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小林秀雄「無常という事」より「徒然草」について
30年来の疑問です。自分なりに分かったつもりで長年、過ぎていました。 「兼好の苦がい心が、洒落た名前の後に隠れた」とか「物が見えすぎる目をいかに御すか」とか、小林秀雄流の心をくすぐるすてきなアフォリズムで、勝手に理解した気になってしまいました。 短文の最後に「鈍刀を使って彫られた名作」として40段の「因幡の国の栗好きな娘」のストーリーが載っています。小林がこのストーリーを提出することで何をいいたいのかがわからぬまま30年経ってしまいました。 小林自身の回答でなくともいいのですが、「無常という事」を読んだ方々の個人的な回答が知りたいです。どうか、よろしくお願いします。
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信ずる事と知る事、に通じるのではないでしょうか。 単純な解かもしれませんが、米を常食とする通念的なエートスと、栗が好きだという全く個人的な嗜好を並べてみて、他人様は勝手な判断を、あたかも公理のように打ち立てる、という、世間の不思議というものを、風刺的な口調を排して、指したのでは。 (風し的口調を使っていない、という所が鈍刀という訳です。) 例えば、世の中の人は皆人魂を信じないが、僕は信じる。世の中の人が皆信じないという事実を以って、僕もまた信じないとする事には意味がない。いや、もっと言えば、そういう事をする人というのは、そもそも、信じるという事に無知な人だと言えよう。万人に例外なく理解されるが如く知り、自分自身が実感を持って信じられる事を、たとえそれがどんなに他の人から見たら(通念に毒されている人から見たら)異様な事であっても、信じるものは信じるという、そのままの生き方やあり方の態度は、それ自体で美しい筈である、と、小林は言いたいのです。 と、そんな風に思います。 そして、このことは、晩年の「本居宣長」にそのままつながっている、小林の深い確信であったに違いありません。
お礼
「在外批評」と戦った小林秀雄ですからね。kamimusubiさんのいわれること、理解できました。ありがとうございます。 でも、徒然草の逸話の中に、もっと適切な例はあるような気がするんです。仁和寺の坊主の話や、鯉の料理人とか…。鈍刀の意味はkamimusubiさんのいわれるとおりでしょうが、すると栗好き少女は、自分であるということなんでしょうねえ。回答ありがとうございました。もう少し、回答を待ちます。