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エニド・ブライトンの文学的評価が低い理由
「英米児童文学ガイド 作品と理論」という本を読んでいて、 「イーニド・ブライトンの作品は、従来子どもの人気は高いが 文学的な評価は低かった」という記述を見つけました。 個人的には、ブライトンの本はとても好きだし良いと思っているので、 アカデミックな世界で文学的評価が低い理由というのが 素朴に気になりました。なぜなのでしょうか? もちろんいちいち反論しようというわけではありません。 どんなところを基準に、あるいはどんなものと比べて これまで低い評価が下されてきたのか、客観的に 知りたいと思って質問しました。 どうぞよろしくお願いいたします。
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- ghostbuster
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イーニド・ブライトンに関しても児童文学に関しても詳しいわけではないので、あまり適切な回答はできないかもしれませんが、「文学的評価」という点についてなら、多少ご説明できるかと思います。 児童文学を単に楽しむ、というのではなく、研究していこう、あるいは批評していこうと考えたとき、さまざまな文学理論を足がかりに、アプローチの角度を決めていく、というやり方があります。 そうした文学理論と無関係のアプローチ、というのも当然あるわけで、現在出ている多くの児童文学の解説書、といったらいいのか、評論といったらいいのか、エッセイといったらいいのか、ともかく、ほとんどのものは、文学理論とは無関係に、作家やエッセイスト? らの書いた、感想文の延長線上としてあります。 けれども、大学での児童文学研究は、やはり、学問として児童文学を扱っていこうとするものですから、理論に依拠し、方法論を固め、確実なところから理論を一段一段積み重ねていこうとするものです。文学の一ジャンルとして、児童文学を、物語理論やあるいはカルチュラル・スタディーズ、フェミニズム評論や精神分析理論といった、さまざまな理論から、読み解いていこうとするものであるわけです。 ご質問の『英米児童文学ガイド 作品と理論』(日本イギリス児童文学会編)は、児童文学研究というのは、どうやってやっていくのか、アプローチの仕方を紹介した本なんですね。ちょっとこれで文学理論の勉強はできませんが、たとえば『ピーター・ラビット』を研究していこうと思えば、どのようなやり方があるか、と、先行文献を紹介しながら、さまざまなアプローチの可能性があるよ、と教えてくれている。こういう本をちゃんと読んで、この本にあるような筋道に従ってさまざまな本を読み、レポートを書けば、先生も感想文を読まされなくてすんで、ああ、うれしい(笑)、といった性格の本なんです。 質問者さんがどういったバックグラウンドをお持ちの方なのか、よくわかりませんが、この本をタイトル通り「児童文学案内」といった意味でのガイド、と受け取ると、なんだ、これは、ということになると思いますが、学生の方でしたら、入門書としては良い本だと思います。 さて、ここまでが前置きなのですが、「文学的評価」というのも、この理論から離れて、単独で「高い評価」「低い評価」というものがあるわけではありません。 むしろ、この「高い」「低い」というのは、理論以前の漠然とした感想であり、あれはいい、これは良くない、というものの、多少偉そうな物言いでしかないのではないでしょうか。 文学評論というのは、オリジナルとなる作品から、いかにおもしろいものを引き出すか、それを競うゲームのようなものですから、もともとの作品を「高い」「低い」とは、あまり言わない。 ただし、そのときに、「そこから引き出す」ということがポイントになってきます。 オリジナリティの高いもの、そのジャンルで新しい世界を切り開いたもの、あるいは、当時の世界情勢や歴史を色濃く反映したもの、そればかりではないでしょう、たとえばモーリス・センダックのように「語り尽くせぬもの」が絵の向こうに拡がっているようなもの、あるいはフェミニズムから読みかえができるもの……。 ご質問のブライトンをわたしは読んでいないので、その点についてはなんともいえないのですが、繰りかえし楽しむのではなく、繰りかえし読んで、そこから理論に当てはめて、さらに深く考えていけるか、あるいは、理論の方を深めていくための素材となるか、そこが研究の素材となるかどうかの分かれ目になっていくと思います。 『英米児童文学ガイド』のブライトンに関する記述の部分は、確かに違和感を覚える部分です(というか「4.」全体、「読者反応批評」のなかに「現実の読者」として、不用意に「子ども読者の反応」というものを結びつけていくのはあまりに安易ではないかという印象をわたしは持ったのですが)。「従来の評価」と書くのであれば、どういう観点からの、どのような「評価」なのかを明らかにしなくてはならない。文脈から考えるとニコラス・タッカーの研究の要約なのだとは思いますが、要約にしてもおそらくあまり正確なものではないのではないか、という印象を受けます。 Nicolas Tucker、Enid Blytonとして検索にかけてみると、"Enid Blyton and the Mystery of Children's Literature"という本の書評ページに行き当たりました。 http://www.palgrave.com/products/Catalogue.aspx?is=0333747186 現にこうしてブライトンの研究書も出ているし、それに関してタッカーが書評もしている。このように考えると、ブライトンも十分、評論の素材となっていることがうかがえます。 つまり、わたしがこの回答で書きたかったことは、 「文学的評価というモノサシが、どこかにあるわけではない」ということです。 どこかにそんなものを隠し持っている「エライ」人がいるわけではない。 もちろん、現在の文学理論では、作品の質を評価できない、と批判する人たちもいます。 けれども、評論というのは、作品に星をつけていくものではなく、それを素材にしながらおもしろいことを語り、その語りを聞いて作品に立ち返れば、さらにその作品が、豊かに、広がりを持って見えてくる、という質のものではないか、と理論を学ぶ人の多くは考えているのではないかと思います。 いわゆる「理論」に分類はされませんが、文学評論を学んでいくとき、必ず引き合いに出されるのが、E.M.フォースターの講義『小説の諸相』です。このなかで、フォースターは、自分が少年時代に夢中になった『スイスのロビンソン一家』を愛している、と言います。悪口を言われると「腹が立つ」ともいいます。それは「過ぎ去りし少年時代の思い出」と結びついているからだ、と。 本を読む、というのは、旅行に行ったり、あるいは滝に打たれたりする(わたしはその経験はありませんが)のと同じ、ひとつの体験です。 特に、子供は深く入りこんで行きますから、子供時代に深い関係を結んだ本は、その人にとって初めての海外旅行、初めての滝に打たれた経験と同じように、もしかしたらそれ以上に重要な経験として刻まれているはずです。 文学評論というのは、そうした経験に依拠するものではありませんが、同時にそれにけちをつけるものでもない。そういうこととはまったく別のものである、と理解すればよいのではないかと思います。 ただもう長いばかりの回答になってしまいました。 どうかご容赦のほど。