- 締切済み
普遍について
普遍は、客観的に存在するものですか? それとも人間が勝手につけるものでしょうか? 世界のものは、それぞれ皆違うと思いますが、似ながら違っていると思うんです。そうすると、そこに普遍は含まれると思うんですが、どうなんでしょうか? 普遍の仕組みを教えてください。 あと、こういう哲学の分野を教えてください。
- みんなの回答 (8)
- 専門家の回答
みんなの回答
- true-1
- ベストアンサー率20% (22/105)
普遍とは、「特殊・個物に対して、ある範囲のすべての事物に共通する性質」と出てました。 普遍的なものが、人間が作ったものまで包含するならば、その普遍の指し示す意味は、真理(真実)とは違うものになるでしょう。真理は、宇宙が存在した以来、厳然としてあるものですから、人間が作ったものではありません。 普遍の中には、人間が作ったものと、人間が作ったものでないものと、2種類あるのかな、と思います。
- corpus
- ベストアンサー率12% (25/200)
この世界は似ながら違っているというのはおっしゃるとおりだと思います。それでは次の問いはどうでしょうか? もしもすべてが同じものでできているならば普遍はあったか? もしもすべてが異なり互いにコミットできないならば普遍はあったか?
>世界のものは、それぞれ皆違うと思いますが、似ながら違っていると思うんです。 「法の下の平等」は一つの普遍原理。客観的に主観の一致として存在してると思います。 法治国家・民主主義社会において法は一般大衆が一番大切とされています。それが嫌なら別の国家(軍事国や共産主義国)に移民などする自由もある。そしてその社会の掟に従わなければいけませんが、「客観的に存在する普遍的自由」とはどの組織に所属するかを決められる自由のある時だけで、所属してしまうと従う他ありません。従うものを守るのが法だから従わなければ普遍的に償ったり罰せられなければならなくなります。 自然が法を主張したり、責任を感じていたりないですし、与えてもないのに、勝手に普遍を作って人間だけで義務や権利、責任だの保証って自然や神さえ独占していますよね。それが悪いとは言ってませんが。良いとも何とも分かりませんが。
- teppyon
- ベストアンサー率50% (6/12)
例えば、世界のもののうち、どれか二つを取り上げて比較してみたとすると、そこに類似性と区別が存在すると思います。「二つ在る」と思うところに、すでに区別がありますが、この区別には、必ずなんらかの第三者的な立場が必要であると思われます。 例えば、鉛筆とシャープペンシルでは、材質という点に関しては、木とプラスティックが異なると捉えられる。機能という点に関しては、シンを刃で削るもの、ノックするもしくはシンを取り替えるもの、などの相違があります。 逆に、共通なものとしては、シンを持っていて、文字を書くことができる、ということが挙げられます。 ここで、「シンを持っているもの」あるいは「文字を書けるもの」という概念は、鉛筆にとってもシャープペンシルにとっても普遍的なものです。近未来に最新型鉛筆や最新型シャープペンシルなどが開発されないかぎりは、シンを持っていない鉛筆も、文字を書けないシャープペンシルもないのではないかと思います。 鉛筆とシャープペンシルにとっての普遍的な概念は、以上のようなものとして、例えばこれをうんと拡げてみて、「世界のもの」という視点で見た場合、何が普遍的なものであるか、と考えてみますと、私にとって、まずはじめに思い浮かぶのは、「在る」ということです。世界のもののなかで、存在という概念が含まれないものは、ありません。現象として、あるものが無くなった、ないものが現れた、という事態はありえるでしょうけれど、その現れたり無くなったりするところのものは、存在しているのでなければこのように考えられないからです。 次に、世界の様々なものにとって、「物」という概念は、普遍的であろうと思います。そして、「物」という概念が含んでいるところの、類似性や区別、本質などという概念も、普遍的ではないかと思います。存在、物、類似性、区別、本質という概念があるからこそ、世界の様々なものを、似ていたり違っていたりすると判断できるのではないかと思います。 これらの普遍的なものの仕組みについて、ヘーゲルが論理学において語っていると思います。
- Sombart
- ベストアンサー率16% (45/267)
なんか、「普遍」などという単語を使うと高尚になったような気分になる人が多いのですけれど、ものすごく注意することをお勧めしますよ。 カルト宗教やらニュービジネスやらにハマる人の大多数と同じ心理なのですから。 キーワードは、「一発逆転」。 地道に積み上げて成果を挙げるのではなく、実務を続けてプロフェッショナルになるわけでもなく、何か楽して真理(裏技とも言う)を掴んで大きな成果を成し遂げることを夢見てしまう、そういう心理です。 地道な実務に拠らずしてらくちんな普遍法則を掴むことで、地道に実務を積んできた人の上を行こうという発想ですから、そういう意味で「一発逆転」。はっきり言って浅ましい。 あなたがそういう類の人間でないことを祈りますが、そうであっても驚きはしません。 そうでないとしても、「普遍」などという単語を弄ぶうちにそうなってしまう人間が多いので、その点にはものすごく注意しましょう。具体的には、人間社会の具体的な問題にその「普遍」を安易に適用しようとしてはいけないということです。「普遍」からしてズれているとあなたが思うケースに対しては、特に。 まあ、前置きはこのくらいにして。 「普遍」というものは、作れば作れるものです。たいそうな代物ではありません。個別事例を嫌になるほど積み上げて、その共通部分を抽出したものが「普遍」です。
それと普遍性が客観的に存在するという実念論はキリスト教信仰のように霊魂のような観念的なものの存在を保証する為のものです。 記号論理学的に言えば普遍的な思考は単に共通な名称の結合ですのでそういった観念的なものは存在しないと言うことになります。 ただしフレーゲのような大論理学者は論理的思考に客観性を与える仮定として論理的記号に対応する普遍的なものの実在を主張しています。 当たり前の話ですが概念が存在するというのと客観的な存在つまり実在すると言うのはまったくの別問題です。 普遍的な「世界」というものが客観的に存在すると主張するのは幽霊が実在すると主張するのと同じことです。
補足
大変詳しい説明ありがとうございました。 普遍性(基準)と普遍的なものの違いが良く分かりました。
実念論か唯名論かという中世の普遍論争の問題です。 例えば犬で言えば存在するのは個物であるポチや太郎か、あるいはい猫か犬の判断である犬一般か、の問題です。 普遍性とはその「犬一般」のことです。 その「犬一般」はポチや太郎その他時代を問わず全ての個々の犬から成り立っていますが、そうした個々の犬から離れて犬一般が存在するか否かは、プラトンのイデア論のように古来からの哲学的問題です。 普遍性は例えば犬か猫を判断する「基準」として存在するというこは言えます。
- jyamamoto
- ベストアンサー率39% (1723/4318)
まず「普遍」という「概念」は間違いなく存在します。(「客観的」という「概念」も同じです。) ただし、「現象」としての「普遍」は、それぞれ個々人の意識(認識)の中にあり、それを「客観的」稼動か判断するのも個人の意識の中の問題です。 「普遍」の考え方は、哲学の世界では、プラトンのイデア論にも通じるものだと思いますが、その理論を正しいと判断するのも、あなたという個人の認識の問題です。
お礼
この二つの問いを考えの参考にします。