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初代内閣総理大臣に伊藤博文が就任したのは。
1885年(明治18年)12月22日、参議の伊藤博文が内閣総理大臣に任命され、第1次伊藤博文内閣が発足しています。 任命したのは明治天皇ですが、これは天皇独自の判断ですか。 それとも誰かが天皇に伊藤博文を推薦とか指名したのですか。 伊藤博文に決まったいきさつを教えてください。 また、この内閣には、公家が一人も入閣していませんが、何らかの理由があるのですか。 思いついた、どうでもよいようなことを質問して申し訳ないですが、よろしくお願いいたします。
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最終的に任命するのは天皇ですが、その前に太政官会議(当時の閣僚)で議論して追認してるだけですよ? 当時の伊藤博文は一人で強烈に明治政府を引っ張る立場で、そこまで強烈に伊藤博文を引き立てたのは岩倉具視です、ただし直前に亡くなっています。 伊藤博文がドイツ(プロイセン)で学んできた立憲君主制が、憲法の下君主があり宮廷と政府が分離してるという形ですので、政府閣僚と宮内大臣・宮中を分離する意味で公家を閣僚に入れなかったのでしょう。 wikipediaにはこんな記述ありますね。 太政大臣に代わる初代内閣総理大臣を決める宮中での会議では、誰もが口をつぐんでいるなか、伊藤の盟友であった井上馨は「これからの総理は赤電報(外国電報)が読めなくてはだめだ」と口火を切り、これに山縣有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成、これには三条を支持する保守派の参議も返す言葉がなくなった。つまり英語力が決め手となって伊藤は初代内閣総理大臣となったのである。以後、伊藤は4度にわたって内閣総理大臣を務めることになる。
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- oska2
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>任命したのは明治天皇ですが、これは天皇独自の判断ですか。 教科書とは反する逸話ですが・・・。 明治天皇は「偽物」との話が、京都から山口まで伝わっています。 (15000人の長州軍に守られての)七卿の都落ちの時に、三条実美が「人質として、裕宮を連れ去った」との逸話が京都に残っています。 国賊・朝敵として「追討令」を、孝明天皇は幕府に命令しました。 幕府が出陣準備を終えて出陣命令を待っていると、「しばし待て」となり追討令は無かった事になりました。 「虚弱体質の息子(裕宮)の命を心配した結果」らしいです。 時は過ぎて・・・。 長州藩は、高杉晋作の「騎兵隊」が有名ですよね。 が、伊藤博文が指揮する「相撲隊」も案外有名なのです。 この隊員の中から、偽物の裕宮を選び明治天皇に据えた!との逸話もあります。 ※何故か、都合よく孝明天皇は突然崩御。(暗殺説もあります) ※孝明天皇から朝敵・国賊扱いされた者は、明治天皇から全て名誉回復。 大人になった裕宮を見た京都の人達は「誰や?あの大男は?」と、噂した様ですね。 虚弱体質で右利きだった裕宮が、左利きの大男に変身していたのですからね。 明治天皇は、何故か「相撲が大好き」だった様です。 話がそれましたが、薩長土肥新政府としては「一日も早く、確固たる政権を」が目標。 天皇の名で政治をするには、天皇が政治に関与しない事が第一なんです。 そこで、倒幕の雄である長州閥では「伊藤博文が中心になって政治を行う」事になりました。 何の記録か忘れましたが「御前会議で明治天皇が口を出すと、博文は天皇に向かって一言。元の身分に戻すぞ!」 以上、教科書とは正反対のお話でした。♪ベンベン♪ まぁ、どこかの国と違って「為政者が都合よく決めた正しい歴史が存在しない、教育の自由がある国」です。 色んな逸話を探す事も、面白いですよ。 >初代内閣総理大臣に伊藤博文が就任したのは。 一般的に通用する回答は、他の回答と同様です。^^;
お礼
ご回答ありがとうございます。 すり替え説を言い出した人は何を企んでいたのか、少し興味はあります。
お礼
ご回答ありがとうございます。 Wiki「伊藤博文」は見ていませんでした。 英語能力が決め手の一つだったという逸話があるのですね。 よく分かりました。 ただ、かなり調べましたが、この逸話の出典が見つかりません。 井上馨か山縣有朋の日記か何かにあるのでしょうね。(これは独り言ですから無視してください)