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日本史
大隈重信と伊藤博文が国会を早期開設をするかしないかで対立していましたが、なぜ国会を早期に開設したいのでしょうか?まだ習ったばかりで教科書にも詳しいことが掲載していないので質問させていただきます。試験も来週なのでお願いいたします。
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質問者が選んだベストアンサー
討幕・明治維新の四藩として、俗に「薩長土肥」といいますが、中心となったのは薩長でした。 新政府も、主に薩長出身者で占められ、西南戦争で薩摩閥が一時衰退した後は、大久保利通の後継者としての伊藤を中心として、井上馨・山県有朋など長州閥が幅を利かせました。 したがって、土佐出身者(板垣、後藤など)や肥前出身者(大隈など)は、政府のなかでも少数勢力でした。 こうした土佐・肥前出身者は、長州・薩摩など大勢力と対抗していくための大義名分として、国民の声=自由民権を旗印にしました。 ですから、板垣や大隈らは、薩長政府を「有司専制」と批判し、国民の声を背景に自らの政治的立場を強するために、早期国会開設を主張しました。 一方、伊藤らは、いずれ国会は開かなければならないが、その国会はあくまで薩長がリーダシップをとって開くべきである、と考えていました。つまり、自分たち(薩長)の足場をしっかり固めて、国会でどのような主帳がなされ政府が批判されようとも、政府は揺らがないように準備しておくべきだと考えたのです。この考えはのちに「超然主義」ということばで表されるようになります。 国会開設をめぐる伊藤と大隈の対立は、政府の多数派(薩長)と少数派(土肥)の勢力争いの延長とみていいでしょう。
お礼
ありがとうございます。試験があったものですぐには返せなかったことをお詫びいたします。大変参考になりました。試験でも、これを読んだら頭に良く入ってきて記述もできたと思います。真にありがとうございます!!!!