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以仁王はどうして平家追討の令旨を出せたのか?
以仁王は、後白河天皇の第三皇子ですが、 母親の地位が低かったせいで、 皇太子どころか親王にもなれなかったそうです。 そんな人が「平家追討の令旨」という重要なものを出せたのはどうしてでしょうか? 現代でいうと宣戦布告のようなもので、 天皇か法皇、皇太子、摂政くらいの高い地位の人物でないと 出せないのではないでしょうか? 朝廷に内緒で勝手に出したのでしょうか? また出しても意味がないのではないでしょうか? 逆に、他の天皇、法皇などは何故出さなかったのでしょうか? よろしくお願いします。
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私見ですが後白河帝は策謀の好きな人でした。 勿論天皇親政の希望があったとは言えますがその実現の為には自身に危害が及ばないように周到な気配りをする人でした。 以仁王は親王にもなれぬ日陰の皇子で世間の注目もなく目立たぬ存在でした。 従って募兵の命令を発しても直ちに発覚する恐れは少なく、もし発覚しても以仁王が独断で行った事と切り捨てる事は考慮されていたのではないでしょうか。 勿論以仁王にはそれなりの対価を約束(親王への昇格など)し万一の場合の因果も含められたでしょう。 日陰の皇子としては漸く光を浴びるチャンスです。 喜んで命を奉じたと思います。 もし天皇、法皇が動けば失敗の場合大変なことになります。 流刑の先例もあります。 後白河帝も危険を避ける必要がありました。
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- sudacyu
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参考までに‥‥ 時代は下りますが、「女房奉書」というものが在ります。天皇のおおせを宮中の女房が聞き書きしたもので、天皇の意思を伝えるものでありながら、天皇の署名・印などは何もありません。 朝廷の慣習として、いざとなれば言い逃れのできる形の文章を出すとか、直接文書を出したのでは権威が下がると考えたのでしょうか。 女房奉書は天皇の意思を伝える神聖な文書なのだそうですが。 天皇が直接文書を出すのは、通常なかったようです。
- Pinhole-09
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令旨は平安以降、皇太子、三后以外の皇族の命を載せた文書ですから、普通は効力は小さいでしょう。 ただある本では、この令旨で「王は自身の挙兵を、皇位を擁し取る輩を追討して、みずから皇位につくべきことを宣言した」とあるので、皇位継承権を主張したわけです。 この内容の真偽は不明ですが、少なくとも平家打倒の旗印になろうとの気迫は、示していたものと思われます。 座して朽ちるより、成否不明でも、一発賭けてみる決意は、平家打倒を夢見ていた、諸国の源氏にとっては、No.3さんのいう法的裏付けでもあり、多大の元気付けでありました。
- yakyutuku
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そもそも令旨などというものは、調停のお墨付きというほどのものではなく、現代でいうと宣戦布告のようなものではないと考えたほうがいいのではないでしょうか?領事では法的位置づけは低いが、だれか皇位継承権者ひとりが、源氏の見方に立てば、武力で京都を奪回しても、法的整合性はあとからこじつけられるといった点に意味があるのであり、令旨だ宣旨だといった法的位置づけに意味があるわけではないような気がします。
- 6dou_rinne
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令旨というのは王クラスが個人的に出す命令で皇族ならだせます。 天皇、上皇の出すのは宣旨です。 以仁王が平家追討の令旨を出せたのは地位が低かったので平家に監視されずにすんでいたからです。
- Nigun
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A5%E4%BB%81%E7%8E%8B 参考にして下さい。 勝手にやったぽいですね。