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トマス・ハーディーのヘンリー・ジェイムズ評

ハーディーがヘンリー・ジェイムズについて  "ponderously warm manner of saying nothing in infinite sentences" 「膨大な文章をつうじて結局何も述べないという暑くるしい作風」(私訳) と評しているそうです。 この出典やくわしい文脈を教えてください。

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回答No.1

この文章を質問者さんはどこでごらんになったのか、そのソースを教えていただきたいんです。 ハーディは著作権がすでに切れていますから、フィクション、詩を初めとして多くの著作がWeb化されており、典拠を探すにはそれほどの困難はないでしょう。 ご質問の文章を検索にかけてみると、ヒットするものが四つ、うちふたつは同じアマゾンのレビュー、もうひとつはブログ、そうしておそらくこのふたつの記事のソースとなっているのが、David Lindleyのサイトです。 わたしはこのDavid Lindleyという人を知らなかったので、さらに見てみるとミュージシャンであることがわかった。 つまり典拠として、どこまで信頼できるものなのか、という疑問があります(Webではありがちなことですが)。 確かに、いかにもハーディなら言いそうな感じもするのですが、手元にある研究社の『20世紀英米文学案内1 ヘンリー・ジェイムズ』の巻末に、参考文献として、ヘンリー・ジェイムズの研究書ばかりでなく論文の一覧が載っているのですが、ここには取りあげられていません。 ここには、たとえばE.M.Forsterが"Aspects of the Novel"(邦題『小説の諸相』)のなかで取りあげている、といっても、正面切っての批判ではなく、ごく軽くふれているのですが、そういうものまで押さえてある(もちろん、フォースターの評価、あるいは文学観などがうかがえて、表面で言っている以上に楽しめる、というか、重要なものだと思います)。 ですから、たとえばハーディが文献のなかで触れているとしたら(たとえば"Life and Art"などで)掲載されていないはずがない、と思います。 ハーディのイギリス文学における位置、あるいはヘンリー・ジェイムズが現代文学に占める位置から考えると、こうした文献に取りあげられていないわけがない、と思うのです。 ただし、可能性としては、書簡、日記の類、あるいはほかの人物が、ハーディがこう言っていた、と書き残しているケースも考えられなくはありません。 信頼できるソースで、どうしても知りたい、ということであれば、 The Thomas Hardy Society:http://www.hardysociety.org/ などに連絡を取られてみてはいかがでしょうか。

shiremono
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 「引用」 のソースは、回答者 ghostbuster さんがごらんになった、Amazon.co.uk の "Turn of the Screw" についてのレヴューです。検索したかぎりでは 「出典」 がわからなかったため、質問しました。この場合、信頼性に疑問があるということですね。納得です。 ハーディの "Life and Art" をはじめとするエッセイや手紙などは、オンライン・テキストではみつかりませんでした。みつかったのは、ハーディがジェイムズを "virtuous female(s)" (淑女) と呼んだ、というごく短い紹介だけです( Wikipedia / Henry_James 出典付)。 "Turn of the Screw" で、ジェイムズをはじめて読んでいるところなので、手っ取り早く参考になるものを探しているのですが、「ヘンリー・ジェイムズについて」 の ghostbuster さんの回答も参考になりました。重ねて、ありがとうございます。 (ハンドルネームは、「ねじの回転」には関係ないんですか?)

その他の回答 (2)

回答No.3

『ねじの回転』に関するわかりやすい解説書をふたつあげておきます。 八木敏雄・志村正雄『アメリカの文学』(南雲堂) 1990年発刊の少し古い本ですが、すべては「家庭教師の想像」である、という立場から読み解いています。図書館に行ったらあると思います。 柴田元幸『アメリカ文学のレッスン』(講談社現代新書) かならずしも「想像の産物」とばかりはいえないのではないか、という立場から。イギリス文学に出てくる「家庭教師」の地位の特殊性にもふれてあって、おもしろかった。 以上、参考まで。

shiremono
質問者

お礼

アドバイスをありがとうございます。 『ねじの回転』 を読んだきっかけは、〔 教えて!goo 〕 ではじめてその存在を知って図書館で借りて読んだモーリス・ブランショの 『来るべき書物』 にとりあげられていて、おもしろそうだったからです。それまで、 「ねじの回転」 というのは椎名誠の恐怖短編だとばかり思っていました。『来るべき書物』 のブランショの文章も、そこでとりあげられている本の内容も、魅力が感じられながらもとてもむずかしく、そのなかで 『ねじの回転』 は、わたしでもなんとか楽しむことができそうでした。なにしろ、幽霊にとりつかれる子どもたちがでてくる小説なのです。なぜか、自分はこの本を読まなければならないとも感じました。 ブランショの本が 「むずかしいけれどおもしろい解説書」 であるとするならば、ghostbuster さんのご紹介による 「わかりやすくておもしろい解説書」 も歓迎です。ウォルター・アレンと柴田元幸は図書館にあったので、さっそく読んでみます。 最初の質問からはずいぶん遠ざかってしまいましたが、知りたかったことについて、理想的な回答者から回答やアドバイスをいただくことができたようで、心から感謝します。

回答No.2

なるほど、『ねじの回転』でしたか。 おそらくこの一文の典拠になったと思われる"Where Does the Weirdness Go?"はポピュラーサイエンスで量子力学をわかりやすく説明した本みたいですね。 http://www-users.cs.york.ac.uk/susan/bib/nf/l/dvdlndly.htm David Lindleyは、ミュージシャンじゃなくて、同姓同名の宇宙物理学者ですね。 この引用個所を見ると、ニールス・ボーアの量子論の説明が、量子論とはいったい何であるか、曖昧模糊としていてさっぱりわからない説明で、まるでハーディのヘンリー・ジェイムズ評にあるように、「いわば、膨大な文章を要して、悠揚迫らずゆっくりと開陳していく語り口」のようなものだったので、ベルはなによりも明晰さを求めた、という脈絡になっています。 引用符がないことを考えると、現実にハーディがこのとおりの文言で批判したかどうかはわからない。けれども、おそらくは何らかの言及があったと考えるべきでしょうね。 "Life and Art"は読んでないからよくわからないのですが、もしかしたら、このなかに言及があるかもしれないし、その本ではないかもしれません(答えにはなってませんね)。 ただ、ハーディがこう言ってもまったく不思議はないとは思います。 ハーディは1840-1928。 ジェイムズは1843-1916。 ほぼ同時期の作家であると言えます。 イギリスの小説の大きなテーマは「社会の中の人間」ということでした。 「もっと厳密にいえば、それは男女の教育ということであった。すなわち、彼らが否応なしに社会生活に巻き込まれている中に、自分の心の中や、あるいは彼らのまわりの世界の〈真実〉と〈偽り〉を見分ける力を学んでゆくという意味での教育であった」(ウォルター・アレン 『20世紀英米小説論』) ハーディもイギリスの作家で、当然この流れの中に位置づけられます。そのうえで、ハーディの特徴というのは、人間のまわりを大きな宇宙の意志が取り囲む、というものです。人間は、その大きな意志と闘い、敗北し、うちのめされ、屈辱を味わい、そののちに、人間の尊さを見出す、というものです。 ヘンリー・ジェイムズはアメリカに生まれ、後にヨーロッパに渡り、おもにイギリスで文筆活動を行っていきます。彼はアメリカには「なにもない」という。 古いヨーロッパ社会から飛び出した人々が作り上げた新しいアメリカの文学は、先に引いたアレンによると「社会の中の人間の生活よりも、孤独な人間、ただひとりで自分自身と格闘している人間」を扱うことになります。 ヘンリー・ジェイムズの文学は、この両者を融合させた形、としてとらえることができるわけです。 ジェイムズの文学の大きなテーマは、無垢なアメリカが洗練されたヨーロッパを経験する、というものですが、すべてはそれを経験する「人間の意識」を通して描かれることになります。そうして、小説の関心は、登場人物の心の内に、どのように「映っていくか」にある。 ガートルード・スタインは、ジェイムズの文学を「形式はいつの時代でもイギリスのものだった。だが、あるものを何かから、何かをあるものから切り離す、その解体の手法がアメリカ的なのである」(マルカム・ブラッドベリ『現代アメリカ小説II』からの孫引き)と評している。 ただ、これはイギリス-アメリカという枠組みにとどまるものではなく、十九世紀から二十世紀へと文学そのものが大きく転換していった、それがジェイムズの作品のうちに反映されていると理解することができるわけです。 こうしたジェイムズの作品に対して、やはり十九世紀の作家といえるハーディが、批判的にとらえたとしても、まったく不思議はないと思うのです。 ということで、回答にもならない駄文でしたが。 HNは単にあの映画が好きなだけです。

shiremono
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございます。 ハーディとジェイムズの比較は参考になります。もっともわたしは、ハーディにしても、「帰郷」 と 「日陰者ジュード」 のあらすじをたどって読んだことがあるだけですが。 さっき、ようやく 「ねじの回転」 を読み終えました。わからないことだらけです。とくに、何がおそろしかったのかという肝心なことがどうも漠然としているので、読み返さなくてはなりません。それでも、現段階での感想を書いておきます。 ご紹介のアレンのいうアメリカ文学のテーマ、 「ただひとりで自分自身と格闘している孤独な人間」 の姿は、「ねじの回転」 の手記の筆者である家庭教師にそのままあてはまると思いました。ただし、彼女は社会から飛び出したのではなく、社会の方が彼女を助けようとせず、(現在もなお) 彼女の経験を受け入れることができないのです。男女ふたりのこどもを教育しようとする彼女の試みが必然的に挫折したところで、手記はおわっています。しかし、序章では彼女のその後の姿が紹介されていて、それは明るく美しいものです。 「無垢」 だった当時二十歳の家庭教師は、自分の経験した闇を手記に封印することで、社会と和解したらしいのです。ここでわたしは、光と闇、〈真実〉と〈偽り〉 のどっちがどっちなのかが、わからなくなってしまいました。 「ねじの回転」 は、わたしにとって退屈ではない作品でした。ハードボイルドとはいえない手記の文体も、とても難しいなりに、家庭教師と重ねあわせての魅力を感じます。

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