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意欲の根源にあるもの
私は哲学分野の教育を受けたことのない者ですが、表題のような事を常に考える癖があります。それは、長い人生を生きる道しるべのようなものを求めているからかもしれません。人の考えは往々にして変わるものですので、あぁ、あの時こうすれば良かったなどと思い出しながら生きていくのは決して悪いことではなく、むしろ当然かもしれません。それでも、私は何か筋の通った考え方に従って物事を選択していきたいと思っています。このような考え方を皆様はされますでしょうか? 2つ目の質問として(本題ですが)、私は幼少の頃からたびたび何かに突き動かされるような「衝動」にも似た意欲を感じることがありました。今思うと、それはとても幸せな感情だと思います。きっかけは音楽であったり、視覚的に美しいものであったり、初恋であったりしました。近年では、理論的に美しいものに感動し、興味が湧きました。しかし最近、生活環境が変わったせいか、そのような衝動を感じることがなくなり、世界への興味、好奇心が嘘のように消えてしまいました。以前よりも外界からの刺激が減ったせいかもしれませんが、これまで自分を突き動かしてきた衝動にも似た「意欲」という支えを失ったようで、とても悲しく、人生を楽しめない自分がいます。心療内科にも行きましたが、うつ病というほどではないようです。そこで、意欲を生み出す心の仕組み、意欲的になるためにはどうすればいいかなど、お話をお聞かせ下さい。 ちなみに他の質問者様への回答に「知・情・意」という考え方があり、大変参考になりました。 >海の底あるいは鉱脈のような知の力や感性の豊かな波紋とのつりあいがとれてこそ‥‥< カテゴリーに相応しくない内容も含み申し訳ありませんが、どのような意見もお待ちしております。
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>私は何か筋の通った考え方に従って物事を選択していきたいと思っています。 人生は瞬間瞬間が選択の連続だという認識があります。主体性を発揮するとは 常に選択を意識して行うことだと思います。 しかし自分自身、無造作に選択しながら生きている部分が8割以上あります。 重要な選択においてのみ主体性と統一性のある選択ができたらいいのだという 考えもありますが、すべての瞬間において一貫した方向性のある選択を行って いけたらそれは理想的だと思います。 筋が通ったというのは、論理的一貫性という意味と、統一性という意味があると 思います。 石垣を積み重ねるような構築的な一貫性と、ジグソーパズルがくみあがるような 自由な集積的な統一性とは多少趣がことなるのではないでしょうか。 具体的にいえば、善人として生きる・・などというのは一貫性だろうし、ミュージシャン として生きるというのは、結果的な統一性というような感じです。 >このような考え方を皆様はされますでしょうか? 夢・・・というのがそれに近い感じがします。 いつでも、夢に向かって生きている・・・極めてロマンチックな表現でしょうが、夢が 具体的であればそれが統一的あるいは一貫性のある選択を誘導するような気が します。 企業では、ミッション・ビジョンというものを掲げて、それを具体的な行動規範まで ブレークダウンしますが、個人でも自分の生きがいや、生きる使命のようなものを 感じていたほうが迷走しないで生きられます。 私は個人的には、一貫性というより統一性のある「自分らしさ」という選択を心がけ ています。 >私は幼少の頃からたびたび何かに突き動かされるような「衝動」にも似た意欲を感じる >ことがありました。 うらやましいですね。それこそがご自身のミッション・・生きがいに繋がるものでしょう。 >きっかけは音楽であったり、視覚的に美しいものであったり、初恋であったりしました。 カタルシス、つまり魂の浄化という感覚にも近いですね。 「佳人、我等を牽きて往かしむ」 つまり美人は男をやる気にさせるとは、古来から言われてきたことばです。 芸術の感動も、何か心のそこにあるものが奮い立たせる感動がありますね。 若い頃読んだ本もいつも何か、ぼくたちはここにこうしていたらいけないというような 焦りににもにた情動を突き動かしたものです。 >しかし最近、生活環境が変わったせいか、そのような衝動を感じることがなくなり、 >世界への興味、好奇心が嘘のように消えてしまいました。 老化というものも広義にとらえたらそういう種類のものかもしれません。 好奇心や感動に近いところには、欲望があります。 美味しいものを食べて感動する 幸福感を味わう これは生命が希求するものが充足された安堵感ではありますが 心の充足、生きがい、生きる喜びのようなものは、経験値が増えれば 増えるだけ感動は損なわれていくのでしょう。 はじめて、女性を抱いて、一体になったときの幸福で甘い官能の感動は いまはなかなか追体験しづらいかもしれません。 >以前よりも外界からの刺激が減ったせいかもしれませんが、 というより私の場合神経が図太く鈍感になってきているのかもしれません。 >これまで自分を突き動かしてきた衝動にも似た「意欲」という支えを失ったようで、 生きる意欲というのは、ある意味子供っぽい純真さや、好奇心というものと不可分だと わたしは思います。 >そこで、意欲を生み出す心の仕組み、意欲的になるためにはどうすればいいかなど、 モチベーションを高めていくためには、目的と価値を明確にすることでしょう。 音楽のカタルシスや恋愛の感動は、いわば受動的な感動であって、自ら希求したもの ではなかったかもしれません。 心のうちに、ならいたい自分、得たい物、手に入れたい何かを思いつくだけならべて みることです。 できたら紙に書き出してみます。 私は〇〇です。 というステートメントを20以上書き出す。 私は、書くことが好きです。 私はビジネスマンです 私は企画屋です 私はゴルフの初心者です ・・・・・ そう書いていくうちに、自分が何をめざしてなにをもって「統一的に」選択して生きてきたか あるいは、一貫性とはいえないまでも、連なる何かが見えてきたりします。 知・情・意 という観点では、まず知ることです。自分自身のことを知って気づく 情は、そのことをどう感じるか。 それのステートメントを読み上げて、どう自分が感じるかです 知らないと好きになれません、好きになったらやってみたいとおもう それが意欲というものでしょう。 自分の人生も自分の内なる欲求を知り、自分自身を好きになって、生きる意欲が高まるのでは ないでしょうか。
- ruehas
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こんにちは。 (長いので暇なときにお読み下さい)。 意欲の根源にあるものといったら、やはり「欲求」ではないでしょうか。「意欲」が産み出されるためには、まず「欲求」が発生しなければなりません。そして、更に突き詰めるならば、それは「感情」だと思います。順番に並べますと、「意欲を産み出すメカニズム」とは以下のようなものになると思います。 内外感覚の知覚 価値判断 感情の発生 欲求の発生 行動の選択 実現による報酬 体内感覚の知覚とは、「お腹が空いた」とか「Hがしたい」とかいった深層的な意識の知覚です。体外感覚は言うまでもなく、目や耳から得られる外界の情報ですね。例えば、そこに美味しそうなお菓子があるとか、目の前に素敵な異性が現れたとかいった本能的な反応から、咽から手が出るような新型モデルのカタログを見てしまったとか、友達がパチンコで大勝ちをした噂など、より人間臭いものまで様々です。このような刺激を知覚することによって、我々の心の中には「感情」が発生し、それに伴い「欲求」が定まります。そして、それらの発現に関与しているのが「価値観」です。 「価値判断」というのは2番目に書いてありますが、これは感情・欲求の発生から、行動の選択、報酬の満足度まで一連に関わるものです。この価値判断の基準となるものが現在自分の持っている「価値観」ですね。価値観には、食欲や性欲に伴う本能的・先天的な反応と、「個人的価値観」や、この社会の「文化的価値観」など、生後の生活環境によって培われた後天的なものがあり、前者は不変であり、後者は可変です。 さて、行動を実行に移し、欲求が実現しますと満足感が得られます。これは、大脳の「報酬系神経回路」に分泌されるドーパミンの作用と考えられています。また、人間は行動の結果を事前に予測するという高度な能力を持っていますので、目標が達成されるまでの間、我々はそれによって報酬に対する期待感というものを維持することができます。ですから、実際に欲求が実現されていなくとも、行動の段階でドーパミンは分泌され、満足感・幸福感が得られます。このようなものを「充実感」というのではないでしょうか。そして、それが「意欲の牽引力」になるのだと思います。 意欲というのはこのように発生し、継続されます。では、このようなプロセスのうち、生理的なものを除いた上で、意欲に関わる可変的な要素とはいったい何でしょうか。自分自身の手でその量を変化させることが可能であるならば、我々はそれによって意欲の形成に働き掛けることがきるはずです。 上記の要素のうち、価値観の後天的な部分は外的・内的要因によって変化します。生まれながらにして持っている本能的判断や反応ではなく、我々が生後の体験・学習によって獲得した個人的・文化的な価値観の方ですね。 このような価値観には決まりというものがなく相対的で、それは年齢や経験、環境によって知らず知らずのうちに変化します。価値観が変われば興味の対象も変わりますから、それが意欲に関わるものであることは間違いありません。ですから、我々はしばしば、それを感受性の変化、もしくは、意欲の減退とまで感じ取ることがあります。ですが、多かれ少なかれ、こんなことは誰もが経験することですよね。 子供の頃は、夜に眠れないほどあれが欲しかった。若い頃はあんな恋に熱中した。年齢を重ねて過去を振り返ってみるならば、時々の価値観に捕らわれる自分というものの変わり様に、容易には受け入れ難い実感を例外なく体験します。ですから、幾ら何でも今の自分にはもうあんな情熱はないだろうといった程度であるならば、それは決して特別なことではありません。 では、我々はその情熱を取り戻すことができるのかといえば、それは中々難しい相談ですよね。年齢や環境が変わったのであるならば、我々はその分、どうしても経験や学習を積んでしまっているのですから、そのときと同じ価値観でものを見ることはできません。 ただ、今現在でも我々は何らかの価値観を持っていますよね。そして、それが欲求を決定するのだというのも事実です。もちろん、ひとたび価値観を持ってしまったならば、我々はそれに対して不利益な選択をすることはできません。ですから、それに興味が持てないというのが残念ながら現在の結果であるならば、それそのものを変更することはどうやってもできないわけです。 ですが、後天的な価値観というのは可変ですので、価値観そのものを持ち替えることは幾らでも可能です。価値観を変えるならば、それによって結果も変更することができますよね。そして、価値観というのは知識や経験によってその枠を広げることができます。新たな価値観を獲得するならば、そこに興味や欲求が開拓され、意欲を創出することができるということになります。 上記のプロセスでは、「感情の発生」が最も上位にあります。ですから、この感情が発生しなかったり、発生しても抑制されてしまうのであれば、以下のプロセスが上手くゆかなくなります。 感情というのは感覚刺激に対する脳の反応ですから、刺激がある限り必ず発生します。これが行動選択を実現し、意欲というものを産み出しています。ですから、刺激が少ないなどといった環境の問題を除くならば、意欲の発現に関わるのは、あとは自分自身に発生した感情の取扱い方ということになります。 我々は感情を取り扱うときに理性というものを用います。これは、感情が意思に反する脳の反応であり、それに対して優位に作用できるのが唯一理性であるからですね。 理性といいますと、やや抽象的になってしまいますが、意欲というのは目標達成ですから、ここではそれに関する幾つかの役割が挙げられます。 理性とは、感情を抑制するものであるというのが最も一般的な捕らえられ方ですが、何よりも、発生した感情を認知するというのがまず最初の仕事になります。感情が発生し、それが認識できなければ、理性は抑制も抵抗もできませんよね。このようなことから、脳内では、常に理性よりも感情の方が先に発生するようになっています。従って、理性は感情よりも優位であり、それを抑制することができるのは事実なのですが、感情の発生そのものを拒否することはできません。 そして、理性は感情を抑制するだけではなく、適切な行動選択や報酬の評価など、感情によって発生した欲求を効率良く実現するという、たいへんポジティブな役割も担っています。つまり理性とは、感情の抑制と欲求の実現という、使われ方しだいで全く正反対の結果を産み出してしまうわけです。 これは極端な例ですが、感情というものを一切持てなくなってしまった精神病の患者さんの話なんですが、このひとは行動の選択はおろか、単純な日常のあらゆる判断がすっかりできなくなってしまったんだそうです。例えば、何処へ出掛ければ良いのか、どのネクタイを締めたら良いのかさえも分らないんです。理性を失ったのではありません。感情がなくなってしまったんです。気の毒なことにこの患者さん、その後事業に失敗して破産してしまったそうです。 このようなことから、人間に限らず、感情とはあらゆる動物の行動の動機であると考えられています。感情を抑制し、理性的な行動だけを選択できるならば、どうしてもそちらの方がより人類的のような気もしてしまいます。ですが、やはり我々人間も動物である以上、理性があっても、感情がなければ何ひとつの行動も産み出すことはできないわけです。 質問者さんは、常に筋道の通った考え方で行動を選択したいと仰いますが、このような、感情に伴う行動のメカニズムというのは、それとは全く性質が違いますよね。ですが、実際にはそれが全てなんです。感情とはあらゆる行動の出発点であり、全ての動機です。それが証拠に、感情が発生しなければ理性も働きません。 とはいえ、ただ自分の感情を発散させるだけでは、我々の社会ではどんな目に合わされる分りませんよね。ですから、人間にはそのために理性があるのだというのは全く間違いではありません。ですが、言ってしまえば全てが感情行動なのですから、闇雲にそれを否定することはできません。そんなことをしたら、意欲などは何処を探しても見付からなくなってしまいます。 先に申し上げた通り、理性にはそれを抑制するだけではなく、感情行動を効率良く実現するという機能が備わっています。報酬という結果を予測し、脳内にドーパミンを分泌させるなんてのは、感情をコントロールする人間の理性のたいへん高度な機能ですよね。そのようなものを上手く使いこなしてやるならば、心の中に感情というものを正しく育み、何恥じることなく意欲を導き出すことができるのではないかと思います。但し、報酬に対する期待が大き過ぎますと、ホリエモンのようになりますので注意が必要です。 何時ものことですが、たいへん長くなってしまいました、ゴメンなさい。
お礼
貴重なお時間を私の回答にさいて下さいまして、ありがとうございます。大変興味深く拝見しました。長文といいますと、往々にして単調で軽薄なものも見られますが、ruehas様をはじめ皆様のご回答には参考になる部分が非常に多く感謝しています。 >感情の発生そのものを拒否することはできません なるほど確かにそうですね。これは良い点でもあり、悪い点でもありますね。それは、人間の宿命というか、性質ですね。これは、どんな人にも言えること だと思いますので、刺激しだいで自分にも感情が生まれるということを思うと安心します。感情そのものは自然発生的でそこには打算も計略もなく、まさに「どうしても生まれてくるもの」だとするなら、それはそれで美しいものである気がしてきました。他人への憎悪のような厄介な感情は困りますが、感情の根源にある無垢な部分は(それは無意識に近く、源泉は自覚できないかもしれませんが)、老若男女万人に共通なある意味美しいもの(良くも悪くも人間的なもの)である気がします。 非常に抽象的な問答となってしまいますが、感情は刺激によって自然に出現するのだということを再確認できた意義は大きかったです。その刺激が自分にとって快い感情を生み、そして意欲や情熱を引き出すことを願っています。結果的にそうならないかもしれませんが、刺激を恐れない姿勢も大事ですね。世の中悪人だけではないんですから‥笑。 蛇足ですが、私を支えてきた向学心のきっかけは、高校で習ったアミノ酸の3塩基指定(コドン)という生物の仕組みです。20個のアミノ酸を指定するのに必要十分な3塩基指定は私に深い感動を与えました。あれからずいぶんたって、私の情熱はどこへいったのでしょう‥笑泣。 ありがとうございました。
- Syo-ya
- ベストアンサー率31% (558/1780)
>>このような考え方を皆様はされますでしょうか? 上座部仏教(テーラワーダ)を勉強してから、そのように考えるようになりました。 「原因と結果の法則」ジェームズアレンはお勧めの本です。 この世は混沌ではなく、秩序に従って動いているということです。 原因があって結果がある、縁起、因果です。 偶然は無いということです。 たとえば、この30分間の自分の行動を振り返ってみると、100%、想ったとおりの行動をしてるはずです。逆にいうと、想わなかったことは絶対に行動に移していないハズです。 私たちは、自分で想ったとおりの人間に成っているんです。 つまり「心」が原因になっているんですから、心を変えれば、結果も変わるんです。 そうすれば、私たちは成りたい自分に成ることが出来るんです。 筋肉も鍛えれば、そのリクエストに応えて発達するように出来ているんです。 逆に使わなければ、そのリクエストに応えて衰弱するように出来ているんです。 原因があって結果がある、そして、それは「心」に従っているんです。 とても筋のとおった美しい理論だと想います。 子供のころは、まだ心に「概念」が少ないので、いろいろなことに感動できるんです。 感動というは心が動かされることです。 そうすると、そこに「志(信念)」というものが生まれます。 ここらへんの話は<「志」が見つかる本 / 轡田隆史著>を推薦します。 図書館にどうぞ。 ところが大人になって経験が増えていくと概念が多くなってしまうんです。 たとえば「人差し指を切り取ってください」と言われたとします。 人差し指をよくみると、実際には皮膚は全身に繋がっているし、神経も、血管も、骨も・・・全部、繋がっていて「ここからここまでが人差し指だ」と言い切れる境界線は無いんです。 つまり「人差し指」というのは仮称であって、どこを探しても「人差し指」という<実体>は無いんです。 「日本」もそうです。 全国を歩き回ったって「日本」という実体はどこにもありません。 海底から突出している部分に勝手に名前を付けているだけです。 でも、大人になって経験が増えていくと「これが人差し指だ」「日本だ」と、常識という名の、ガチガチの概念が出来上がってしまうんです。 思考停止で「そこに実体がある!」と思い込んでしまうんです。 そうすると、そこに執着が出来て、動けなくなってしまうんです。 「俺は偏差値が低いから・・・」とか「背が低いからもてない・・」と、心から柔軟性、しなやかさが無くなってしまうんです。 思いつめた、頑なな心に出来上がってしまうんです。 上にも書いたとおり、動かない筋肉は衰弱します。 「心」も一緒で、動かない心は、動けなくなっていくんです。 「動かない(動けない)」ということは、自然界では「死」を意味するんです。 変化を嫌うもの、停滞するものは、死を意味するんです。 これを質問者さまに置き換えると、執着する心が原因となって、心が停滞して、感動が失われているという結果に現れていると想うんです。 本当は、すべては「水に映る月」なんです。 あるようでないんです。 ローソクの炎を観ていると判りますが、あれも、常に下から上へと流れているんです。 固定した「ローソクの炎」という実体はどこにもないんです。 すべてが、流れている連続した一瞬なんです。 連続した瞬間、瞬間にすぎないんです。 それが映画のフィルムのように、そこに実体らしきものを映し出してしまうんです。 で、そこに気づかないから、執着が生まれてしまうんです。(不自由) だから仏教では「無執着」とか言うんです。 で、これらをありのままに観れるようにしてしまおう、悟ってしまおうというのが「座禅」であったり、「ヴィパッサナー瞑想」であるんです。 つまり机上の空論ではなく、本当にありのままがありのままに観れるようにしてしまうのが、本来の仏教なんです。 そうすると心に執着がなくなってきますから、心が(自由)になってくるんです。 ヴィパッサナー瞑想というのは「気づきの瞑想」と言われていて、単純に「気づく」ということをします。 気づくと迷いから覚めます。 迷いから覚めると、興奮から覚めます。 興奮から冷めると、楽になってくるんです。 そうすると、自由になってくるんです。 (自由とは無法地帯という意味ではなく、自らに由って生きるという意味です) つまり、本来の仏教というのは平気で生きられるようになるための教えなんです。 そうすると、しなやかな志が生まれてきて、意欲的になってくると想います。 無心、無一物無尽蔵・・・という境地になってくるんです。 「心理療法としての仏教:安藤 治 (著)」もお勧めです。
お礼
非常に長いご回答ありがとうございました。 この回答に要した時間を考えるだけでも、回答者様の誠意のようなものを感じることができました。 私も仏教には興味がありますが、実践を重んじるとはいえ宗教的側面もあるように感じました。科学など西洋主義的な価値観にどっぷり浸かってしまったせいか、どうもこういった分野は苦手になっていますが、それは私の思い違いかもしれません。参考にさせていただきます。
- kaitaradou
- ベストアンサー率8% (102/1147)
No2.kaiataradouです。一日の朝や昼ごろまではあまり一日が有限とは思いません。しかし午後遅く夕方近くになるといやでも一日に終わりがあることを感じます。夕方を朝と思うことは難しいのですが、夕方には夕方の雰囲気があります。夕方を朝に変えることは明日を信じる以外には不可能です。案外夕方を粗末にして明日に賭けるというような心理も潜在しているのではないでしょうか。
お礼
ご回答に深遠な意味がありそうです。ありがとうございます。 >案外夕方を粗末にして明日に賭けるというような心理も潜在しているのではないでしょうか 常に最善という完璧主義を目指さなくても、明日があるじゃないかという楽観も大事ということでしょうか。そう考えますと気が楽になってきました。感謝です。
- kaitaradou
- ベストアンサー率8% (102/1147)
人間が有限の存在であるということに対する考え方次第ではないでしょうか。有限の存在を何らかの形で忘れる以外には方法がない様に思います。忘れるというのはごまかすこととは違うと思います。自分の有限性ははっきりわかったが、それに対する対策が立たないというのは、むしろ普通の人の状況ではないかと思います。
お礼
ご回答感謝します。 私の理解力不足かと思いますが、高尚なご回答ながら文意をつかみ損ねています。人間の不安は、その有限性に由来するのだから、それを忘れればいい。しかし、普通はそれができないという事でしたでしょうか。ありがとうございました。
- vagabond_0710
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道しるべですか。それは信仰?信念?プライド? 進むべき道を見失ったと理解しました。 衝動ですか。インスピレーション? >近年では、理論的に美しいものに感動し、興味が湧きました なんだろう?僕も興味持ちました。その理論を教えていただけませんか? >意欲を生み出す心の仕組み、意欲的になるためにはどうすればいいか 「きっかけは音楽であったり、視覚的に美しいものであったり、初恋であったりしました」はどうでしょうか?初恋は一度きりなので無理だとしても、新しい恋との出会いがあれば、意欲が出てくるかもしれません。音楽や、視覚的に美しいものは、今でも身の周りにありませんか?ないのなら、それらを探す旅に出てみてはどうでしょうか? 僕は、人生とは、自分が望んでいるものを盲目的に探し続けているのだと思っています。人との出会い、本との出会い、映画や音楽やアートとの出会い、それらの出会いは、僕の人生に大きな感動を与えてくれました。それらは、見失った僕自身を救ってくれました。 死活問題に直面したときは、生きることに意欲的でした。そのとき思ったことは、恵まれて幸せになればなるほど、幸せを見失って不幸せになるんだと思いました。死活問題で命がかかっているときは、不幸かもしれませんが生きてる実感を強烈に感じました。それは僕にとって幸せでした。 僕の人生から学びえたことを書いてみました。何かひとつでも参考になれば幸いです。
お礼
ご回答感謝します。 具体的なご自身の経験として参考にさせていただきます。 >理論を教えていただけませんか? 私の質問からはそれますが、回答者様の質問にお答えします。以下私の独断ですが‥理論的に美しいものは無数にあります。私は学生として生物分野におりますが、恐らく物理学者には物理の、数学者には数学の美しい理論がおありでしょう。私の場合は固い専門用語を抜きにして申しますと、生物が長い歴史の中で取捨選択した生きる知恵が美しいということにでもなりましょうか。外見、構造、機能、すべてが美しく、今も進化しようとしています。 どのようなご回答でも感謝しますが、精神医学、心理学分野で表題のようなテーマにお詳しい方のご意見お待ちしてします。
お礼
お礼が遅くなりすいませんでした。長文感謝です。 >これは生命が希求するものが充足された安堵感ではありますが心の充足、生きがい、生きる喜びのようなものは、経験値が増えれば増えるだけ感動は損なわれていくのでしょう。 確かに長く生きるほど一日が短く、時間の経過を実感する間もないほどです。同じ一日、一年でも十代までとは異なるという感覚は、万人に共通のものでしょうか‥。しかし私の理想ー素敵だと思う人間の姿は、どんなに偉くなっても、また老いても世界への興味を失わず、目を輝かせて生きる姿です。時に子供みたいにはしゃぐ大人でいたいです。私はそんなみずみずしい人生を送ることが理想です。 ご回答の内容からはそれますが、ごく最近再び意欲のような衝動がよみがえってきました。昨年ほどではありませんが、活字中毒といいますか、あらゆる文献(理論的に筋の通ったもの限定ですが)を読むという衝動が復活しました。なにがきっかけなのか全く分かりませんが、いきなり専門書を読み始めています。不思議なものですね。人生に幸あれ