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「無常といふもの」小林秀雄の理解
「無常といふもの」小林秀雄さんのこの本の言っていることがぜんぜん判りません。 小林秀雄さんはこの本の中で何をおっしゃりたいのでしょうか? また、参考になる解説本などありましたら、ご紹介していただけますでしょうか。 よろしくお願いします。
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曖昧模糊たる質問で、手のつけようが無い、といった印象ですね。 しかも「無常といふもの」とおっしゃいますが、正確には「無常という事」ではないですか? おそらく(失礼ながら)「ぜんぜん判りません」という以上、先の回答者が紹介されたサイトを覗いてみても、やっぱり変わらないでしょう。いや、余計に混乱するに違いありません。 そこで私見を、ごく簡単に、あっけらかんと述べてみます。 (小林流韜晦に感染する手合いは、見ていてうんざりですから) まず、「無常といふもの」というタイトルに誤魔化されないほうが良いですよ。小林は、「無常感」などにテーマを絞って論述していませんから。 むしろ、一種の「タイムスリップ体験」を繰り返し述べている。そこに潜む得意げな口調に耳を澄ますべきです。小林は、自分のタイムスリップを自慢しているのです。 まずそこを押さえてください。 それを彼は、「思い出す」というキーワードを駆使して語ります。 たとえば、エッセイ「無常という事」によれば、比叡山を散策中、彼はトリップ状態に入ります――「あの時は、実に巧みに思い出していたのではなかったか。何を。鎌倉時代をか。そうかも知れぬ。」 エッセイ「蘇我馬子の墓」によれば、飛鳥を歩きつつ、トリップ状態に入る――「山が美しいと思った時、私はそこに健全な古代人を見つけただけだ。」 また、別の本ですが「モオツァルト」によれば、小林は、大阪の道頓堀をぶらついている最中、トリップ状態に入ります。逆説的な表現ですが、「モオツァルトの音楽を思い出すというようなことは出来ない。それは、いつも生れたばかりの姿で現れ」るという風に書いています。 小林秀雄は、それらの瞬間、瞬間を非常にいとおしむわけです。 「無常という事」では、それを「美学の萌芽とも呼ぶべき状態」と名づけ、「蘇我馬子の墓」では「芸術の始原とでもいうべきものに立ち会っ」たのと言い、「モオツァルト」では、音楽が「絶対的な新鮮さとでもいうべきもので、僕を驚か」したと言う。 すべて、彼に言わせれば、始原的瞬間「とでもいうべきもの」なわけです。 小林は、そのつど、始原的な時空へスリップし、自慢する。 (あたかも、極めて困難な月面への有人飛行から帰ってきた英雄気取りで) そしてこれを、歴史(的人物)をめぐる様々な解釈に対する「解毒剤」というか、根本的な批判にしているつもりなわけです、彼は。 言いかえれば、テクニックを駆使して対象に切りこんでいったり、アプローチしたりする研究方法を、嫌っているわけです。 具体的には、同時代的に勢力のあったマルクス主義とかヘーゲルとかが仮想敵なのでしょうね。私はよく知らないですけれど。 要するに、特殊な「思い出し」方で始原的な時空へスリップするほうが、考察の対象をまざまざと把握できるよ、というのが小林の言いたいことです。
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- ghostbuster
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前回の小林秀雄の質問で回答した者です。 どういうふうに書いたらいいか、しばらく考えていました。 おそらくこういう書き方はまだるっこしいと思われるでしょうが、それしか思いつかないので、しばらくおつきあいください。 まず、商取引ということを考えてください。 物を売り買いするときというのは、売り手は、これは何のための商品であって、いくらの価値を持つものだ、と、まず宣言します。こうして買い手が売り手の条件を認めたとき、取引は成立します。 本の場合は、これとは逆に、読者はまず先に取引を成立させてしまってから、条件をさがします。これは「何のための本」なのだろう、と。 よくわからない機械を「おもしろそう」と買ってしまうのに近いのかもしれません。 読んだのはいいけれど、書いてあったことがよくわからなかったとき、不安になりますね。 それは、その「何のため」がわからないからの不安です。自分はお金を払って本を買って、おまけに時間もかけて、苦労しながら字を追いかけ、ページをめくったのに、これはムダだったのか? 「著者の言いたかったことは何か」というのは、「何のため」かを知ろうとする問いのひとつのバリエーションです。 よくわからない機械を買ったら、まず考えることはそれでしょう。これは何のための機械なんだろう。 ところで、この「何のため」に答えられない種類のものがあります。 たとえば、わけのわからない彫刻とか、抽象画とか。 ひとつの納得の仕方は、「これは芸術だ」というやりかたです。 これは、芸術だから、「何のため」ではなくてもいいんだ。 芸術だから、価値があるんだ。そういって、わからなくても「ムダ」ではなかった、と納得するやりかたです。そう思って、飾っておきます。そのうち、ほこりをかぶって忘れられてしまいますが。そんな彫刻、駅前にたくさんありますね。 もうひとつは、「わからないけれど、好き」っていう納得の仕方です。 変なことを言うようですが、人を好きになることに理由はありません。理由があるような相手の場合、たいがい、そのうち好きじゃなくなってしまいます。つまり、なんで好きなんだろう、って考え続けることが、相手が好きだ、ということの要素のひとつなんです。 わからないけれど、好き、なんじゃなくて、わからないから好きなんです。 さて、小林秀雄の評論は、「何のため」かわからない機械のようなものです。 だから、ひとつのやりかたとして、「難解なもの」「ありがたいもの」「芸術」「詩」とレッテルを貼って、ありがたがって、忘れてしまう、という方法があります。 もうひとつは、「わからないけれど、好き」と納得してしまうことです。 詩ならば、それでもいいかもしれない。 評論という文章で、それをやるのは反則じゃないか、と小林秀雄の批判者は、昔からそう言い続けてきました。 それはそうです。 けれども、それだけではおさまりきらない魅力があるのも、また事実なんです。 さて、前置きが長くなりました。 まず、小林の評論で「筆者は何が言いたかったのか」という質問に意味がないことは、おわかりいただけたでしょうか。 それでは、どういう質問が正しいか。 それは、「何が書いてあるか」を読むことです。 まず、『一言芳談抄』の引用から始まります。 『一言芳談抄』を読んでみましょう。ちくま学芸文庫から『一言芳談』として出ています(いま検索してみたら、手に入れるのがむずかしいみたいですが図書館に行ったらあります)。仏教の話で、わたしは読んだってちっともわからなかったんですが、それでも、この冒頭に引用された部分だけは、このよくわからないなかで、独特の色合いを持って浮かび上がってくるものであることは感じられます。おぼろげに、小林が「いい」と思ったのは、ここらへんを言っているのかな……ぐらいの感じはつかめるかもしれません。 つぎに小林は、この部分を思い出したときのことを書いています。 青葉や石垣を眺めながら、同時に、「この短文が絵巻物の残欠でも見る様な風に心に浮かび」とあります。 だから、絵巻物を見てみます。なんでもいいです。図書館に行って、画集を探してみましょう。『源氏物語絵巻』でもなんでも、よくよく見て、「古びた絵の細勁な描線を辿る」ことをやってみます。 そうして、「古びた絵の細勁な描線を辿る様に心に滲みわた」る、というのが、どういう感じなのか。そんなふうに、本のある一節が、「心に滲みわた」る、というのを、追体験してみます。 「何が書いてあるか」を読む、ということは、そういうことです。 多くの論説文というのは、そうしたことの説明が書いてあります。けれども、小林の文章には、そうしたこと一切が落としてあるために、この短文に「何が書いてあるか」を理解するためには、膨大な読書と知識と経験が要求されます。 「あまり早く理解される文章は長続きしない」と小林が言った、と中村光夫の評論『小林秀雄(小林秀雄小論I)』(中村光夫全集第六巻)に書いてあるのですが、まさにそういうものとして、あるのだと。 もし、理解しようと思うなら、どうか時間をかけて、理解していってください。
お礼
すばらしい解説ですね。 う~ん、この解説に感動してしまいました。 前回に引き続き、回答していただいてありがとうございます。 小林秀雄、ドストエフスキーなどについてこれからも質問していくかもしれません。 また、なにか教えていただければうれしく思います。 ありがとうございました。
- shigure136
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【ある世代の人々には周知のことであろうが、小林秀雄はその随筆、「無常といふ事」を、『一言芳談抄』の中のある一節の引用から始める。それをまず、小林の引いている通りに引用し、紹介しておこう。それはこうである(1):】 上記のような書き出しで始まる「無常といふ事」の内容を解説したURLがありましたのでご紹介致します。 http://www2.biglobe.ne.jp/~naxos/tohoku/tamayori.htm
お礼
教えていただいてありがとうございました。 けっこう、小林秀雄さんの解説のサイトは少ないんですね。 とても参考になります。 ありがとうございました。
お礼
うまい説明ですね~。 感動しました。 スリップしてトリップしているわけですね。 なるほどなあ~、と思いました。 理詰めではなく、ピカソのような芸術なのかなあ、と理解していますが、いかがでしょうか。 ありがとうございました。 感謝しております。