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文語文法、過去の助動詞「き」の意味について
過去の助動詞「き」の意味について質問いたします。学校の古文学習では、過去の意味でしか扱いませんが、過去ではなく、現在形で訳すことは不可能なのでしょうか。文脈によっては、現在形で訳したほうが適当に思われることがあり、とりわけ韻文の場合は、現在形のほうが作品が生き生きとすることがあるように感じるのです。 完了の助動詞「たり」「り」も、完了と存続の境が決して明確であるとは限らないと聞きました。ついでながら、日本画では遠近をあいまいに表現することもあり、時制においても、柔軟に扱えるのではないかと考えたのです。どうぞ、ご教示ください。
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- kine-ore
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#3です。 >文法は厳密なルールではない、ということを自分なりに認識しました。 : 早急なご判断は少しお待ちください。 「日本語が時制にあいまいだ」などということは断じてありません。 過去と現在形といった発話時を基準にした単純なテンス意識だけでこの課題は解けません。 これはむしろ動詞述語に特有の時間的展開の違いに関わるアスペクトの問題でもあるからです。 このアスペクトの観点を欠落した論議では空転します。 それはそもそも、動詞自体が実に多様な特性を体しているからでもあります。 金田一春彦「日本語 下」の(岩波新書)を例にその分類法のいくつかを上げてみます。 1)単純動詞と複合動詞 2)自動詞と他動詞─所動詞と能動詞 3)状態動詞、継続動作動詞、瞬間動作動詞、属性所有動詞 どうかせめて同書の「5章 文法から見た日本語(一)」だけでも手に取られてみてはいかがでしょう。
- kine-ore
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#2です。 >また、以下の参考資料も拾いましたので、関心がおありでしたらご一読ください。 : これはご紹介した大野秋田「助動詞「し」の完了の用法」の末尾にも「宮地の二冊は、…。「し」を攻撃した老歌人の逸話が面白い。完了「し」がどのように認識されていたかがよくわかる論考である。」と触れています。 この「万葉集 第5-802」については次のように捉えてはいかがでしょう。 この原文の万葉仮名「枳多利斯物能曾」は「来(き)たりしものそ」と読んで、来(き)(自動詞「来(く)」の連用形)+たり(完了の助動詞「たり」の連用形)+し(体験していいない出来事に用いられた想念強調の助動詞「き」の連体形)+もの(対象を漠然と指す名詞「もの」)+そ(疑問の終助詞「ぞ」の清音表記) ここからして、「来(き)至(いた)る」由来の動詞「来(きた)る」とみた場合は、後接する助動詞「し」が単純過去と見ただけでは本旨が分かり難くなる道理です。しかし上のように分解するならば完了の「たり」が含まれているので回想由来の強調の「し」と読み取ることができます。 およそ、一般に和文では「来(く)」であって、「来(きた)る」は主として漢文訓読文用なのですが、ただし季節の到来など一部の用法に関しては「春過ぎて夏来(きた)るらし(来良乃)」(万葉集1-28)のように漢語調「来(きたる)」が用いられているものです。 そもそも文藝的表現においては、その分かり易さや曖昧さなどの伝達性の優劣はあったにせよ、頭ごなしに文法的な間違いと断じる主張は行き過ぎでしょう。だからと言って文法を任意に直して合わせようとする手法にもまた疑問を覚えます。大切なのは何より語感なのですから。 芭蕉の句を「佐渡によこたふ→佐渡に横たはる」だとか、「蛙飛こむ水のをと→水のおと」、あるいは「あらたうと→あらたふと」などと糺したところで、その先になにが残るというのでしょう。
- kine-ore
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確かに過去の事実や自分の経験した事実の回想を確定的に表すだけではない場合も考えられます。 「き 《助動詞》(4)後世では、「為忠集」の「我がそのの咲きし桜を見渡せば」のように、現在また完了(…ている)の意に用いられた例もみられる」(「国語大辞典」小学館) こちらのURLなどいかがでしょう。 大野秋田「助動詞「し」の完了の用法」─週刊俳句─ http://weekly-haiku.blogspot.jp/2011/11/blog-post.html
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たいへん参考になる資料をお示しくださいまして、ありがとうございます。興味深く読み進めております。 また、以下の参考資料も拾いましたので、関心がおありでしたらご一読ください。 http://www.shin-araragi.jp/zakki_bn/bn_09/zakki0910.htm
- banzaiA
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>文脈によっては、現在形で訳したほうが適当に思われることがあり、とりわけ韻文の場合は、現在形のほうが作品が生き生きとすることがあるように 感じるのは、 例えば、どんなものですか。 例文を少しあげて下さい。
補足
斎藤茂吉の短歌を読み進めていく上で、疑問に思ったのがきっかけです。一つの例として、以下の短歌をお示しいたします。 http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8552882.html
補足
たびたびのご回答をくださり、ありがとうございます。そうですね、記載を見落としていました。文法について不勉強なので、なかなかすっきりと理解しきれていないのですが、文法は厳密なルールではない、ということを自分なりに認識しました。「けり」が詠嘆の意味をもつように、「き」にも、過去の意味という枠に収められない可能性があるのではないかという問いを拾いました。今後も勉強を続けてみます。どうもありがとうございました。