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何故死刑に反対するの?(その(2))
こんばんわ。 数日前に同様の質問をしましたが、再度です。 数日前に質問した際、『死刑に反対だ』という方の意見は大別 すると以下の二つでした。 (1)冤罪(無実)の可能性がある (2)様々な理由(少年法、精神障害)等により、責任能力がなく 罪に問えない。 (1)はすごく分かります。私がもし、無実の罪で逮捕され、死刑判決 を受けたら、そう思うでしょう。 しかし(2)は分かりません。何故? 何故、少年は、精神障害のある方は、罪(死刑)を問えないのですか? この手の問題(死刑廃止)を訴える方はよく『人権』という言葉を口にしますが頭の悪い私は、よく理解できません。 何故、人の人権を(殺害という手段で)奪った人の人権を 守らなければいけないのですか? 再度、ご意見お願いします。 もし、この日本で、『冤罪』というものが100%無いと仮定したら (そんなことありえない、という意見は無しにしてください) 死刑制度を廃止する主張の『大義』はありますか? 死刑制度廃止論者の方、ご意見お願いします。 分かりやすく、説明してください。
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刑罰全てが、個人の復讐を国家が代行するという事ではありません。 なぜならば被害者が復讐の念を持たない場合もあり又被害者が加害者を許す場合があるからです。 しかし先にも申しました通り完全なシステムは現実にはなく、被害者が加害者を許す場合でも、犯罪に対しては罪刑法定主義と裁判官の判断による量刑の決定がある訳です。 そうでないとシステムとして成立しないからです。 被害者が許す場合を考え、私は死刑判決が出た場合でも最終決定は被害者が決定する制度を考えましたが先に述べた理由によりこれも成立しません。 完全なるシステムは現実にないのです。 宗教的価値観に基づく以外、死刑(殺人)を否定する論理は一切ありません。 これに理屈は不要です、神が殺すなと命じたから、のみです。 逆に、殺人を肯定する論理(死刑賛成)も人智では論理を構成できず容易に反論されます。 死刑は論理ではなく復讐という事であり、それを望む国民が大多数であるという事から死刑制度は成立しているのです。 被害を受けた者がもつ復讐の念を否定する論理も構成できません。 復讐を否定できるのは唯一、宗教に基づくものです。 新約聖書 ローマ12章19節 愛する人達、自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それはこう書いてあるからです。 復讐は私しのする事である。私が報いをする、と主は言われる。 悪に負けてはいけません。かえて善をもって悪に打ち勝ちなさい。
- googahaku
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宗教的な視点から見ると、死刑廃止にも大儀があるように思われます。 キリスト教でも、「罪深いものも許せ、人を裁くな」ととき、仏教でも「慈悲の心、殺生の戒め」があるようです。 人を殺すという罪を犯したから殺すという報復主義は前述の神の御心に反するというものです。 無人島にでも流して、社会から完全に隔離すれば、極悪非道、あるいは精神異常者でも生かしておいて差し支えないかも知れません。 現に「異常な犯罪を犯す懸念が大いにあるが、まだ犯していない」精神異常者には、生きる権利が保障されているのですから。 「人権」については、以下のように考えています。 社会正義や規範に反する個人の利己的要求を「人権」などと考えるのはとんでもない誤りです。そんな「権利」は日本以外に世界中のどこを探しても存在しません。そんな愚論を吹聴しているのは日本でも一握りの「他力本願主義者=他人のフンドシで相撲がとりたい」虚言癖の怠獣にすぎません。無視していきましょう。 ちなみに、私は意見は「死刑推奨」はです。 危うくなり始めている気球環境保全のためにまず第一に人類集団(社会)に害を及ぼすものは排除せよ。矯正困難な変質者や精神異常者を生かして生かしておいても何も得られるものはない、との視点からです。 残念ながら、宗教的視点は脳裏をかすめても、全面的には受け容れられません。
- tooma37
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No.8です、残念ながら私の説明は非常に解かり難かったようなので再度回答します。 >回答者様のご意見は要約すると『全てにおいて『法』が優先する』ということでしょうか。 端折り過ぎです、少し付け加えると『正式な手続きを経ず、非常に曖昧な民意なるものを過信する事は危険なので法をより重視すべきだし、それが間違ったものであるのなら無視するのではなく改善すべきだ』という事です。 >『人治国家』(初めて聞いた言葉ですが)という言葉を低い位置に見ておられるようですが >> 権力者の恣意や大衆のきまぐれで操られる国家の蔑称として使われることが多いです 見ていません、文章を読んでください。 >『法』が『人』より優先するのですか? “どのような状況”で“どの人”を“どう優先”するかによります。例えば“閉鎖的な職場環境”で“社長が従業員”を“労働法を無視してサービス残業”を強いているのであれば法が優先されるべきであると私は考えます。議論を必要以上に抽象化すると空疎な観念論になってしまいますよ。 >私は人(人治)が法(法治)に優先すると思います。 人治国家という言葉をどう解釈するかを強制する気はありませんが、それではその言葉を使用することによって共通理解を成立させるという言語の基本的機能は果たしにくいと思います。 >人のために法があるのです。 それは人が勝手な都合で法を無視していいという事ではありません。 >私は多くの法律家(弁護士、裁判官、その他知識人)にいつも少なからず違和感を持っています。 法治国家において極基本的な法思想に関する教育すら国民に与えられていない事が問題なのです。それと“知識人”というのは実に幅広い層の人間を指すので一括りにするのはあまり賢明とは言えません。 >何故、他の国との比較で、日本の法律や文化や制度まで批判しなければならないの? まず死刑制度に関しては外国と比べる以前に、我が国の憲法から見てそれにふさわしいかどうか疑問です(自民党の御用裁判所である最高裁判所は立法の裁量に委ねると至って弱腰ですが)。 十分な論理も持たずそれに盲従するのは問題ではありますが、他人を長所を見て自身の短所を恥じるのは別に間違ってはいません。 >回答者様の文章を読んでみても、『先進国の殆どは死刑廃止国である。だから日本も死刑廃止にしないと恥ずかしい』ぐらいの意見で >>世界中で人権軽視の非難が高まる中、日本のみが(中略)死刑制度を維持し続けることにそれ程大きなメリットがあるとも思えません。 質問者様は話の細かい(時にはあまり細かくもない)ニュアンスをご自身の都合の良いように受け取られる傾向があります。私は前回答では現実問題として維持するのは難しいと申し上げたのであり、恥ずかしいなどと言った情緒的表現をその項において使っていません。 >私は『人の命を殺めたものは(原則として)、自らの命でもって償う』 >ということを法律の根幹として、成立させなければ(つまり堂々と死刑 >制度を維持しなければ)、社会正義は維持できない、と強く考えます。 >(他の先進国が何と言おうと) 社会正義とはまた抽象的な言葉ですが、という事は死刑を廃止した国や死刑を堂々と執行できなくなった国では社会正義は潰えた、もしくは潰える段階にあると強く考えているという事でしょうか?これは社会正義という言葉に対し余程アクロバティックな解釈をしないと難しいでしょう。
- FMVNB50GJ
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残された者の観念には憎しみがある。 憎しみを死刑で公で殺してもらう、と言うことだと思う。 凶悪犯罪者を捕まえたあと、人間として生かすにはいろいろと面倒が生まれる。食べ物、きるもの、住むところ。そんな人間生かしておく必要ないと考えればやっぱり憎しみだろう。残された者だけでなく。 しかし、どうして凶悪犯罪以外のことには死刑にしないのか。死刑は犯罪の抑止にはならないことは現実が証明している。逆に、犯罪者に全うな人間への道を提供する人間の心とは何であるかを考えれば、優しさだろうか。何度もこそ泥する犯罪者など。 ガキの分際で犯罪を犯した人間への憎しみと言うものは、死刑で自分の心をすくうことができると考えるのは、自分への優しさではないだろうな。 死刑と言っても人間が人間を殺すことに違いはない。 死刑と言っても死刑を望む人間が死刑にする人間をじかに殺すことではないしな。
ご質問の趣旨とは若干異なりますが。 死刑制度は復讐権(造語)です。 人は他者から危害を加えられた場合、報復の念を持ち、時には相手を抹殺する行為に及びます。 個人による報復をそのまま認めては社会秩序が保てません。 よって国が法律に基づきそれを代替するのです。 殺人を禁じている国が殺人を成すのは矛盾であるとの指摘は当たりません。 国家を形成するのは国民です。 大多数の国民がそれを望むから死刑制度があるのです、国民が反対ならば廃止されるでしょう。何故ならば議会制民主主義である為であり簡単な原理です。 殺人を禁じる根拠は究極、宗教によるものしかありません。 例えばキリスト教における、汝殺すなかれ、です。 日本人には宗教、規範がなく、なぜ人を殺してはいけないか、の答えがなく、よって死刑反対論者の論理は説得力を持ちません、容易に反論されてしまうのです。 又ここが重要なポイントですが、死刑反対論者は被害者に、死刑を望む事をやめろ、という権利はありません。 理由無く、残酷に愛する者を殺された被害者が加害者を抹殺したいという思いに、それをやめろ、という権利も根拠もなく又被害者への責任もとれません。 死刑員に対する冤罪の発生は事の精査の問題で別問題です。 死刑員の改心の可能性を奪う、も同じく、被害者側からは相手の改心は関係ありません。 死刑員が改心しなかった場合、死刑廃止論者はその責任をとれません。又改心させる具体的行動も、まず行いません、単に主張してるに過ぎません、この場合無責任です。 死刑に至るまでの身体罰の問題は国民が望めばありうるでしょう、現在ないのですから論議は不要です。 個人的に考えた事ですが、死刑判決が出た後、それを最終的に実行させるには被害者関係者が要求するか否かで決める、被害者に最終決定権を持たせる制度、それにより被害者の心的転換が図られれば、、を考えましたが、これも不可能です、被害関係者が死亡している場合や、その範囲を決定する事が不可能あるからです。 これを含め、量刑の問題等、現実に完全無欠な制度はないものです。 その中で死刑判決に至るまでより精査された判決が要求される事は言うまでもない事です。 なお、目には目を、は、目をつぶされたら相手の目をつぶす以上の報復をしてはならない、の同該復讐法であり、やられたらやりかえせ、の復讐の拡大、連鎖を防ぐ為のものです。 又死刑の犯罪抑止効果は明確に存在します。
- tooma37
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質問者様は ・死刑反対 ・未成年や心神喪失の状態にあったものを死刑にできない という問題を混同してしまっています。死刑制度廃止論者は当然後者の人々に対する死刑の執行も反対するでしょうが、死刑制度自体は支持するがそれらの人々への死刑執行には反対するという立場の人も当然存在しうるのです。 私自身の死刑制度に対するスタンスを先にお答えしますと死刑制度には反対ですが、死刑制度が存続されるのであれば未成年に対しての執行に関しては議論の余地があると考えています。 まず死刑制度反対の理由についてお答えします ・冤罪の可能性 既に何度も出ているお話ですが、単純な冤罪だけでなく政治犯に対する死刑の執行や、権力の恣意的な反抗分子の抹殺を抑止する効果も私が支持する理由の一つです。現在の政府がそこまで横暴極まるとは思いませんが、総力戦の可能性が非常に低い現代においてなお国家予算の数%を防衛に割く事を当然の安全保障としている国家がこの程度の制度的権力抑止作用を持っていることは決して不自然ではないでしょう。 ・制度維持の困難さ 例えば50年後、日本で死刑制度は存続しているのでしょうか?私はそれは非常に望み薄な事だと思います。現在、先進国において死刑を執行し続けている国はかなりの少数派です(韓国のように制度はあっても長らく執行はしていないいわゆるモラトリアム状態の国家は存在します)し、近年の人権意識の高まりを見ると、なおも死刑廃止の潮流は高まっていくように思います。世界中で人権軽視の非難が高まる中、日本のみが(若しくはわずかな同志とともに)死刑制度を維持し続けることにそれ程大きなメリットがあるとも思えません。いつかは変えねばならない制度をグズグズと維持するよりは、死刑廃止の前提に立った社会秩序の維持や被害者遺族の救済や加害者の更生に関する制度を早期に整えるほうが現実的な選択ではないでしょうか? ・法治主義的観点からみる人権の尊重 私は必ずしもヒューマニズムから死刑廃止や人権の尊重を訴えているわけではありません。むしろ私は法治主義という観点から憲法に明記される人権の尊重、そこから(私なりに)導き出される結論として死刑の廃止を主張しています。 法治国家に対比される人治国家という言葉があります。法が十分に守られず権力者の恣意や大衆のきまぐれで操られる国家の蔑称として使われることが多いです。日本は人治国家的傾向を多分に持った国であると私は考えています。労働法より職場の雰囲気が優先されてのサービス残業や、それほど政治的関心は低くないのにいまいち民意が伝わっているとは言い難い立法府など法治主義の軽視は日本の抱える大きな病巣の一つです。その為、法治主義の普及とその遵守は、日本にとって大きな課題であるというのが私の意見です。 その観点から見ると人権は万人が有するものであり、死刑制度はそれにそぐわないものあるように私には思えます(どういう帰結でそうなるのかお望みならお答えします)。故に私は死刑制度に反対ですし、もしどうしても死刑制度を存続させたいのであれば日本国憲法を改正し人権が万人に保障されるものではない事を宣言すべきでしょう、世界中からの総スカンは目に見えていますが。 長文になってしまいました、上でも触れた通り死刑制度が何故人権思想にそぐわないかという事や、未成年はともかく精神障害者に対する死刑に反対するのは何故か、何故極悪人にも人権はあるのかという問いにももしお望みであればお答えします。
お礼
こんばんわ。 非常に分かりやすいご回答ありがとうございます。 法律にも疎く、学識も無い私ですが、回答者様のご意見は要約 すると、 『全てにおいて『法』が優先する』 ということでしょうか。 『人治国家』(初めて聞いた言葉ですが)という言葉を低い位置に 見ておられるようですが、それでは質問ですが、『法』というのは 何のために存在するものなのでしょうか? 『人』のために(人治のために)あるのではないですか? 『法』が『人』より優先するのですか? 私は人(人治)が法(法治)に優先すると思います。 人のために法があるのです。 私は多くの法律家(弁護士、裁判官、その他知識人)にいつも 少なからず違和感を持っています。 彼らは『法律』という(一般の小市民にはよく分からない)世界の 中だけで議論をしている感じがするからです。 彼らはいつも『先進国』(たぶん欧米でしょう)という言葉を引き合い に出し、日本の後進性を非難します。 でも、何故、他の国との比較で、日本の法律や文化や制度まで批判しなければならないの? 回答者様の文章を読んでみても、『先進国の殆どは死刑廃止国である。 だから日本も死刑廃止にしないと恥ずかしい』ぐらいの意見で、とても 一生活者、人間の実感としての意見とは感じませんでした。 私は『人の命を殺めたものは(原則として)、自らの命でもって償う』 ということを法律の根幹として、成立させなければ(つまり堂々と死刑 制度を維持しなければ)、社会正義は維持できない、と強く考えます。 (他の先進国が何と言おうと) 間違ってますか?
- siranuiii1
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死刑も殺害の一種であると私は考えています。 そして、殺害に関しては 「政府や個人を問わず基本的にしてはならないことである。」 「しかし、殺害がやむをえない、殺害以外に方法が無い状況においては、それをすることを認めなければならない。」 と思っています。 たとえば、戦争中での戦闘行為で相手を殺害したり、あるいは襲ってきた相手に反撃の結果の殺害であるとかは、認めざるを得ないと思っています。 死刑に関しても、安易にそれを行ってはいけないと思います。安易にソレを行うなら「殺害が基本的にしてはならない」という前提が崩れてしまう気がしますから。 しかし、死刑がやむをえない状況、死刑する以外に方法が無い状況においてはせざるを得ないと思っています。 だから「なぜ死刑がやむをえない状況なのか?」「死刑する以外に方法が無いのか?」 つまり、なぜどうしても死刑が必要なのかということを明確にする必要があると思います。 死刑が必要な理由として 1再犯の可能性を防ぐ 2犯罪によって傷ついた被害者および関係者の感情を癒す 3被害者とは無関係だが、犯罪によって傷ついた同じ社会に属する人々の感情を癒す 4見せしめることにより、他者が犯罪を犯す可能性を防ぐ といった理由が思い浮かびます。 しかし、これらは死刑を実行することによって必ず達成できるのか? あるいは他の方法では達成できないのか? ということを徹底的に突き詰め、死刑がどうしても必要であると認められる場合にだけ、死刑は行う必要があると思います。 ただ、私自身には、絶対に必要ではないとは言い切れないものの、どうしても必要なのかどうか今ひとつよくわからない部分もあります。
あくまで参考です。 (2)についてですが、「責任」がなければ、死刑に出来ないではなく、いかなる罪にも問えない、です。 では何故死刑廃止論の根拠に挙げられているのか? 死刑廃止論の先頭に立ち、その理論的支柱である団藤博士の採る「人格形成責任論」が一つの大きな理由です。「人格形成責任論」は責任の根拠を「犯罪行為者の成長過程に立ち戻って、本来は社会人として円満な人格を形成するに充分な環境・機会を与えられながら、それに反して自由意思で犯罪を起こすような人格を形成し(その人格ゆえに犯罪行為を起こし)た」ことに責任を求める考え方です。 ところが、団藤博士は最高裁判事として実際の刑事事件に携わる過程で、被告すべからく円満な人格を形成されるような環境も機会も持っていないことを痛感された。完全な人格形成責任が問えない以上、犯罪の全ての責任を被告に負わせることはできない(ゆえに極刑に問えない)、というのが論拠の一つになっています。 もちろん、責任論としての通説としての道義的責任論(人格形成責任論はこの中のひとつの考え)「犯罪事実に直面(自分の今からしようとすることが悪いことなんだと分かる)し、反対動機形成(悪いことだから止めようと決心する)が期待されるのに、その期待に反して、あえて犯罪事実を行ったことに対して道義的責任を問うという考え方」も論拠の一つではあります。 精神的・知能的に問題のある人は、自分が今から悪いことをする(犯罪事実に直面する)ということが、本当には分かりませんね。だったら、完全な反対動機形成の期待が持てず、道義的に強く非難できません。では、何人も殺す人間に異常なところは全く無いのか?当然あります。だとすると、完全な道義的非難をなしえず、極刑は与えられないのではないはず、となります。 「死刑が殺した人数で決まる」今の相場主義の刑事手続きでは、複数殺さなければ死刑にはならないが、複数殺した人間は異常性をもっている以上、通説である道義的責任論からは死刑にできないだろ!と主張する訳です。 (1)については、ご納得のようなので多くを語りませんが、いかなる罪責を問われても「冤罪」は後の人生が全て破壊されます。決して死刑だけではない。冤罪は死刑だけ回避されれば良いというような今日の論調は承服しがたいものがあります。
- ken200707
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まず、回答子の立場ですが、死刑廃止、存続の双方とは少々異なった別の見解を有しています。が、それ自体は本件の回答とは無関係です。 (1)はすごく分かります は、無関係の事柄の責任を負わされて、処罰されることは納得できない、という意味だと思われます。 結局は、(2)も同じ問題に回帰します。 “少年は、精神障害”は 年少者は善悪の判断が適切に行える期待可能性が小さいためであり、精神障害(正確には心神喪失、心神耗弱で、所謂精神障害とは違うものです)によって、善悪の判断ができない、あるいは適切に行える期待可能性が小さいと考えられるからです。 まず、“少年”からですが、生後3日の“赤ちゃん”が“善悪”の区別がつくか期待できると考えられるでしょうか?、誕生以後の成長によって“善悪”の区別がつけれるように(そしてその行為が教育であったり、育てるという行為)なります。そして成年(18歳なり20歳で)“善悪”の区別をつけることができると期待されます。 従って、その間のどこかに境界が存在します。そしてその境界より年少の人間にとって“善悪の区別”をつけれないことに対する責任は無いでしょう。 同様に、真に“善悪の区別”をつけれない程度の病気(状態)を有する人物も、自身がその病気(状態)になったことに責任が無ければ、“善悪の区別”がつけれないことにも責任がなくなります。 このような人物を処罰することは(1)と同じように“とれるはずの無い責任”を理由に処罰することと同じです。 但し、上記の理屈は、現在の死刑回避年齢が18歳であることや、 刑法第四十一条 (責任年齢) 十四歳に満たない者の行為は、罰しない。 の14歳の年齢それ自体が妥当であるとの主張を含んでいません(その数字の妥当性については別途検討の必要がある)。 或いは、現在行われている“精神鑑定”の精度、判断基準の妥当性や“原因において自由な行為(つまり自分で酒や麻薬を使い、心神喪失状態になった)”での判断なども検討の必要があると考えられます。 結論として、“年少”或いは“精神障害”などの理由によって処罰を回避するには一定の理由がありますが、現在の日本でそれが妥当に行われているかとは別問題です。 なお、“精神病者”を一律に廃除する政策を取った国も過去にあります。 ヒトラー時代のドイツ(1933年断種法など)や1900年代前半のアメリカでも行われています。
私自身は意見が決まっていないんですが、他のトピックにアムネスティの話が出てましたので、覗いてみました。 ちらっと読んだことはあったのですが。 反対しますといっている著名人も、反対する理由は一つではないようですよ。 想像していたのより理解不能でない、なるほどなぁと思うのもあるし、やっぱりよく解らないのもあるし。 覗いてみてはいかがでしょうか。 個人的には、死刑制度を維持するにしても内容を変革したほうがいいんじゃない?とは思いますけど・・・・。執行するまでの間の扱いとか、急な執行はどうなのかとか、執行方法とか。 時代の流れもあるんだろうなあとも思います。 大昔のイングランドの「四つ裂き」(知りたい人はネットで検索してください)なんてのは当時は許容範囲だったんでしょうが、現代の感覚にはそぐわないと思う。。。 冤罪もまずいし、政治犯で死刑はまずいと思うなあ。 日本で政治犯で死刑は現代ではありえないだろうけど、他の国々ではありえますからね。司法が機能していない国だと。 でも死刑反対とまでは断言できないんですけどね、個人的には。 死刑制度廃止論者の意見、参考ページです。 ↓
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お礼
こんばんわ。 法律には全くの素人なのですが、 >死刑制度は復讐権(造語)です。 というより、『刑罰』というものそのものが『国家による復讐権の代行』でしょう。(そこに被害者が在るのなら。) 例えば、あるスーパーで万引きをした主婦が逮捕されて、実刑を受けた とする。そしたら、それは『万引きとい行為による経済的被害』を受けたスーパーに代わって、国家が『刑罰』という形で復讐をしたことに なる。 今、思いつきで書きましたけど、そうじゃないですか? つまり死刑制度を(復讐という理念が含まれるから)反対する人々 は国家による『刑罰制度』(つまり法治制度)をも否定することに なります。 と、なると 回答者様のおっしゃるとおり、『死刑制度賛成・反対』問題は 『死生観』つまり『宗教』の問題になると思うのです。 宗教の問題になるということは『法律』を超えることになるのだから、 『死刑制度は世界の先進国のトレンドだ』とか、そんなことは気にせずに、我々日本人の文化、精神性、宗教観をもとに独自のルールを作ればよいうのだと、私は考えます。 私は日本では死刑制度は(堂々と)維持すべきだと思います。