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排他的でない宗教はないのか?

私は、キリスト教とか、仏教とか、イスラム教とかの特定の宗教については、勉強する前に違和感を感じてしまいます。その一方で、私は、この世には神の作用が働いていると考える方が自然だとも感じています。このギャップがなぜ発生するのかというと、特定の宗教の場合は、どの宗教もローカル色が濃厚であり、他の宗教を認めていないことです。神の働きが特定の地域や人種、文化に偏って働くというのは、私の感じる神の働きとは違うものだからです。他の宗教をも包容し全人類に共通の宗教というのは存在不能なのでしょうか?例えば、宗教の国連のようなものは不可能でしょうか(ちょっと、例が悪いかも)?

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  • pastorius
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回答No.5

ぼくの偏見です。 宗教というものは、神学とは違って「教え」であって、それは世界観であり社会観であるのだから、構造的に排他的にならざるを得ないと思うのです。神様を頂き、神様の名を以って教えを語る以上、「わからない」ということは許されません。間違っていることも許されません。 もし宗教が間違っている場合には、それは伝道者の間違いなどでなければならず、神様が間違えるということは許されない。 しかし、神学や宗教学であれば、それは神様や宗教について、人間が研究することなのだから「わからない」が許されます。 構造的に排他的であらざるを得ない。というのが、ぼくの宗教に対する考えです。 日本のような、多神教で様々な宗教の混同を認めてしまう国の方が、おそらく異常だと思います。それでも世界観が崩壊しないのは、日本という島国にあって、宗教に頼らなくても根底の部分で人々のコンセンサスが得られるという特殊な環境のお陰ではないかと思っています。 イエスとマホメットでさえ現実社会では止揚されないのだから、釈迦やクリシュナやアマテラスを含めて止揚するのは、ほとんど不可能では無いでしょうか。ちょっと想像できません。 ぼくは宗教的に世界が統一される必要は無いと思っています。世界観には、多用性があってくれた方が、いいと思う。

kobarero
質問者

お礼

「構造的に排他的にならざるを得ない」というのは、面白い考えですね。「また、世界観には、多用性があってくれた方が、いいと思う。」については、確かにその通りだと思います。できれば、ただ一点「殺し合うのはやめよう」ということだけは全宗派統一してくれるとありがたいです。 ご回答ありがとうございました。

その他の回答 (7)

  • nacam
  • ベストアンサー率36% (1238/3398)
回答No.8

チョット内容が異なりますが、「バハイ教」という宗教が、それに近いです。 元々は、イスラム教シーア派からの分派の一神教ですが、地球上の主だった宗教の神々は、全て同一の神が、地域や民族ごとに、預言者を遣わし、広めたものだと考えています。 ユダヤ、キリスト、イスラムは当然の事として、さらに仏教、ヒンズーなども、同一の神を戴く同じ宗教と認識しています。 そのため、バハイ教では、色々な宗教の聖典を読み、各宗教を尊重して抗争を禁止しています。 実際の活動は、宗教活動よりも、国連指定のNGOとしての福祉活動が中心となっています。

kobarero
質問者

お礼

人類自体も元々はアフリカの1箇所から出たと言う説が有力になっているようですから、神様も元は一つという考えも、もう少し人類学の研究が進めば受け入れられるかも知れませんね。 ご回答ありがとうございました。

  • pyon1956
  • ベストアンサー率35% (484/1350)
回答No.7

>全人類に共通の宗教 そんなものを作れないとは思うが、作ろうという動きが世界一般に広がったら、私はそれと戦います。 冗談ではない。 そんなものを勝手に決められるなんて迷惑です。 どんな神様(や、仏様やその他もろもろの)であれみんなが信じる神様なんてものがあるはずもない。あってはならないとさえ思うのですが。 なぜなら宗教とは所詮人の営為です。そうである以上、神様というものが本当はなんであれ、(そんなものないのかも、という場合も含め)宗教は人のありようの限界から逃れられないわけで。 まあもっとも安心はしていますが。およそ自分の宗教の教えがもっとも正しい(あるいは本当に正しいのはこれだけ、というのも含む)とおもっていないのならそれは宗教ではありません。何か別の目的のためにやっているものです。 だから統一なんてされないでしょう。 ただ、信じるのは人ですから、また、宗教は人の営為ですから、他人がほかの教えを信じ、あるいは信じないことを認めればそれでいいと思うのですが。 そして他人のそれを踏みにじらないこと。 ちなみに#1さんの「あの教団」についてはそもそもたいていの宗教は宗教だと思っていません。反社会的団体だと思っているのです。 まあ以上はこれまた偏見です。が、そういう偏見も含め、間違っていると思うのは結構、でも弾圧したり暴力的に対応したり仕事を奪ったりさえしなければ問題ないと思うんですが。

kobarero
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 個々の宗教を一つにまとめるのではなく、互いに共存共栄できる枠組みを作ることが大切なのでしょうね。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.6

[宗教の国連のようなもの] これは可能ですね。宗教というのは字の通り教えですから普通に考えれば、教えに時代性、地域性や開祖の個性があるものですね。つまり、学校も小学校から大学、研究過程とあるように宗教にもやはりランクがありますね。そういうものであると認識すれば、つまり認識力が上がれば、統合的に扱えることができるからですね。全ての宗教を平面的でなく立体的にとらえることで宗教の国連のようなものは可能ですね。 普通認識力の狭い範囲ではこれしかないという教えですね。小学校では大学教程は教えないですね。認識力が広がると教えにも高低があることがわかりますね。 教えの高低は、つまり多様性ですね。本来、全知全能ですから多様な教えがあるのが正解ですね。多様な教えを認識できるようになると国連ができますね。このような質問と回答ができる日本からできますね。

kobarero
質問者

お礼

楽観的なご回答ありがとうございました。 そのためには、個々の個性を包括に統合できるような認識力の向上が必要ということでしょうか。

  • mashahide
  • ベストアンサー率15% (20/133)
回答No.4

私は無神論者、無宗教なのですが、宗教を一種の学科のような感じでとらえて出来る限り偏見なしで有名所を自分なりに調べてます。 で、ヨーロッパ方面(中東含む)は一神教が多く契約宗教(信じたら助けてあげる、信じなかったら助けてあげないと言うケチな契約、神のくせに...)が多いようです。 アジア方面は仏教色が強く(仏教以外も当然ありますが)契約より教え感が色濃いです。 で、本題なのですが契約宗教はどうしても排他的になってしまいますよね?この人との契約を結んだのにこの人とも...って訳には行きませんから。 一方仏教の方も心が広そうな割に宗派で人殺しまでする始末です。お釈迦さんってこんなに激しい人だっけ..と思い調べを進めて行くと、原始仏教ってのが今も細々と残ってました。こればややこしい宗派なんて元もなかったはず、じゃあお釈迦さんが言ったのはどう言う事か?お釈迦さんが言った言葉だけ(空海、最澄や親鸞、日蓮の言葉じゃなく)を見てみようと言う物です。 この原始仏教を調べてみるとけっこうアバウトで面白いですよ.

参考URL:
http://www.j-theravada.net/kogi/index.html
kobarero
質問者

お礼

無神論の立場で客観的に個々の宗教を分析しモデル化していけば、どのような社会のどのような発展段階なら、どのような宗教モデルが有効かなど、ある程度の方向性が見えてくるのかもしれませんね。 ご回答ありがとうございました。

回答No.3

素人考えですが、宗教というのは人を支配する働きがあります。特に多くの人を支配するためにはお金と同じぐらいの威力を持っています。歴史を見てもお金と宗教が車の両輪のようになっている例がいくつもあると思います。支配という要素がなくなったらどうなるかは誰にも分からないのではないかと思います。全人類がひとつしかない太陽とか月とか地球を崇拝するようなことが可能かということになるでしょうか。

kobarero
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 確かに宗教には、そのような側面がありますね。

  • wulong
  • ベストアンサー率36% (299/826)
回答No.2

私は無神論者です。人が考え出した「神」は人を超えることが出来ません。 宗教の国連ですか。「世界宗教者平和会議」と言うのがあります。 どの宗教も建前は友愛や博愛を説きますが、やはり自己保存が優先するようで結果は見てのとおりです。 私見ではありますが天理教の人は他の宗教の悪口を言いませんね。もっとも「うちが最終最上で、他の宗教や森羅万象を統括しているから」と言う理屈らしいですが。

kobarero
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。

  • genki-mama
  • ベストアンサー率26% (334/1267)
回答No.1

おっしゃっている意味、よくわかります。 私も色んな仏教や色んなキリスト教に縁がありましてね、同じ事をよく思います。 神様に助けられた、って思うことは今まで何度も何度もあり、神様の存在は固く信じているのですが、「それが誰」かをこだわる気持ちはなく、宗教は「大きな山の頂上を目指して拝んでいる」ようなものだ、と思っています。ふもとから見れば、全然違う山に見えても、きっとその頂上から見れば一つの山に違いない、と。 コレをいつか敬謙なクリスチャンの友人に話したところ、「へえ、あなたみたいな人に会って嬉しいわ。ウチの宗教はそうなの、排他しないの。だから他のキリスト教団体から認められないのよ。」と言ってましたね・・。彼女は集団結婚で有名な、あのキリスト教信者でした・・。私は彼女の宗教の礼拝には参加した事はなく、あの教団のことは何も知らないのですが、排他しない教団もあるのだ、と知って少し嬉しかったのを覚えています。 宗教は人々を常に惹きつける為に、時代や国などの環境と共に都合良く変化していくのが普通です。それができなかったら誰にも相手にされず、「すたれて」しまうモノからです。残っている、というのは「その環境に適応できた」という事です。絶対唯一を求める民には絶対唯一の神が必要なのです。それぞれの求める神の像が違うのですから、共通の宗教というのは無理なんでしょうね。子育て同様、これが理想の子・これが正解の育児、という「一つ」のものがないのですから。・・

kobarero
質問者

お礼

genki-mamaさんの書かれた最後の部分からは、宗教もビジネスと考えると理解しやすい面もありますね。 ご回答ありがとうございました。

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