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明治の人物について

二つほど教えてください。 一つは、 伊藤博文と山縣有朋が木戸孝允死語に権力争いをしたと読んだのですが、意味がよくワカリマセン。 えっと岩倉使節団伊藤は木戸から大久保に乗り換えてますよね。(実はそれがどうしてなのかも分からないのですが;) で、それなのにどうして木戸が死んだ後にこの二人は何を理由に争ったのでしょうか? 2つは、 井上馨は明治11年時点ではまだ外務卿ではなく『工務卿と共に参議』を兼任していたと思うのですが、それには外務卿井上馨とかかれてまして。 一応Wikiや別のサイトでも調べたのですが詳しく載ってません。 どなたかお教えください。

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  • 6dou_rinne
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回答No.1

1.についてのみですが。 伊藤と山県の対立点のひとつには軍隊を文民が統制するか、政権とは独立して軍人が統制する(天皇に直属する)かということでしょうか。 伊藤は文民でしたが、山県は軍人で軍を勢力基盤としていましたので、文民の指揮下にあることは耐えられませんでしたが、西郷・大久保・木戸などが健在なうちはなかなか思う通りにはいきませんでした。 佐賀の乱の時には大久保が軍隊の指揮権を含む全権をもって現地に派遣されています。 それが西郷が西南戦争で死に、木戸が病死し、大久保が暗殺されると新政府の実力者として残ったのは小粒なものばかりでしたので山県にもチャンスが訪れたわけです。 岩倉使節団で伊藤が木戸から大久保に乗り換えたのは、としてはもともと長州閥のボスである木戸についていたのですが、その頃木戸はちょっとノイローゼ気味で実務にはかかわらず不平不満ばかりだったのに、大久保のほうは国家のビジョンをもっていましたので伊藤としては大久保のほうがいいと思ったのでしょう。

shuri1213
質問者

お礼

いつもありがとうございます。 6dou_rinneさまの回答には本当に助けていただいてばかりで。 この度もありがとうございました。 伊藤と山県の対立の終わりは何時ごろ迎えるのでしょうか?大久保が暗殺されたのが5月14日ですのでそれから結構続いたのですか? それから岩倉使節団に関してですが、伊藤は木戸を嫌っていたというのではなく政治的観点から大久保について、そこで大久保の信頼を得る事に成功し内務卿の後継者にまで至ったと考えてもいいのでしょうか? お時間のあるときにでももし宜しければお教えくださると嬉しいです。

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その他の回答 (1)

  • 6dou_rinne
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回答No.2

2.について 井上馨は明治3年に大蔵大輔になり、岩倉使節団の出発後、留守政府で江藤新平と対立して辞任しました。 そののち2度目の海外留学?したあと、明治11年に帰国すると工部卿となり、外務卿になるのは明治12年9月です。

shuri1213
質問者

お礼

ありがとうございます。 やはり正しかったのですね

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