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羊と鼠
最近羊と夢について考えてしまってなかなか何にも集中できません。「アンドロイドは電気羊の夢を見るのか」に直接関係するわけではありません。まだ読んで事もありませんし。 「アンドロイドは電気羊の夢を見るのか」という疑問の前提に「人間は羊の夢を見る」という事柄があるのだと思います。なぜ、人間は羊の夢を見るのですか?その羊とは、眠れないときに数えている羊のことですか? なんで羊と鼠はよく一緒の物語に出てくるのですか? 村上春樹は、この作品の影響を色濃く受けているのですか?
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羊を数えていたら眠くなり、眠ってしまったらどこまで数えたかは覚えていない。 遊牧が盛んだったころ、羊というのは人間にとっては無くてはならない生き物で、生活の一部でした。 だから、羊のことが夢に出てきたのではないでしょうか? 人間が作ったアンドロイドに、人間の社会生活の起源が遺伝したとするなら、アンドロイドも、羊の夢を見るのかもしれません。 鼠と羊が一緒の物語に出てくる、そのような物語を私は知りませんが、羊の乳で作ったチーズを食べに、鼠がよくやってきたんじゃないですか。 農耕を始めたときにも、鼠が、穀物を食べにやってきます。生活に深くかかわってきた動物は象徴化されることも多く、物語のキーワードとして用いられることがよくあります。 現代でしたら、ケータイ電話や、ロボット、などの、マシンや「繋がり」が、象徴化され、物語の中に登場してきます。何の象徴としてそれが描かれるのかは様々です。 物事を象徴化することに慣れれば、形容表現も多彩になり、面白い視点をたくさん得ることができます。 目に付く事柄、様相を対象から抜き出し、その抜き出した様相によって、言い表したい対象を再構築すること、それを象徴化すると言います。象徴化の素は観察や、印象です。 例えば、猪豚のごつい毛を、棘といっても良いですし、丸い体を卵といっても良いです。ごつごつと音を立てるひずめをクッキーの様だといっても良いですね、そのように、目立つ事柄を抜き出していきます。 ごつい毛・丸いからだ・ごつごつという音のひづめ・ これらを、言い表したい事柄の部分に転化していくと、棘というのは、それを捕らえることの困難さ、触れることに難ありを暗喩しますし、卵の様というのは、つかみどころの無い物体そのものの性質、未知を示します。クッキーのような足先は、軽快で甘い、それを追いかけたくなるような魅力を表します。 すると、例えば猪豚というのは、前述の形容表現を用いることで、確かに存在するが、捕らえるのに困難で、だけれども追いかけたくなってしまう、そのような事柄を、物語の中で象徴することができます。 それらの形容表現によって、象徴対象は、物語の背景に少しずつ蓄積されてゆくもので、象徴化をポイントポイントでマメに行っていくことは、物語の背景を緻密にしてゆくことにもなり、結果的には、読みやすい、質量のある物語ができます。 ゆえに物語では、写実性よりも、抽象性がその骨格となります。また、象徴ではなく、直示を意味として用いる詩などの文章表現では、抽象性よりも、写実性がその骨格となります。(象徴化というのは、あくまで一つの代表的な手法でありますが。) そのような象徴化という見方で、羊を数えている間に眠ることを解釈しますと、 おそらく、始めは、羊を数えている夢を、見ていたのだと思います。 だから、寝言でも言って、「ははっ、あいつ寝ながら羊を数えてるよ。」なんて事があったのではないでしょうか。 それを、羊を数えていれば眠くなる、と、転じたのだと思います。 本末転倒、逆の試み、そのようなことを暗喩するものとして、 「眠れないときは羊を数えろ」 となったのではないのでしょうか? おもしろいですね。