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古文の助動詞「り」
伊勢物語の「富士の山を見れば、五月のつごもりに、雪いと白う降れり」という文の降れりの「り」は完了・存続のどちらが正しいのでしょうか? 学校の授業では「存続」と習いましたが、予備校の授業では「完了」と習いました。 個人的には「完了」が正しいと思うのですが、どうなんでしょう?
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こんにちは。 予備校では、完了の助動詞「り」と習われたのでは?文法のくくりで、「完了の助動詞『り』存続の意」という言い方をすることがあります。 時期的には旧暦の五月末日ですよねぇ。富士山の頂上でもその時降っているとは思えないので、降った状態が存続しているという意味での存続だと思います。「り」はその時動作が完了したことは余り表しませんが、古い助動詞で、もともといろんな意味を表していて、他の言葉とくっついて「たり」「けり」を作ったと言われています。伊勢の頃にも広範囲な意味で使われていたと想像されます。 完了の助動詞で、存続。意味は、降った雪が残っているという意味でよいのではないでしょうか。 存続といっても、「今降っている」わけではないので、混乱しがちかも。現代語でも、「壁に掛かった絵」の「た」は存続ですが、誰かが掛けている途中って言うわけではないですし。 それにしても、「降る」って言う動詞が昔も今も意味も発音も活用もほとんど変わっていないんだなぁと思ってちょっと感動しました。
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答は「存続」ということで落ち着いたようですが、五月三十一日とか六月一日という言葉が使われていますので、ちょっと一言。この時代には陰暦が使われていたので、三十一日はありません。大の月が三十日、小だと二十九日が月の終わりです。「つごもり」は月末ですが、月光がほとんど無い状態では富士山の頂上の様子は見えないはずです。だから月末の昼間も「つごもり」といったのではないでしょうか。
お礼
そうですね、昔は陰暦なのでその辺も考慮して考えなければならないのですね。有難うございました。
- banzaiA
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「り」は確かに存続と完了の意味があります。 私見ですが、 主体を何に置くのかにより違うのかな?と思います。つまり、 「雪」に主眼をおけば、雪が降り終わった(完了) 山の状態に主眼を置けば、降った雪が残っている(存続) なのだろうと。 いま、本文を読み返すと、『富士の山(の状態)を見れば、』と言っているので、ここは存続がいいのかと思われます。 ちなみに「つごもり」は月末であり、昔の5月と言えば季節では夏真っ盛りの月なので、常識では降雪は考えられない。それなのに富士の山には、雪が白く残っているではないか!という意味なのかと思います。 反面、存続だと今まだ雪が降っているととることもできますが、ここでは当てはまらない解釈だろうと思います。
お礼
当時の季節を創造して判断しなければならないのですね。有難うございました。
- koma1000nin
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状況判断で「完了」に軍配。 "五月のつごもり"といえば五月三十一日の夜でしょう。 夜に雪が見えるわけがなく、六月一日の朝に富士山頂が白くなっているのを見て、「昨夜雪が降ったんだな」(完了)と述べているわけです。 麓から山頂の雪を見て、「今も雪が降っている」(存続)のがわかるとは信じられません。 言葉を機械的に文法にあてはめて判断するのは危険で、そのときの状況も含めて判断すべきです。これこそ国文学ですよ。
お礼
有難うございました。国文学とはすごく奥が深いんですね
- ysk26
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「り」は完了の助動詞として分類されますが、中心になる意味は存続です。 また、「存続」という場合にもニュアンスが二通りあって、 1) 動作が進行中 2) 動作の結果の状態が引き続き残っている とあります。 また、「完了」という場合は文字どおりある動作が完全に終了している場合です。 つまり、「雪降れり」の場合、 存続 1) →雪が今まさに降っている 2) →降った雪が残っている 完了 →雪が降り終わった というようなニュアンスになります。 この文脈では、富士の山を見ると、降りつもった雪が白く見える、というのですから、「存続」としたほうが自然に思えます。
お礼
なるほど、意味から判断するんですね。 ありがとうございました。
補足
今の日本語は古代から脈々と受け継がれているんですね。有難うございました。