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人権と犯罪

日本国憲法により、自由と人権は保障されます。しかし、犯罪を犯した場合は、自由は一旦担保され、拘束を強いられます。と、ここまでは法治国家として当然の行為であり容易にその制度は理解できますし、今後もこの部分が大幅に改正されることはないと思いますが、一定ラインを超えた場合、その者の人権は天寿をまっとうすることなく剥奪される事となります。すなわち死刑です。 何度か別カテで死刑の是非のような質問をしましたが、廃止理由としては「冤罪の危険性」と「人権問題」に2分されています。「冤罪」に関しては「絶対悪」と断じて問題ないと思われるので、それについての意見は割愛しますが「人権」について今ひとつわからないので質問させていただきます。 死刑廃止論者の言われる人権とはおそらく「どういった法制度の国に生まれたか」といった、運命もしくは流動的なものではなく、「生まれながらに持ち備えた普遍的な人権」を対象にされていると想像するに、その人権は一切ゆるぎなく、保障するべきものなのでしょうか? 殺人の被害者の人権を100%身勝手に剥奪し、直属の遺族の人権を踏みにじり>親戚の>友人の>職場、学校関係>・・・×何人となった場合、数学的帰納法により、 [加害者の人権100%-被害者の人権(100%-酌量)×人数 ]で場合によっては0になるのか、あるいは演繹法的に「たとえ100人の命を奪っても1000人の命を奪った人間でも、決して殺してはならない」とした前提をもって考えるものなのなのでしょうか?

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noname#20467
noname#20467
回答No.3

廃止論者ではないので、彼等の真意は分かってませんが・・・。 法的なことというより、彼等の人間観や人生観が大きな理由だと思います。何が何でもどんなを手を使ってでも、殺してはいけないという方向の方もみますしね。人が人を裁けないとか、視点が宗教的な論ですよね。普遍的な人間論に持っていきたいように思いますが、ちょっと独善に感じることもありますね。 裁くことの限界や難しさはあるでしょうが、社会を構成しているからには、その構成員を殺害したり多大な害を及ぼした場合は、他の構成員が認める形で裁かれることは仕方がないというか、最初から構造としてそうなっているんじゃないかとは思いますが・・。人に人を裁けないというのは、人のあり方などについてみていて、視点が別ですよね。実際の社会問題にそのまま持ってくるのはちょっと乱暴かなと思います。 ただ人を裁かないような社会の方が、理想的望ましいという希望は分かりますけどね。

de-niro
質問者

お礼

う~ん。まったく、おっしゃるとおりなんですよね。 私は存置論的立場で質問するんですが、廃止論者様の多くの論調は、まず「存置=死刑大賛成」「死刑賛美者」「下賎な人間」「愚民」とした上で、語られることが多いように思います。 実際どうなのか、明言出来ませんが、 >他の構成員が認める形で裁かれることは仕方がない それも消極的賛成により成り立っているといった考えを留保していただければ より有効な意見が伺えるのでは?と想像するに、残念でなりません。 ご回答ありがとうございます。

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noname#31063
noname#31063
回答No.7

再びNo.2です。 >拘束=自由を奪うことと認識している… 自由は所属する以前に選ぶ権利のことで 所属して掟に従うものを守る保証となりますが、 もう飽きた幻滅した、 無理が生じたという意志の表明をして 直ちに所属から離れられる、 遠慮無く辞めれるならずっと「自由」です。 人間関係や経済的理由で意思表明しても 改善が無理、どんどん悪化するのに保証がなくなっていく。 と自由意志への信頼はほぼなくなるでしょう。 例えば所得のない老人が暴力やわいせつ行為をして 警察に捕まる事例が増えているそうです。 目的や行為は立派ではないけれども、 人権の尊重(?)をされて、 警察や検事や弁護士(立派な人間)に相手をしてもらい(?) 役割意識(?)を持てた充実感があるかも。 そんなの若い世代にあり得ないとも言いきれませんよ。 将来に絶望していたり、 自殺願望から、 有望そうな他者の人権を剥奪して 不遇で不安で不満で 被害妄想まみれがらみの自分に決別し使命感を得たい。 もう立派でなくてもそれなりに将来があること 自殺だと自分の最期に誰も気付かないかもしれない。 死刑は殺されるというより 孤独死にしないで済むという救いが、或いは願望が、 それが最後の自由意志として 加害者側にもあるかもと思うのです。 もし、日本が死刑廃止になっても 犯罪者を国税で賄えなくなると 警察官の銃規制を緩めるような事態も想像します。

de-niro
質問者

お礼

法の原理原則を逆手に取れば、ご意見のようなことは、起こりうるし、実際に起こっているのでしょう。 罰則として鞭打ちの刑に処しても受刑者が「ハードM」だったりすると逆に「ご褒美」になちゃったりして・・・   ご回答ありがとうございます。

回答No.6

こんにちは!! 法律はそれほど勉強しませんでしたが 参加させてください♪ 「人権」って言葉ですが、犯罪を犯した時点で 犯罪者の人権は国家の手によって侵害されます。 問題は剥奪する程度なのだと思います。 この辺の細かい話が余計に複雑にしているので ちょっと別のところから話をまとめていきます。 法律って結局は、 時代と共に変わりつつある大衆の意志が 少しずつ反映されたひとつの哲学として 捉えられます。 つまり そもそも、刑罰を定めるに当たり重要なことは ・我々が何を望んでいるのか、 ・我々はどのような社会が理想と考えているのか という根本的なところです。 罪を犯したAさんがいたとして 我々はAさんをどうしたいのか? 我々はAさんがどうなるのが理想と思っているのか? ということです。 そうやって見ると社会には二つの潮流があります。 ひとつは ハンムラビ法典ではありませんが 罪を受けたものの苦痛を加害者に与え 恐怖心に青ざめさせたり、苦痛に のた打ち回らさせたりすることを もって刑罰とする社会の願望(前者とします) もしくは 罪を犯した者がそれを心から反省し 慈悲深い天使のような人間に更生 されることを期待し そして、社会に復帰したときは みんながその者にうしろ指をさすことなく 温かく迎えるのがよいとする願望 及びそのような社会を努力して 作っていこうとする願望(後者とします) この二つに分けられますよね。 原始社会では前者が主流であり 成熟された社会では後者の思想が芽生えます。 残虐な事件が発生すると前者の思想が主流となり 犯罪の動機がお涙頂戴ものになればなるほど 後者の思想が社会を支配します。 また、 被害の当事者になればなるほど前者を切望し、 その犯罪から客観的な立場になればなるほど 後者の思想を理想に語るように思います。 死刑廃止論についてもこの二つのせめぎあいに 思えます。 前者は、No5のhakobuluさんがおっしゃるように 「生命を奪うことで憂さを晴らす社会」に対し 人間性への疑問に囚われます。 直接的であり現実主義であると思います。 一方 後者は、そのような理想が実現可能かどうか どんなやつでも更生って可能なのかよ。 そもそもそのような社会で殺人は起きないだろう!! という正しいツッコミが入ります。 理想主義というところでしょう。 さて、うーむ。 私の意見は後者の気持ちを大事にしたいと思います。 (死刑制度はあって良いと思いますが) 法律など国家の基盤を考える上で大事なのは 「現在の状況から理想を模索する」のではなく 「理想を想像した上で、現実をどう改善するのか」 の方だと思うからです。 理想というのは、実現可能かどうか分からなくても それを目指すことに意味があるわけです。 人間がより理性的な社会を作ろうと目指すなら 後者の気持ちを大切にした方が得だと思います。 きれいごとではありますが、法律や国家は きれいごとであるべきですね。 稚拙な文章ですが ご参考になれば幸いですヽ(´ー`)/

de-niro
質問者

お礼

ハンムラビ法典ですが、片目を奪われたものが、「片目を奪ったのだから相手の片目を奪うことで終わらせる」これは原始的な蛮習ではありますが、一発殴られたものが相手に殴られた分(一発)殴り返すことで終わらずに、殴った行為への復讐心でもう一発加えてしまうと、つまり一発を二発にして返すと、更に倍になって帰ってくる。それをまた倍にして・・・。とならないために、その原理として「復讐の連鎖防止」的意味合いがあったらしいです。 理性を持ち備えていることが、人類と獣類の違いのひとつであると思いますが、時として、そんなものはかなぐり捨て、本能剥き出しになる瞬間が誰しもあると想像するに、どこまでもセルフコントロールすることなくつっぱしった結果について「それを許容したら、人類と獣類の境界がなくなってしまうのでは。」というのが質問の趣旨です。 >稚拙な文章ですが ご参考になれば幸いですヽ(´ー`)/ 私のほうこそ文章が稚拙ゆえ、質問が説明不足で申し訳ありません。 ご回答ありがとうございました。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.5

>「冤罪の危険性」と「人権問題」 以外の視点で、廃止という立場で見解を述べてみます。 まず、「加害者の人権」ということについて少しだけ触れておくと、これは個々の犯罪の事情を忖度して決定せられるべきもので、中には人権を保持する権利は無い、と判断されても止むを得ない加害者が存在する場合もあると思われます。 にも拘わらず廃止の立場をとるのは、死刑制度を「被害者側の問題」として捉えるからです。 何の落ち度もない相手の生命を一方的な暴力で奪った場合、被害者側、あるいは一般国民が極刑を望むのは至極当然の成り行きであろうと思います。 「極刑」とは現在認められている最も重い刑、ということになると思いますから、感情的にも社会契約的にも正当な選択とされるべきでしょう。 ただ、死刑が実際に執行された後のことを私は考えます。 上記の理由が正当であるならば、自らの意志によって他者の生命を奪った(一般国民にしても間接的には同じことが言えるはずです。法務大臣個人の責任という「(精神的)逃げ」は筋が通らないでしょう。)、ということになります。 しかし、よく考えてみればこれを正当化するのは「ある種の感情」または「方法論としての社会契約」であるはずです。 ある種の感情とは、理不尽な暴力によって心から愛する、かけがえのない者を奪われた人の感情、ということですから、【極】の刑を望むのは当然である、ということは否定しません。 ですから、現在の段階での死刑全てに反対するわけではない、ということです。 しかし、理由の如何に拘わらず、「自らの意志によって他者の生命を奪った」という記憶が、その後その人にどのような影響を与えるのか、ということを考慮する必要があるのではないかと思うのです。 誤解を怖れずに言えば「他者の生命で憂さを晴らした」ということになるわけで、それによって「一時的な平安」ではない、「真の安らぎ」が得られるのかどうか、ということです。 仮釈放なども含め、どのような場合であっても出獄を認めない終身刑がなぜないのか疑問に感じます。 経済的な理由なのかもしれませんが、この制度を採用し、ある程度苛酷な条件の元で労働奉仕をしてもらいつつ罪の重さを認識させるのが最も妥当な処置ではないかと思われます。 加害者の人権? 主張できる場合とできない場合があるのではないでしょうか。 同列に論じることは意味がないでしょう。 【もはや】無い、と認定するより仕方ない場合もある、と私は思います。 そして、そのような者のために周囲の人々が、間接的にしろ「殺人」の記憶を付加されることは避けるべきだと思います。 殺人という手段によるカタルシスの発散は、一時的には喪失感、あるいは被支配感の穴埋めをしてくれるのかもしれませんが、やがてその反動が大きく振れることによって精神の不安定をもたらすような気がしてならないからです。

de-niro
質問者

お礼

秀逸なご意見ありがとうございます。 >誤解を怖れずに言えば「他者の生命で憂さを晴らした」ということになるわけで 刹那的に遺族が死刑を望もうと感情は経年変化し最終的にそういった考えに転向する可能性はありますね。 この問題は単純な二律背反に陥りやすいですが、hakobuluさまの様に、ある程度、中立的立場で考察することが肝要かと思います。死刑を廃止することを目標としてしまうと、「100人殺した人間でも、その本人を絶対的に擁護する」しかなくなくなり、「なぜそうなるの?」といった疑問すら封殺せざるを得なくなる気がします。 参考になりました。 ご回答ありがとうございます。

noname#20102
noname#20102
回答No.4

ご質問の趣旨の核心はよくわかりませんが、人権と死刑制度について私の思うところを書かせていただきます。 人権とは、人間の生きる権利ということではないと思います。 人権とは、例えば罪を犯した時に、その人の罪の大きさを適切に、公正に判断され、裁かれる権利のことではないでしょか。 人を殺したからといっても、罪の大きさはケースバイケースです。 例えば本当に本人に責任能力のない精神異常者の場合、何百人殺そうと、死刑にしていいと思いますか? また不幸な家庭環境で情操の育成が未熟で、人の命の重みを知らずに育った場合、その点をまったく加味しないで量刑を決めてよいと思いますか? もちろん、精神異常者の責任能力の診断や、育成環境による人格形成をどの程度まで判断するかは難しいところです。 でもそれらを無視して十把ひとからげに、殺人の刑罰を決めるのは公正だと言えるのでしょうか。 人の命を奪うことは悪いことです。 もちろん、報復としての刑罰も多少は含まれてよいとは思います。 でも怨恨による殺人と金銭目当ての殺人では、罪の重さが違うことは誰でもわかると思います。 被害者の人権を奪ったという事実という点では同じでも、加害者自身の罪の重さを正確に判断することが、加害者の人権擁護になるのだと私は思います。

de-niro
質問者

お礼

質問の仕方が下手でしたね。申し訳ありません。補足させていただきます。 私が「生まれながらに持ち備えた普遍的な人権」としたのは、具体的に例示しますと、もし朝鮮民主主義共和国に生まれていたら、同じ民主主義を掲げていようと、WEB上とはいえ、政治批判やら、体制批判などできないですよね?あるいは時代を遡り、封建主義の身分制度がはっきりしていた時代に生まれていた場合、運が悪くヒエラルキーの最底辺だったりすると国家から与えられる人権に大きな差があるでしょう。彼らの人権意識が低いわけではなく、国家がそれを許さないに過ぎないわけです。 そこでepp様の考えられる人権ですが >その人の罪の大きさを適切に、公正に判断され、裁かれる権利のことではないでしょか。 とすると、裁く主体は国家の定めた法でしょうか? 質問の確信をお答えいただいた >本当に本人に責任能力のない精神異常者の場合、何百人殺そうと、死刑にしていいと思いますか? ですが、「責任能力のない」と前提するのであれば、問うべき責任がないので、どう責任を取らすべきか見当もつきません。どちらかというと 「本当に本人に責任能力のある健常者の場合、何百人殺そうと、死刑にすべきでない思いますか?」と質問したいです。 >また不幸な家庭環境で情操の育成が未熟で・・・・まったく加味しないで量刑を決めてよいと思いますか? 加味するために、経済力がなくとも国選弁護人がつくのではないでしょうか?私が知らないだけで、悪意の検察側が一方的に求刑して判決が下ってたりするんでしょうか? 報復としての刑罰も多少は含まれてよいとは思います。 現行法では原理が応報刑を認めていないですね。 ご回答ありがとうございました。

noname#31063
noname#31063
回答No.2

自由があっても苦痛な人生だとすると、安全に拘束されることが保障に成り得ます。 自由が危険、それも個人責任であると予想できる社会。 庶民でも銃の所持が可能で、準じて警官が発砲する権利は正当とされやすい。少年でも実名報道、ネットで居所の公開されてしまうなど。 死刑より犯罪者の自由と人権を剥奪する方向もあるように思います。 そうなって欲しいとは思いませんよ。

de-niro
質問者

お礼

懲役、禁固を「自由があっても苦痛な人生」といっておられるのでしょうか。拘束=自由を奪うことと認識しているので、私には難しすぎます。 ご回答ありがとうございました。

  • NCU
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回答No.1

そこまでしなければ社会を維持できないのかどうかって事でしょ。 一体そこまでしなければならないのか。 それを大したことではない、という人は、せひハエ一匹でもいいから作って見せてほしい。 人間は宇宙ロケットは作れてもハエ一匹作れない愚かな存在です。 そのくせ平気で生命を破壊するとすれば、本当に救いが無くなってしまう。 自分はそうはありたくない。そこまでバカじゃない。

de-niro
質問者

お礼

養老先生の著書は私も読みました。 「なぜ人を殺めてはならないか」といった質問内容ならば、回答として有効な意見かと思いますが、 >平気で生命を破壊するとすれば、本当に救いが無くなってしまう。 本当に救いが無くなった人間に対しどう対処するか?ハエ一匹は当然として、ロケットすらも作れない愚者が、複数の人間を身勝手に殺した場合、全く救済方法が無いのか? 原因があって、死刑が摘要されるので、原因を無くせば死刑は執行されません。が、 >自分はそうはありたくない。そこまでバカじゃない。 といった考えの人ばかりではない困った現状があります。 ご回答有難うございました。

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