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南朝方の公家について
よろしくお願いします。 南朝方の公家には、北畠親房のような人がいるそうですね。 1,この他には、どういう人がいたのでしょうか? 2,それから、南北朝が合一された時点では、どのような人・公家がいたのでしょうか? 3,合一後、南朝方の公家の処遇はどうなり、その後どうなっていたのでしょうか? 明治まで続いた家で南朝方の家にはどういう家がありますか? よろしくお願いします。
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noname#113190
回答No.1
「近衛経忠」 北朝の関白にもなったが、辞任して南朝に加わり、阿賀野にて没 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%B5%8C%E5%BF%A0 「吉田定房」 彼も一時北朝に仕えるが、結局南朝に加わります。 「千種忠顕」 九州から反攻してきた足利軍と戦い、近江国西坂本にて戦死。 「坊門清忠」 湊川の戦で、楠木正成に余分なことを言って死地に追いやった張本人。 吉野で死去。 「四条隆資」 この方はけっこう奮戦しています。 http://wpedia.search.goo.ne.jp/search/%BB%CD%BE%F2%CE%B4%BB%F1/detail.html?LINK=1&kind=epedia 公家も南朝北朝どちらも藤原氏で行き来はありますが、一部を除けば、南朝方は最早ポストがなく、南北が一緒になればあぶれてしまいますね。
お礼
回答ありがとうございます。 そういえば、何人かは名前を知っている方もおりました。異動しているのもあるのですね。この辺りは武家と同様ということでしょうか。しかしここに挙げられた方は、南北朝初期の方が多いようですね。合一のころは、誰が残っていたかもうはっきしないのかもしれませんね。ちょっと調べましたら、南朝の公家は任官口がもうないということだったという推測がやはりなされていました。地下の家にでもなってしまったのでしょうか。それとも地方の神主にでもなってしまったのでしょうか・・。 ありがとうございました。