寄って運用しました。 頼母子講や無尽講は、一種地域コミュニティーとしての色彩が強い組織で、飲み会や雑談のための溜まり場的な要素もあり、貯蓄や利殖だけを目的としたものでは無いのですが、実態は今日の信用金庫にかなり近いものであったと言えます。 少し長いですが、下記のURLに詳しく書かれていますので、ごらんになってください。冒頭から、全体の一割くらいの部分までの記述です。 http://www.h6.dion.ne.jp/~tanaka42/sinwa-3.html

essa5242
質問者

お礼

参考URL 読ませていただきました 「講」という言葉自体は 私が子供の頃も(半世紀以上もの昔)生きていたように記憶しています 江戸時代の一般庶民が 貧しいながらも(本当に貧だったかは?ですが)あれやこれや智慧をつくして生活していたのですね ・・・・・・ 素敵なご回答をお寄せくださいましたみなさま 6dou rinneさま buchi-dogさま Pinhole-09さま a6m2nさま ありがとうございました

  • buchi-dog
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回答No.2

今の銀行に相当する両替商が、預金の受け入れに相当することをやっていたようです。 日銀のサイトより http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/feature_35.htm 資金運用ということでは、金貸しを公許されていた盲人に自分のカネを預け(金主と呼ばれる)、盲人が金貸しを行って得た利益の配当を受けるようなことがあったようです。 これは、現代の銀行やノンバンクが、預金者から集めたカネをサラ金に貸して利ざやを稼ぐのと同じことです。

essa5242
質問者

お礼

日銀サイトの説明を読ましていただきました 専門用語がたくさんあって完全には理解できていませんが 両替商の信用を基にした信用取引が発達していた ということですね 両替商では わがご先祖様のような一般人の ささやかな日銭なんかも受け入れてくれたんでしょうか?

  • 6dou_rinne
  • ベストアンサー率25% (1361/5264)
回答No.1

小額のお金なら箪笥預金しかありませんが、多額のお金があれば投資するという手はありました。 そういうお金を集めて相場に投資したり、新田開発などに投資するというファンドみたいなのもありました。

essa5242
質問者

お礼

う~ん やっぱり銀行なんかはなかったんですね 投資といっても 簡単じゃないしリスクもあるし・・・ もっとも 私のご先祖様を江戸時代まで辿ったとしても 大判小判にはまったく縁のない方々だったでしょうから 心配するこたあありませんが・・・

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