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幕末~明治にかけ日本が独立を保てたのは、誰の功績によるものですか。

QNo.3685473「ここまで条件が揃っていながら植民地化されなかった史実をどう考えたらよいのか。」http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3685473.html では大変お世話になりました。お蔭様で、ようやく疑問はほぼ解明されました。ただ、実はまだ解けない謎があります。幕末~明治にかけ日本が独立を保てた理由の一つとして、幕府、薩長のリーダー達の資質の高さがあると思われますが、それは具体的に誰であったか、ということです。 大政奉還した徳川慶喜か、江戸城無血開城の会談を行った勝海舟か、西郷隆盛か。それとも大久保利通か。あるいは明治の元勲と言われる伊藤博文、木戸孝允、山県有朋か。もしそうだとすれば、彼らを松下村塾で指導した吉田松陰か、それとも彼に洋学面で多大な影響を与えた佐久間象山か。 司馬遼太郎の『龍馬がゆく』に出て来る所で、勝海舟を切りに行こうとした坂本龍馬が勝海舟の博識な知識を知るに及んで、逆に弟子にして下さいと頼み込む有名な箇所がありますが、そうすると坂本龍馬でしょうか。 少なくともその人物達は、日本国内だけでなく海外の事情にも通じていたことは間違いありません。長期の内乱・消耗戦を避け、さらに列強の餌食(植民地化)となることを避けることが常に念頭にあり、しかもその信念に基づいてそのような政治的判断を下せた人物達とは一体誰でしょうか。 例えばWikipediaの「戊辰戦争」のページに「江戸開城」の項目がありますが、そこには勝・西郷会談の結果の記述が見られるのみで、長期の内乱・消耗戦を避け列強の餌食となることを避けようという内容を二人で話し合っていたという記述はありませんでした。 人物名だけでなく、その人物の思想・理念等を示す言葉をも併せてご紹介下さい。宜しくお願いします。

みんなの回答

  • jayoosan
  • ベストアンサー率28% (929/3259)
回答No.9

すいません。タイトルだけみて書いてしまいましたが、時代がすこしあとだったようです。

  • jayoosan
  • ベストアンサー率28% (929/3259)
回答No.8

#7ですが、誤植がありました。 ×植民地政策という牙を体外的にみせず ○植民地政策という牙を対外的にみせず ×・またちょうどその変革の時期に、アメリカの独立戦争や ○・またちょうどその変革の時期に、アメリカの南北戦争や 長々すいませんでした。

  • jayoosan
  • ベストアンサー率28% (929/3259)
回答No.7

ご質問から大きくはずれていたら、ごめんなさい。 私は明治期からの書物がすきで、また視点も日本からの目線ではなく大陸とのやりとりから見てしまうのですが、ペリーが来たあと明治になっていった日本は、うまく立ち回った反面とてもラッキーだったように見えます。だから独立を保てたと思います。かいつまんで書くと… まずペリーの米国は、日本来航後すぐに南北戦争に突入してしまったこと。また南北戦争の後は、米国もアジアにも目がいっていましたが、国内でイデオロギーの意識改革が国民にも政府にもあったせいか(奴隷制の問題やそれに対して戦った意義は、国民にも知れ渡っていた)、ヨーロッパのように植民地政策という牙を体外的にみせず、ビジネスや投資という形で入ろうとしたように見えます(奴隷を否定しておいて、植民地をやろうとは言えない)。 実際1900年のちょっと手前あたりは、日本のまわりを走る商船(飛行機がない時代なので、いわゆるビジネス流通のための貿易船)はアメリカの船が権利をもっていました。国内の港間の移送と、日本から上海などへの国際路線も含めてアメリカに握られていました。 明治になって1900年代にはいるまで、日本は富国政策とお雇い外国人を入れる方針、また鉄道や欧州技術の大量な輸入など、国が主導しながら半民間の立場をもつくりながら(たとえば三菱など財閥を補助金で育てながら)、いろんな事業体をつくり見事に交渉しつつ、お金も払いながら欧州とよい関係をつくっていっていました。「金を払える」ということは、欧州にとっては「プラス」になる部分でしたので、中国を見る目とは違っていたでしょう。 そして国費(今でいう血税)を、どんどんインフラに注いでいました。のちに、船を大量に買い込み三菱に無償で貸与し、航路を開かせ、アメリカが握っていた路線と価格競争を始めるのですが、荷物がなく三菱が赤字垂れ流しでも国が補助をずっとしつづけ、最終的になんとアメリカの路線を価格で勝ち取ってしまいました。そして国際路線も他国の物資の輸送など、幅広く行うようになりました。 中国への航路が自由になると、今度は需要がまだないのに、中国国内の日本領事館にポストを設置し、いまの国際郵便サービスのきかっけをわざとつくり、領事館をイギリスなど他の外国の郵便物も請負う拠点にし(日本にいる外国人向けの郵便)、さらには郵便為替事業もはじめました(これが中国や日本を行き来する欧州の船やビジネスマンのお金の決済手段になった)。 つまり、中国大陸を「植民地支配」という視点だけからみていると、なぜ日本は攻めなかったのか、でおわってしまいますが、なんと日本のアジアにおけるインフラ投資による日本の発展は、欧州の各国の流通や情報通信を助け、経済的に彼らが大陸に存在することを助けていたのです。実際、中国の港には、ビジネスマンも多くいました。 さらに1800年末にむけたロシアは革命前夜の匂いがしてきており、国内が混乱したり暗殺がおこるなど(ロシア革命の暗殺ではなく、その前にもアレクサンドル2世がテロで殺される)、国内問題にかかりっきりにならざるを得ず、日露戦争では日本にも戦争で負けてしまい没落の道をたどりました。 中国にある満州の東清鉄道の南半分もロシアは日本にゆずりました。このとき日本には鉄道運営をやるお金がなく、ここにアメリカの鉄道王ハリマンが「一緒に開発をしよう」と出資話しを持って歩み寄ってきます。ここでもアメリカの態度は、日本に対してはもう植民地という見方ではありませんでした。(この出資は断りましたが)。 つまり歴史書がよく書くように、 ・1800年代の後半の3~40年くらいの短い期間に、日本が経済的に国力をつけたこと ・日本は政治・経済の面でいろいろな交渉をあきらめずにつづけ、結果として欧州各国に必要なインフラやサービスを提供したこと。 ・またちょうどその変革の時期に、アメリカの独立戦争やロシアも革命の前夜の時代など、2大巨大国の意識が植民地政策から離れたこと などが、結果として独立を保てた要因にみえます。 ある意味、日本はビジネス戦略をもっていて自力であの時代をはい上がったともいえますし、大国がそれどころではなかったことは時代が見方したのでラッキーだったともいえます。 このように日本の志士たちの動きからでなくても、日本がいい時代に西洋化政策を始めていたことがわかります。

se_tutoie
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 #9でのご回答で既にご自身でお気付きになられていると思われますので、あえて申し上げる必要はないと思われます。ただ、明治期における日本経済は教科書などではあまり触れられておらず、大変勉強になりました。このことに関しては改めてお礼を申し上げます。

回答No.6

私は詳しくないので、誰であるのかわかりません。 例えば、勝が登用されてくるためには、そこに多くの人が関わっていると思います。また、上司だけではなく、同僚や部下など勝個人をとってみても、大きな影響を及ぼした人は何人か上げられるのではないでしょうか。 身分の低い者が、国政を左右するようなポストに就くためには、その人物の能力や考え方を見抜いて引き上げる人物が関与する必要があります。そして、これは西郷でも、龍馬でも同じことだと思います。 皆が皆、日本の行く末を案じてということではないかもしれませんが、その中に該当者がいるのではないでしょうか。その人たちの考え方を正確に、より詳しく知るためには、概説的なものではなく、伝記的な書物や研究書などに記載されている参考文献をお読みになるのが良いと思います。 大雑把な回答ですみません。

se_tutoie
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 そうですね、おっしゃる通り伝記的な書物や研究書などに記載されている参考文献にあたってみる方が、大変ではあってもかえって「急がば回れ」で求めている答えに早く行き着くかもしれませんね。

  • mi-dog
  • ベストアンサー率6% (92/1479)
回答No.5

再度です。 黒舟が来た時にいろんないみでの、技術力の差は分かってると思います。 また、イギリス、フランス、オランダなど、東南アジアを植民地にしてることは分かってたと思います。 当時も、幕府、薩摩、長州などそれぞれ、外国に接してたので、いろいろ工作があったと思います。 外国の思惑は知ってたと思います。 早急に近代化をすべきだと思ってたと思います。

se_tutoie
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 要するに、#1で列挙して頂いた人物全員に、今回ご回答頂いた認識があった、ということですね。

回答No.4

政治・外交・経済の局面によってキーとなる人物は異なります。時間的・距離的なものもありますし、その局面でどのポストにあったのかによって、同一人物でも役割は異なってきますね。 私の場合、極力外国との争いを避けていた時期の幕閣や官僚にスポットをあてたいですね。幕末から維新にかけての外交を論じるときに見落としてはならない人物がたくさんいます。 例えば勝ひとりとってみても、勝が世に出てくる人的背景を考えてみてください。いろいろなことが見えてくると思います。

se_tutoie
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >極力外国との争いを避けていた時期の幕閣や官僚にスポットをあてたいですね。幕末から維新にかけての外交を論じるときに見落としてはならない人物がたくさんいます。 おっしゃる通りだと思います。それが誰で、その人物達は何を考えていたのかということをぜひ教えて頂けませんでしょうか。 >例えば勝ひとりとってみても、勝が世に出てくる人的背景を考えてみてください。いろいろなことが見えてくる 本当にそうですね。Wikipediaの「勝海舟」のページ(↓)だけを読んでも、それは言えると思われます。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E6%B5%B7%E8%88%9F#_ref-15 彼が海外の事情に精通していたことは間違いないのですが、肝心の西郷との駿府や江戸での会談の際の彼の発言内容が結局分からず仕舞で、早期停戦と江戸城無血開城を主張した根拠として、日本の独立を守るために長期の内乱・消耗戦を避け列強の餌食となることを防がなければいけないと本当に言ったのかどうか。あるいは言わなくともそう考えていたのかどうか等、いまだ謎に包まれたままです。 日清戦争に反対した、という事実も今回初めて知りました。推測ですが、中国に進出すれば必ず列強と対峙せざるを得なくなり、中国を植民地化することはおろか逆に列強から日本の独立自体を侵されかねないと考えていたのでしょうか。 いずれにせよ大変スケールの大きな人物だったと思われます。

  • miss-you
  • ベストアンサー率33% (10/30)
回答No.3

薩英戦争が起こり、イギリスにぼろ負けして、薩摩、さらには長州藩も 屈服。そして、のちに、坂本龍馬・中岡慎太郎・土方久元の仲介により、 薩摩と長州は手を結び、薩長同盟へ。 そして、イギリスが幕府よりも薩摩、長州の方を支持し、 そして、幕府は崩壊への道へ。 幕府が委託されている政権を朝廷に返還する案および 「船中八策」を坂本龍馬より聞いていた時の藩参政・後藤象二郎は これらを自分の案として容堂に進言した。山内容堂はこれを妙案と考え、 15代将軍・徳川慶喜に建白した。 そして慶喜はこの案を受け入れ、大政奉還を実現。 これらをふまえてみると、明治への道を進めたのは、 薩摩の西郷隆盛、長州の木戸孝允、この二人の仲介をした 坂本龍馬・中岡慎太郎・土方久元、そして、竜馬の案を 山内容堂へ伝えた後藤正二郎、この案を受け入れて、徳川慶喜 に伝えた山内容堂、この意見を受け入れ、大政奉還を行った 徳川慶喜。 この方々が日本を明治へと導いた方々なのではないでしょうか。 そして、明治天皇を中心に明治の偉人達が独立へと導くのです。 明治時代の偉人についてもっと書きたかったのですが、 睡魔に襲われてるため、限界がきました。中途半端で申し訳ありません。 少しでもお役にたてたら、さいわいです。

se_tutoie
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 なるほど、西郷隆盛、木戸孝允、坂本龍馬、中岡慎太郎、土方久元、山内容堂、後藤正二郎、徳川慶喜、というわけですね。 この中で名前を知らなかったか、名前だけ知っていてもどういう人物かをよく知らなかったのが、中岡慎太郎(↓) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B2%A1%E6%85%8E%E5%A4%AA%E9%83%8E 土方久元(楠左衛門・↓) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E6%96%B9%E4%B9%85%E5%85%83 山内容堂(↓) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%86%85%E5%AE%B9%E5%A0%82 後藤正二郎(↓) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E8%B1%A1%E4%BA%8C%E9%83%8E でした。 彼らの理念の中に、日本の独立を守るために長期の内乱・消耗戦を避け列強の餌食となることを避けようという考えがあったのでしょうか。

回答No.2

 私は、政治面では織田信長がもたらした宗教と政治の分離による中世の体制から近代体制への時代変換から始まっていると思います。そして、徳川幕府による武家社会がもたらした軍事国家としての日本に、遠距離からやってきた諸外国の数隻の軍艦では、長期間戦いを維持できなかったこと。さらに、この軍事力を植民地化を防ぐために維持する努力をしたことです。ですから、明治期に限定するなら、やはり西郷さんと勝海舟の談判、それをもたらした徳川の最後の将軍や明治天皇などが、大きな役割を果たしたといえるのではないでしょうか。  さらに、西郷さんの従兄弟は、日露戦争の総司令官大山将軍です。かれは、ロシアによる日本の植民地化を防ぐどころか、朝鮮からロシアを駆逐し、さらに、日本の防衛線を満州まで広げる役割を果たしており、西郷家は、明治の日本を良く支えた家といえます。  もちろん、連合艦隊の名参謀秋山真之と、世界最強のコサック騎兵10万をわずか8000の騎兵隊で迎え撃ち日本軍の窮地を救った秋山将軍の兄弟も明治の日本にとって立派な家と思います。。

se_tutoie
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 なるほど、西郷、勝、徳川慶喜、明治天皇、大山将軍、秋山真之、秋山将軍、ですね。 大山将軍というのは大山巌(↓)のことですね。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E5%B7%8C 彼自身のことよりは、奥さんの捨松の方を山田風太郎の『幻燈辻馬車』や『エドの舞踏会』を読んで知っていました。もちろん大山巌も登場するのですが、どちらかというと捨松にスポットが当てられていましたので、大山巌については今回初めて詳しく知りました。 秋山真之(↓) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E5%B1%B1%E7%9C%9F%E4%B9%8B#.E7.A7.8B.E5.B1.B1.E7.9C.9F.E4.B9.8B.E3.82.92.E9.A1.8C.E6.9D.90.E3.81.A8.E3.81.97.E3.81.9F.E3.83.95.E3.82.A3.E3.82.AF.E3.82.B7.E3.83.A7.E3.83.B3 秋山好古(↓) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E5%B1%B1%E5%A5%BD%E5%8F%A4 についても名前だけ司馬遼太郎の『坂の上の雲』(↓)の主人公であることだけは知っていましたが、実は読んだことがありませんでしたので、今回初めて詳しく知りました。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E3%81%AE%E4%B8%8A%E3%81%AE%E9%9B%B2 彼らの理念の中に、日本の独立を守るために長期の内乱・消耗戦を避け列強の餌食となることを避けようという考えがあったのでしょうか。

  • mi-dog
  • ベストアンサー率6% (92/1479)
回答No.1

いろいろ、先見の明がある人たちがたくさんいたと信じたいですね。 調整役の坂本竜馬。 基礎を作った吉田松陰。 師を慕った、木戸さんたち。 決断した、勝海舟、西郷隆盛たち。 でも、耳にしただけでは、人柄では、西郷さんが好きです。 敬愛天人。 犬と銅像もありますし。 また、情に生き過ぎた、悲しい人生だとも想います。

se_tutoie
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 なるほど、坂本竜馬、吉田松陰、木戸さんたち、勝海舟、西郷隆盛たち、ですね。西郷の「敬天愛人」については言葉としては知っていましたが、その内容については下記のサイトに詳しく書かれていて、実は初めて知りました。 http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/keiten.htm この西郷の理念と、日本の独立を守るために長期の内乱・消耗戦を避け列強の餌食となることを避けようという考えが彼にあったということとがどう結び付いていたのでしょうか。