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日本資本主義の形成においての産業資本について
1868年~1890年にかけての日本主義形成における、産業資本の定義、地租改正や秩禄処分の歴史的意義を教えてください。 ここで産業資本についてを論ずることが大事だと思いますが、いまいち理解できていません。 また産業資本がどういういきさつでファクターになるのでしょうか。 よろしくお願いいたします。
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- gonzokun
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質問に対し合っているかどうか不安なのですが 可能な限りお答えします。 68年というと戊辰戦争勃発そして明治時代へという一元一世が決まったという時代であり 本格的な国造りがスタートしたといえる時代です。 江戸までのシステムである米中心の経済が世界を相手にした際 太刀打ちできないため 貨幣経済の更なる浸透と育成が求められました。 しかし貨幣経済は単純な話、貨幣が無くてはならず 貨幣を生むための社会構造が必要とされます。 その貨幣を生むために急がれたのが資本主義を中心とした 産業資本構造といえるでしょう。 当時の国内産業は江戸時代から続く生糸産業が大きく 海外からの受注も大きかったことから生糸などの輸出を重視し それに関する産業を中心に産業発展が進められていきました。 富岡製糸工場のような官営機関が作られ、生糸を横浜港に輸送するために 現在のJR横浜から八王子間の線路が早期のうちに完成させられました。 つまりこの時期は生糸を中心とした軽工業中心の産業育成がされていたのです。 これらが重工業中心になったのは日清戦争前後であり 1894年以降となります。 ただこの時期において注目せねばならなかったのは 産業が現在と比べて規模が小さかったものの 地方にも数多く存在していたという点です。 しかし重工業化が進み 大量の労働者の確保と発展した港湾・都市機能の必要性から 四大工業地帯に代表されるような大都市に集中し 現在問題視されている地方の衰退、都市部の一極集中化の一端を担う事となってしまいました。 次に地租改正ですが、これも貨幣経済の浸透が大きいです。 明治政府は収入源確保に急いでいたために従来の米では換金しにくい事から 金納(貨幣)制にしたのです。 結果的に政府には不作でも土地を基準としているため 一定額の収入源が確保される事となりました。 そして、秩禄とは武士に払われる給料なのですが 四民平等と武士という存在意義が薄れた事と 戦うのが仕事だったのに徴兵制が施行された事で更に武士の意義を失いました。 そのため明治になっていても支給していた給与制度を見直し、廃止にするということになり 打ち出されたのが秩禄処分なのです。 こんな感じでどうでしょうか?