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どうして人は失ってからでしか、気付けないのでしょうか?
もし、事前に分かっていれば、犯罪も事故も未然に防げたはずです。 不幸にならなければ… 苦痛を伴わなければ… 犠牲が起きなければ… 物事を解決できないというのは矛盾しており、本末転倒かと思います。 例えそうだとしても、やり直すチャンスを与えるべきと思います。 やはり、「決断」する事と「予見」する事は別だという事なのでしょうか。 例えそうであったとしても、後で教えてあげるなり、方法や対策は幾らでもあるはずです。 それとも、やり直せると分かったとたん、人間はまた同じ過ちを繰り返してしまうのでしょうか? そうであるとするなら、そこまで愚かな人間が生きる意味とは? いずれ直るというのなら、それはいったい何億年先の話なのでしょうか? 遺伝子が猿から1%以上進化するまで、待たなければならないのでしょうか。 それまで人間が生き延びるには、あまりにも悲惨で絶望すぎます。 どうか皆さんの聡明な、御意見をお聞かせ下さい。
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この世のことはすべからく、人の思い通りになることは無い。 たとい善かれと思って為したことでも、望んだ結果が現れるとは限らず、人は多く後悔の臍を咬んで、悲嘆にくれる。 しかしながら、ここなる人が聡明であって、他の人の行為はさておき、他ならぬ自らが為した行為の顛末とその帰趨をよく見きわめて、あり得べき正しい省察を為し、(人と世の)真実を知ろうと熱望して、ついに為してよいことと為してはならぬこととを知るに至ったならば、かれの煩悶と苦悩は終滅する。 かれは、あとで後悔するような行為を犯すことなく、混迷に陥ることもなく、人を悲しませず、自らは憂い無く安寧であって、しかも他の人をも安んじる。 心構え正しき人が、この無上の安らぎを願い求め、自己嫌悪と人間不信とを二つながらに払拭して、人としてのあり得べき信を確立し、よく精励するならば、それは決して遠からず達成され得るであろうと知る人は語る。 人がそれを為し遂げたならば、かれはすでに人を超えた境地に住して、その虚妄ならざる安穏を我が身に体現する。 このことが、誰にとってもそのように起こり得るという真実が法(ダルマ)に他ならない。 明知の人は、この法(ダルマ)に依って、他ならぬ自らを自ら安寧ならしめよ。 ***
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- Buddha1219
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#5 追記(3) よく説かれた言葉でも、実行しないものには実りがない。 何かを実行しても、その行為があやしげで、心構え正しからざれば、苦い実を結ぶ。 人が、浄らかになるのもならないのも、各自のことがらである。 人は、他の人を浄めることができない。 たとえ、今現在、世間に浴し、自ら塵を多くまき散らしているとしても、かれが真実に目覚めて自らを浄めるに至ったならば、かれは世を照らす。 雲を離れた月のように。 人が、何を信じ、何を為そうとも、よこしまな心は何よりもひどいことをする。 それは、彼自身の根元を掘り崩し、知恵の門を自ら閉ざしてしまう結果を生じ、望まざる流転の起因となる。 それゆえに、こころある人は、まず自らの心を矯めるべきである。 けだし、人は心構え正しき、直ぐなる心を以って、自らが自らを不滅の安穏へと導き至らしめるのであるからである。 ***
お礼
度重なる質問に、御丁寧に何度も答えて頂き有難う御座います。 しかし、やはり稚拙な私には仰りたい事がよく分かりませぬ。 いえ、言いたい事は良く分かるのですが、私が知りたいのは「なぜ、失わねば気付かぬのか」で御座います。 もっと砕いて言えば、「なぜ、やり直せぬのか」で御座います。 人は多くの事に気付くのに、驚くほどの時間を要します。 しかし、人が悟りの境地に至った時、多くのものを既に失っており、やれる事はあまりにも少ない。。。 「なぜ、我々は生きているのでしょう?」 愛したい者を愛し、夢を夢で終わらず、自らに正直に、愚直に、誠実に生きる事こそ、人間本来の姿ではありませぬか? 「悟り」とはそれへと至るものであり、それそのものが「目的(終着)」ではなく、「明日(未来)」へと繋げるものではありませぬか? 何度も答えて頂き有難う御座います。 しかし、このまま押し問答になるのもBuddha1219様に悪いので、そろそろ締め切ろうと思います。 ただ、最期にこの1点↑についてお答え下さい。 なぞなぞ合戦も、そろそろズレが生じてきており、私も限界で御座います。 教えるべきでないから教えない、というのはこのgooコミュニティーの「ルール」に反しております。 そもそも「質問」という相手の「誠意」に対し、「破綻」ではありませぬか?(Buddha1219様は誠実で御座いますが) もし、Buddha1219様も分からない、というのであればそれで私も納得致します。 失礼に思われるかも知れませんが、未熟者の嘆きと思い流して頂けると、幸いで御座います。 何度もご回答頂き、感謝で御座います。m(_ _)m
補足
ご回答下さった皆様、誠に有難う御座います。 本来ならば全員にポイントを差し上げるべきなのですが、2人までという事なので勝手ながら選ばせて頂きました。 他の方も素晴しい意見をお持ちですので、どうか気にされる事がないよう、ご容赦願います。 有難う御座いました。
- Buddha1219
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#5 追記(2) 真実は、一つであって第二のものは存在しない。 その真理を知った人は争うことがない。 争いを完全に制した人は、その真理を知ったのである。 ここなる人が、(自分を含めて)いかなる人をも傷つけず、憂いを去って、悲しみを超克し、怒りを静め導き、他ならぬ自分自身に打ち勝って、自己を制した人であるならば、かれこそ温和な人、勝者であると知られ称される。 人の仁徳が、かれに徳行を為さしめるのでは無い。 それがそうだと知っていようが、知らずにいようが、よく徳行を為す人がいたならば、かれこそ徳豊かな人であると知られるのである。 自ら為した行為が、自らを安らぎへと導く。 世には、4つの徳があると知る人は語る。 誠実であること、自制すること、慳みしないこと(乏しき中からこそ分かち与えること)、堪え忍ぶこと がそれである。 賢者は、その利益(りやく)と功徳とをこころに知っておじけない。 他の人の仁徳を頼っていても、自分自身の問題は解決されない。 自ら徳豊かな人になってこそ、問題は解決される。 それを為し遂げた人は、一切と争わず、自己をそこねることがない。 かれは、すでに為すべきことを為し遂げた人であり、<大徳>とも<仙人>とも称される。 こころある人は、自ら為したことと、為さなかったこととを見定めて、人としてのあり得べき省察を為し、自らによって自らを矯め、直ぐなる心を確立して、よく精励し、実に為し難きそれ(=徳行)を為し遂げよ。 それが人を不滅の安穏へと運んでくれるのであると知られるのであるから。 ***
お礼
大分、質問の趣旨から逸れてしまいましたが、何度も御回答頂き誠、深い感謝で御座います。 >真実は、一つであって第二のものは存在しない 「事実」という事で御座いましょうか? 真実は見る人の角度によって、いかんとも変化してしまうものでは御座いませぬか。 仰りまする事は痛くよく分かるのですが、ブッタの道は実に険しく、そこへと至るには多くの犠牲を払わねばなりませぬ。 中には一番守りたかったモノ、願い、夢、希望、理想、家族、といった多くのものを失ってしまう者もありましょう。 何故で御座いましょうか? 悟りとは、本来皆が幸せになる為のものでは御座りませぬか? 悟りに至る為にの過程が、自らの喪失(死別・虚無)であるというのは、個人的に矛盾していると感じております。 度々のご質問、どうか平にご容赦下さいませ。 何度も答えて頂き、まこと有難う御座います。
- Buddha1219
- ベストアンサー率11% (2/18)
#5 追記 たとえその言葉を聞いて如何に感銘を受けようとも、他の人の言葉はそれを聞いた(問うた)人にとっての真実の、完全なこたえとはならない。 けだし、(自ら発したその問いについての)真実のこたえは自ら見いだすべきものであると知られるからである。 しかしながら、ここなる人がこのことわりを知りつつも、それでも敢えて人に問いを発して、ついに我が意を得たりのそのこたえを得たのであるならば、それは真実のこたえを得るための機縁とはなり得るのであると言ってよいでしょう。 また、ここなる人がこのことわりを予め知っていて、それでも敢えて人に問いを発して、ついに我が意を得たりのそのこたえを得なかったとしても、その問いに答えてくれた人の言葉を恕(じょ)して、その言葉そのものにはこだわらないけれども、それを自らのさらなる省察の機縁としたならば、それは実に空しからざることであったのだと言ってよいでしょう。 かれは、耳聡き人であると知られ称されることになるでしょう。 こころある人は、問いを発してのち、それについてのこたえを返してくれた人を見たならば、たとえその言葉が意に反し、あるいは意味不明であったとしてもその言葉を軽んじてはならない。 他の人の言葉をよく恕(じょ)す耳聡き人は、ついに世に稀有に出現するその言葉(=法の句)を聞き及んで、自ら問うたとのことについてのいわずもがなのそのこたえ(=真実)を得ることになるでしょう。 それがそのように起きたとき、かれのその問いは完全に解決し、かれ自身一切の疑惑を離れ得て、自ら不滅の安穏に至ることになるでしょう。 よく問う人は、それにも増して耳聡き人であれかし。 ***
お礼
恐れ入ります; 私も貴方ほどの徳と智において、他者に対し質問し忠告する事ができれば、このような事態を招く事もなかったのかも知れません。 かなりの仁徳と智慧をお持ちとお見受けしました。 引用ではなく、御自分のお言葉とは大変失礼&御見それ致しました; 仰る通り、私は未熟者で御座いますが、どうしても誠の「真理」を知りたく思います。 自らの不遜を致します事は認識しておりますが、既に限界を感じており、せめて迷える探求者に道を指し示すヒントを頂きたく存じております。 例え人からの「答え」であったとしても、それに共感し共有しえる事は、ある種答えへの道しるべでは御座居ましょうか? もしよろしければ、Buddha1219さんの考えや、何か参考となる書物・人物がありましたら、教えて頂きたく存じます。 度々の御忠告有難う御座います。よい耳聡き人となれるよう精進して参りたいと思います。
>やはり、「決断」する事と「予見」する事は別だという事なのでしょうか。 まったく別のことです。「決断」はやる気があれば誰でもできますが、 「予見」できる人間は限られます。後で教えてあげれば「予見」できる確率が上がるでしょうが・・・ >それとも、やり直せると分かったとたん、人間はまた同じ過ちを繰り返してしまうのでしょうか? やり直せようとやり直せなかろうと繰り返すときは繰り返します。人間だけが結果に影響するわけではないので言い切れません。 >そうであるとするなら、そこまで愚かな人間が生きる意味とは? 意味は無いです。強いて言えば種の保存、人類の次の種族への中継ぎ。 >いずれ直るというのなら、それはいったい何億年先の話なのでしょうか? 直りません。もし直したいのであれば、人間一人一人がまったく同じになれば少しは直るかもしれません。 人間が悲惨であると感じ、絶望できることは幸せではありませんか?
お礼
世が矛盾してると思えるのは、「予見」できる者が「決断」できず、「決断」できる者が「予見」できない事にありまする。 >人間が悲惨であると感じ、絶望できることは幸せではありませんか? 悲惨とさえ感じず、絶望さえできない状態に比べれば遥かにマシである、とはいえるかも知れません。 しかし、私は「幸福」と「妥協」は別である、というのが持論でも御座居まする。 鋭い回答、実に有難う御座います。参考にさせて頂きます。
- dulatour
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犯罪が起こるから、法律は作られるのでしょう。 その意味では、犯罪がなければ法律は必要ありません。 失敗があるから進歩があるのではないでしょうか。ただ、無制限な失敗は許されません。 人間とは完璧なものではありません。そのために哲学があるのではないでしょうか。 哲学のカテらしくまとめちゃいました。(^_^;)
お礼
犯罪と失敗はまた別々の問題という気が…; むしろ、法律が無くてもやっていけるような、犯罪のない世界が実現できれば、それはそれで良いような…(法律が沢山あるという事は、それだけ人間が…以下略)。 仰る通り、失敗してから分かるのが殆どなのですが、あまりにもやり直せない失敗が多いような…(プラマイゼロどころかマイナス…;) 哲学カテ向きの質問ではなかったか知らん?(笑)^^;
補足
哲学的な面白い回答有難う御座います。
- adaypajimy
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完全が存在し、不完全な人間に対して、かならず完全な人間と、完全な世界があると仮定しているのでしょうか。 maddogさんの話を押し広げれば、予想される世界・現象をすべて理解した…完全な世界と人間がいるという事ですが、完全に行き着いた人類が私は怖いですね(そもそも物理的に無理だと思います)。 完全である神がいて、完全だった人間がいて、完全な世界があって…というキリスト教の天国のような考えに対して、日本人の多くは多分(というか私)は仏教的な視点で考えてしまいまうでしょう。 簡単に言えば人類は「過ちを繰り返し続けている」のではなく「何事も常に変化していて、悪い事も良い事もある」という無常観でとらえた方がいいと思っています。 完全な予測によって作られた、例えば"転ぶ人がいない世界"では、けが人がいない→病院もいない→医者もいない→そもそも悲しみもないなら相対的な喜びもない、そうなると、歌もないし詩もない。死を予測して、死を克服し、延々と生きられる世界なら、もう悲しまなくてもいい。というか、そうなったら文化とかなくなるし、思想とかはもちろんないですね。予測を立てる必要もないですから。何事も完全に行き着けば、人は脳を使わなくっていい。 なぜかというと、 人が予測するのは、予測不可能な事態が起こるからですが、あらゆる悪い予想を避ける事が可能になり、悪い未来をさけて通れる事が人間の生きる意味ならば…今だって何かに達観してしまったのか知りませんが、死や生に生きる意味を見出せない人間が多いのに、予測可能な未来に価値はあるんでしょうか。 誰かの予測が完全であるということは、人生を知りえているということです。内容を知ってしまった物語を読む必要がないないのといっしょで、人生をやる意味もないし、生きる意味も無い。今以上に自殺者が増える気がします。 キリスト教徒のいう天国は、神と魂だけがある、もうそれは完璧というしかない平穏な世界なんでしょうが、それってもう空間も時間も何も無いのといっしょじゃないでしょうか。 過ちをしでかしつつ生きているのは当然で、まだチャンスがあるなら成功できるかもしれないと、建設的な考えが出来る限り、人は今を前に進めます。遺伝子や魂の進化に頼るのは一種の厭世観に過ぎません。完全に至らぬ世界を認識して、生きる意味を否定するよりも、今をどうするか考えられるから、そこに生きる意味でも見出せばいいわけですね。 まぁ、哲学って基本的に生きる意味を見出さない方向に行き着いていて、私も生きる意味はないと思いますが、まぁ好き勝手にさりげなく生きてみたいですね、私。とりあえず今は生きちゃっているみたいなので楽しく生きる。ニーチェは「人に、生きる意味があるのではなく、生きるために意味にすがるのだ」というような事を言っていますが…ないなら、それでもなお生きたいなら、何か意味をみつけるしかありませんよね。で、私の人生哲学の結論は「変化ある時代・社会を楽しんで生きる」ですね。(仏教とはちと離れている気もしますが…) あなたの今いだいでいる絶望は"完全な予測"という魔法によって、予期せぬ出来事は回避され望みは必ず達成され悲しみもなくなりますが…その魔法は諸刃の剣となるでしょう。 まぁ、でも単純に、自分だけ預言者になれたら、便利でしょうね。うまくつかえば、金も名誉も権力も思いのままですし。何が言いたかったのかわからなくなりましたが、失礼します。
お礼
どうやら私の質問が稚拙だったようで混乱を招いてしまい、己の未熟さを痛感しております。 私が言いたかったのは「完全なる世界」の実現ではなく、「やり直せる世界」の存在についてお聞きしたかった所存で御座います。 気付いたのに「やり直せない」というのは物事の整合(事象)として、矛盾しているように感じております。 ですが、そもそも現実に意味など最初からないのだから、ありのままの事実(現実)を受け入れろ、と言われればそれまでなのかも知れません。 個人的にはadaypajimy様の仰る「予測される世界=変化のない世界」というのは、違うのではないかというのが私の認識で御座います。 実際、人類は科学の進歩と共に物事に対する予測も、かなりのところまで進んできておりますが、その間にはそれまで認識できなかった事への肯定があり、むしろ、私は「変化を認識できる世界」になっていくと考えております。 また、「予測」とは「完全」と同じということではなく、「事前に知り得る」という事で「変化できる可能性」を秘めているという事ではないでしょうか。 しかし、実際には予測できたとしても、回避できていないのが現状でありましょう。 私はこれに友人の受け売りでありますが、「予測」できる事と「決断(選択)」する事は別なのではないかと見ております。 それがただの「変化」な内はよいですが、もし「悪化」であるとするならば急速に拡大を続ける人類が、取り返しのつかなくなる前に気付かなければ、未来はあまりにも絶望的過ぎる、と個人的に「予測」しております。 闊達な興味深い御意見、実に有難う御座います。
- angormore
- ベストアンサー率16% (44/262)
別に聡明な人間じゃないけど。 種族的な学習が本能に定着するには、それこそ気が遠くなるくらいの年月がかかるのは、進化論の基本だよね。 まして、「失ってから気づく」程度の「個人的な学習」が進化へ影響することなんて、ほとんど無に等しい。 人類というものが、「全く間違いを犯さない予見性に優れた種族」が生まれるための「踏み台」でしかないと考えることの方が、より絶望的であるように思うよ。 ただ、それは真実に近いんだろうけど。 愚かな人間が生きる意味? そんな意味は最初から存在しないと思う。 意味があるから生存している、というのは、どちらかというと一神教的な物の見方。 「神が人を創りたもうた」なんていう、ある種不遜な考え方。 生態系の流れの中で、偶然に生まれた生存力の強い因子。 それが、たまたま人類だったというだけ。 6500万年前に滅んだ恐竜と似たようなもの。 彼らの子孫が「鳥」にしかなれなかったことを考えれば、彼らの生きていた意味なんて、やっぱり無に等しいのかも。 われわれの子孫も、たいしたものにはなれないかもね。 だから、我々が「たいしたものじゃない」のも、当然だね。
お礼
いえいえ、実に参考になりました^^ 個人的には、人間ほどの複雑な生物であれば、個人のレベルにおいても万人へと通ずる事象を、潜在的に内包しているのではないか?と考えております。 ただ、仰るとおりそれが定着するには、どちらにせよ気の遠くなる年月が掛かるのは必須でしょう。 ましてや、人間の場合、その「複雑さ」が返って進化への妨げになっている勘が否めません。 「踏み台」というのは中々面白い表現ですね。 ただ、個人的に人間はその「踏み台」にすらなれていない気がします。 「知識」という分野に生物としての「本能(進化)」が追いついておらず、ある種の「暴走」に近い形態を取っているのが現状ではないでしょうか。 「生きる意味」はある意味、私も存在していないのではないかと思います。 人間が複雑で知識というものを持ち合わせていた為に、進化の過程において「目的」というものを見出したのだというのが、私の所論で御座います。 ただ、地球という生態系における生物である以上、ある種の「役割」に近い目的意識も、潜在的に持ち合わせているのではないかと考えております。 どちらにせよ、その複雑さから遺伝子的に本能が進化ないし淘汰されるまでは、延々と過ちは繰り返されるのでしょうね。 取り返しが付かなくなる前に、早く全体で決断すべきと思いますが、その前に破壊するスピードの方が遥かに早いのが現状でしょう。 闊達な早い御意見、実に有難う御座いました。
お礼
疑問(苦悩)の完全なる解決とまではと行きませんが、限りなく核心に近いと思います。 インドの仏教にこのような言葉があったとは知りませんでした。実に感銘を受けました。 もし、よろしければ詳しく教えて頂けないでしょうか。これは釈迦の説法でしょうか?