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宗教と、芸術、建築の関係。
京都や鎌倉等の大寺院を訪れると、素晴らしい庭園や襖絵等を目にしますが、それらは何故そこにあるのでしょうか? 教義に基づいて七堂伽藍を整える程度ならわかりますが、手間隙をかけて庭園や室内装飾を施す理由がはっきりしません。 単純に考えれば・・・ (1) キリスト教の教会建築や室内画、賛美歌等のように文盲率の高い民衆への布教手段として。 (2) パトロンが貴族だったから。冨と権力の象徴として。 (3)書画骨董等を愛好する単なる趣味。そこに多少は宗教的要素を散りばめている。 (4)当時は寺社が知の殿堂であり、芸術、工芸は寺社やその崇敬者をパトロンにして、要求に応えたから。 等と思ってしまうのですが・・・。 京都や鎌倉の寺院を巡り、その雰囲気や美に感嘆するうち湧いてきた素朴な疑問なのですが・・・。 回答、ご意見、宜しくお願い致します。
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曹洞宗の僧侶です。 京都や鎌倉のお寺に見事な庭園が多いのは、それらのお寺が成立した時期と用途に関係があります。 最初の頃は、お寺の庭は儀式を行なう場所でしたから石や樹木があっては邪魔でした。法隆寺や東大寺、薬師寺といった奈良の大きなお寺には見るべき庭の造作はありません。これは庭で儀式を行なっていた名残です。法隆寺の宮大工として有名な故・西岡常一さんは「庭に樹木があるのは寺が衰えた証拠」とおっしゃっています。大きな儀式を催行する勢いが無くなった証拠というわけです。 鎌倉・室町時代になると、権力者や皇族が僧籍に入る例が増加しました。お寺の格式を高めるために皇族を住職に迎えたり、引退した将軍が出家して自分の寺を建てたりしました。これらの寺は宗教施設であるよりも彼らの別邸、隠居所、離宮といった性格が強く意識され、それにふさわしい庭や調度の造作がなされるようになっていきました。こうした風潮が、しだいに一般のお寺にも浸透していったのです。 お寺の庭園といっても、回遊式庭園のように散歩したり花を愛でたりといったものと、禅宗のお寺によくある枯山水では性格が異なっています。成立したのは回遊式庭園の方が先ですが、室町時代の後半くらいから禅宗では儀式を行なわなくなって”空き地”になった庭先に、石や砂を使って枯山水を作るようになりました。これは軒先から眺めるだけの庭で、住職や訪問者が禅の教えについて思いをめぐらせたり話し合ったりすることにふさわしいような、小宇宙とでも呼ぶのが適当な宗教的な意味合いを込めた造作が盛んに行なわれるようになりました。 最初から特定の目的のために庭を作ったわけではなかったと思いますが、結果としてmoscataさんが感じられたような意味付けが生まれたということは言えるかも知れません。
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(1)禅宗は開山禅師を大切にするそうですが、何故でしょうか?(中央に木造を安置してある事を見受けますが、個人崇拝のようで素人には違和感があります。(個人崇拝で言えば宗教は多くがそうではあるのですが…。)) >>>>>違和感を感ずるというところが、宗教の基本を勉強しない日本の教育のかなしさでしょうね.つまり、アラーの神とかキリストのしもべとかでなく、禅宗系、自力本願思想と本願寺さんのように、阿弥陀様がすべてを救ってくださるという他力本願思想、いくら愛をきわめても、キリストのしもべにしかなれない宗教と、庶民でも、授戒により、血脈で釈迦とつながり、極端に言えば、庶民=釈迦になるうる宗教など、根本的に、思想が、違うので、問題は、教祖絶対主義が、全くいけないかというと、教祖存命中は、難しい問題だが、教祖が死去して、経年すれば、あまり大きな差が、でてこないなど、で、あります. オウム心理教は、現実に存命者を教祖としていることで、如是我聞という在来仏教とは、次元が、全く違いますね. ですから、亡くなった開祖祖師を、釈尊の直弟子として、崇拝すること=釈尊を崇拝することなので、祖師像が、あっても問題ない訳です. なお、東本願寺でも、親鸞様のお堂の方が、本堂より格が上ですので、禅宗に限らず、祖師崇拝は、あるわけです. 本来お寺は檀家の為にあるので本山寺院でも無ければ広く庶民を視野に入れるものではないのかな…とふと思いました。>>>>> 寺が、檀家のためにあるときちんと定義つけたのは、昭和に入って、しかも戦後昭和28年ころの宗教法人法によるものですから、長い日本仏教の歴史、つまり仏教伝来から1400年たった今からすれば、実に最近のことですが. ですから、当時は、法体系的には、檀家の側から、仏教を見る感覚は、無かったのでは、江戸時代に、寺の側から、行政上の人口動静の把握のため、死んで、墓に埋める数で政治をした、檀家制度というものは、ありましたが...現在は、産婦人科医に、出生したら、出生証明を書くという形に、行政は、情報収集方法を変更しただけです.これと、宗教心とは、直接関係ありません.よって、隠れキリシタンというどこかの檀家でありながら、キリスト教を信じるという日本人が居た訳です.また、先祖崇拝思想つまり、墓参り慣習と仏教思想とも、違いがあるのですが、、、、これは、キリスト教徒でも、日本人は、墓参りを大切にするが、欧米人は、墓より教会へ行くことが、重要視される. 以上、残念ながら、質問者には、どこの宗教、宗派が、良いか悪いか以前に、宗教情操と言って、基本的な哲学的な判断力が,義務教育では、永年タブー視してきて、正面から研究しない結果、正しい物の見方を、お調べ願えるのがベターと考えます.
お礼
そうですね。 知識不足です。 宗教はあまりに深く、様々で、つかみどころが無いのでなんとも 理解し難いです。 どういう風に折り合いをつけるか、全く分かりません。 少しずつ、学んでいきたいと思います。 お礼が遅れてしまい、失礼しました。 回答、ありがとうございました。
- sgm
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ANo.3の者です。 >(1)禅宗は開山禅師を大切にするそうですが、何故でしょうか? >(中央に木造を安置してある事を見受けますが、個人崇拝のようで >素人には違和感があります。) お寺に安置されている開山さまの木造は頂相(ちんぞう)と呼ばれるものです。開山堂と呼ばれる建物に安置されている場合が多いですが、規模の小さいお寺では本堂に安置されている場合もあります。 禅宗では、お釈迦さま直系の祖師方が、お釈迦さま直伝の正しい教えを一滴も漏らすことなく受け継いでこられたということになっています。禅宗の修行は師僧の指導の下に、このお釈迦さまの教えを正しく受け継ぐことを本義としています。 このため禅宗のお寺は大きさや格式に関係なく、等しく禅の修行道場として開山されるのが建前です。開山さまは、この道場を開かれた初代の師僧であり、入寂された後もお寺に残された山風(お寺の家風、家訓)や語録によって、生前と同じように後進の指導にあたられているのです。そのため、そのお寺で修行する僧侶は、開山さまを大師僧として尊崇するのです。 >(2)京都や鎌倉等で観光客が訪れるような寺院は、過去においては、庶民 >とあまり接点が無い寺院なのでしょうか?(開基された人及びその関係者 >の為の寺と考えていいのかな?と思いました。) >本来お寺は檀家の為にあるので本山寺院でも無ければ広く庶民を視野に >入れるものではないのかな…とふと思いました。 お寺と民衆が菩提寺←→檀家の関係で結び付けられたのは、江戸時代に入って、寺受け制度が整備されてからです。それまではお寺の経済的外護をしてくださるスポンサーを”檀越”と呼んだりしていましたが、だれもかれもが”檀家”になるのは、ずっと時代が下ってからのことでした。もちろん、天台・真言の開宗以降、どの宗派も、宗派をあげて民衆教化を進めたのですが、教化活動はむしろお寺の外で行なわれていて、「お寺は檀家の為にある」という感覚は、おそらくそれほど一般的ではなかったのではないでしょうか。 とくに現在、観光客が訪れるような寺院は、宗派のなかでも一定の格式以上であったものが大半なので、仏殿や座敷に、誰も彼も上げるようなものではなかったと思います。他宗のことをいって恐縮ですが、たとえば民衆教化を基盤として教勢を拡大した浄土真宗にしても、本堂の構造はお寺さんが宗教行事をおこなう場所と民衆がひざまずく場所は段差がつけられていて、蓮如上人が大改革をおこなって”下げる”まで、その段差は驚くほど高いものだったと聞いています。現在でも、何となくお寺は”敷居の高い”場所ですが、当時のお寺も当時の事情ではやり敷居が高かったのではないかと思われます。
お礼
自分で調べてもなかなか分からない事を教えて頂けて感謝します。 お礼が遅れてしまい、申し訳ありませんでした。 改めて読み返し、京都に行った時の事等を思い返すと、「なるほどな~」と思います。 丁寧なお答え、ありがとうございました。
- anapaultole
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それは、現代人の感覚(ささやかなる信仰心?)ので、それらの建築を観てしまっているからです。 奈良時代、平安時代等には、今日のような医師はなく、病気になるのは物の怪が取り付くからだと人々が信じていました。そうして死後、西方浄土を信じて念仏をしました。女性は一度男性になってからでないと往生(女人成仏、変成男子)できないとも言われていました。 となると、その西方を誦す場所(単に念仏堂だけでなうそれが在る場所全体)をどのようにするかは もうお分かりですね。 この点の歴史教育は宗教が絡むので、学校教育でも省略されますから、疑問はもっともだと思います。
お礼
回答ありがとうございます! 確かに…ささやかなる信仰心です。(苦笑) 一応、礼を失しない様、ご本尊に手を合わせる事を心がけましたが…。 寺院に求めるものは、現在とは比べようも無い切実さもあり、現在とは少々違うという事なんですね。女人成仏、変性男子は知りませんでした。 寺院建築、作庭者が込めた意匠、仏教のアウトライン(システム)に重きを置き、民衆のそこに向けた思い致しておりませんでした。 参考になりました。ありがとうございました。
例えば、京都の苔寺の庭園の池は「心」字池と言って、こころという漢字を形作っています. また、寺院庭園というのは、枯れ山水のように、諸行無常をあらわしたり、岩ひとつを、阿弥陀佛にたとえたり、須弥山という極楽を表したり. どろの中から、ピンクの華はすの花を咲かせたりと、また、それだけの庭を維持する労力やら、専属の庭師の未来図が、描かれて、枝を切ったりしているのです. つまり、庭も布教の場であり、花を見て、やさしい心を思い出したり、枯れていく、はかなさを感じたり、かえでの紅葉ひとつでも、裏から見る、表から見る、光が当たるなど、天文学、気象学、生物学など、学問の宝庫ですね. また、ふすまや屏風画は、大きい作品を常時、庶民にみてもらう場として、過去は、権力の象徴として、時代ごとに、背景が、異なります.特に、大きな仏像なんかは、いまでいう、万博のように、国家予算がないと、腕の良い芸術家が、それだけの材料と職人を集められなかったでしょう. で、回答としては、時代ごとに、背景は異なる、ただし、寺子屋と同様に、時代の先端を、進んでいた. 寺院建築などは、柱の長さは真ん中と左右とは、わざと、長さを変えて作ります.これは、目の錯覚で、完全に水平に桁をかけると折れて見えるからです. 瓦は、両深と言って、表面の瓦が割れても、雨漏りしないとか.屋根が、カーブしているのは、例え、雨が漏れても、表面張力で、部屋の中には、漏れないなど、物理学の結晶ですね.磁石の無い時代に、真北をさがすのは、天文学、屏風の折れ曲がりで、遠近法と立体感を出すなど、かなり、本物は、凝っています.ちゃんと、軒の垂木も柱の間隔とぴったり合わせ、床の間などは、黄金比という、美的に最高に美しいサイズを、すべてに取り入れ、障子から見える庭と建物が一体で、物語になっています.平安神宮の裏庭とかも、季節で、どこかに花があるように計算されています. つまり、建物、庭と独立した考えでなく、一体のものなのです.銀閣寺の山道も入り口より奥が狭く作ってありますが、短い距離でも、視覚的に長く見る工夫です、ここに、書ききれないくらいのアイデアの宝庫ですから、国宝にもなるのです.ただ、古ければ国宝というものでは、ありません.
お礼
回答ありがとうござます! 現代の技術に匹敵する匠の技と、時を経てもなお風化しない作庭家の意匠、それらが訪れる人の心を知らず知らずに打つんでしょうね。 寺院を巡り、往時の庭や伽藍を思う時、失われた事を非常に残念に思います。 参考になりました!ありがとうございました!
お礼
回答、ありがとうございます。なるほど、言われてみれば、京都の大寺院やその搭頭は公卿、武家の別邸、出家後の住まいの態もなしていたんですよね。自分が拝観した所もそういう所が多かったように思います。開基(=スポンサー?)の影響もあるんでしょうね。 庶民を巻き込んでの行事がある寺社はお庭よりも広い広場(?)がある事が多い事も思い出されます。 回答、ありがとうございました。大変参考になりました。 ご好意で回答頂いた上に追加質問は恐縮なのですが、以下にお答え頂ければ幸いです。 (1)禅宗は開山禅師を大切にするそうですが、何故でしょうか?(中央に木造を安置してある事を見受けますが、個人崇拝のようで素人には違和感があります。(個人崇拝で言えば宗教は多くがそうではあるのですが…。)) (2)京都や鎌倉等で観光客が訪れるような寺院は、過去においては、庶民とあまり接点が無い寺院なのでしょうか?(開基された人及びその関係者の為の寺と考えていいのかな?と思いました。) 本来お寺は檀家の為にあるので本山寺院でも無ければ広く庶民を視野に入れるものではないのかな…とふと思いました。