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伊勢物語のあづさ弓

またもや似たシリーズになってしまいますが、 伊勢物語のあづさ弓の一節で、 昔、男、片田舎に住みけり。男、宮仕へしにとて、別れ惜しみて行きにけるままに、・・・・・ の(1)片田舎って何ですか?(辞書でなかった)    (2)宮仕へしにとての"しに"は何ですか?(品詞はなんですか? よろしくお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • musai
  • ベストアンサー率57% (61/107)
回答No.1

「片田舎」とは「辺鄙な田舎」、いわゆる「ド田舎」というヤツで、「都からうんと遠く離れた、生活に不便なところ」いう程度の意味です。 「片」は、語素として名詞又は動詞の上に付き、複合語を作るもので、いろいろな意味がありますが、ここでは「(程度が)偏っている」ということでしょうか。「片意地」などとも言いますね。 また、「しに」は単独の言葉ではなく、動詞の「す」の活用形+助詞の「に」です。 地方の寒村から「オレ、東京でサラリーマンになる(宮仕えをする)から」と言って、恋人を残して上京しちゃったわけですねえ。

benefactor_geniu
質問者

お礼

返信ありがとうございました。 先ほど、普通の国語辞書で調べたところのってました、すいません。でも先生に、町にいける範囲のかるい田舎と習いました、先生が間違ってるんでしょうか? 動詞の「す」の活用形+助詞の「に」ですか・・・・ 予想できる範囲でしたね、わざわざ質問するほどではなかったのかもしれません、すいません。

その他の回答 (5)

  • kimosabe
  • ベストアンサー率59% (137/230)
回答No.6

(1)むかし、心つきて色好みなる男、長岡といふ所に家つくりてをりけり。そこの隣なりける宮ばらに、こともなき女どもの、田舍なりければ、田刈らんとて、この男のあるを見て、(伊勢物語・五十八段) (2)むかし、男ありけり。身はいやしながら、母なん宮なりける。その母、長岡といふ所に住み給ひけり。子は京に宮づかへしければ、まうづとしけれど、しばしばえまうでず。(伊勢物語・八十四段) (3)むかし、男、片田舍にすみけり。男、宮づかへしにとて、別れをしみてゆきけるままに、三年こざりければ、(伊勢物語・二十四段) (1)をご覧ください。「長岡」を「田舎」としています。「長岡」は現在の京都府長岡京市で、「都」から南西に12、3キロほど離れたところです。この距離は、(2)に「しばしばえまうでず」とあるように、たまには出掛けて行けるがそう頻繁には行き来できない程度の距離だったようです。 対して(3)です。宮仕えをするために都へ行った男は、別れを惜しん都に上り、そして「片田舎」に残した女のもとに三年も帰って来なかったのですから、「片田舎」とは都からずいぶん遠く離れたところなのではないでしょうか。 こんなわけで、私は、日本国語大辞典の「都を遠く離れた辺鄙な地方」という語釈を支持します。

benefactor_geniu
質問者

お礼

みなさんありがとうございました。 とても参考になりました。

回答No.5

 #2です。#3の方の回答を見て、いくつかの注釈書を確認してみると、たとえば「徒然草」137段の「片田舎の人」について、「都の周辺の田舎者をおとしめている」(「徒然草全注釈」安良岡康作)という記述があります。また、考えてみると、「京の片田舎」という言い方もあり、確かに「片田舎」を「都」に対する、「遠く離れた『地方』」のみに限定することはできないようにも思います。私の認識不足の点があったことを反省しています。  ただ「町へ行ける範囲」がどの程度の日数を想定して(日帰り?)おっしゃっているのか、分かりませんが、先生のおっしゃった「かるい田舎」という表現には抵抗があります。  日本国語大辞典を見ると「都を遠く離れた土地、辺鄙(へんぴ)な地方。」とあり、そのままお尋ねの「伊勢物語」や先ほどの「徒然草」の例をあげてありますので、現代語に限った語義というわけではないと思います。  現実の距離に関しては、確かに#3の方がおっしゃるように、様々な交通手段のある現代では何ともない距離が、昔では大変な距離になると思います。(「伊勢」に出てくる「風吹けば沖つ白波竜田山」にしても車か電車で迂回すればあっという間でしょうが、てくてく歩いて越せば大変な距離です。)それを「かるい」と表現したのならば、むしろ「現代」的なのではないでしょうか。  また、徒然137段の話にしても、風流の愛で方に、教養ある都人と「片田舎の人」では大きな違いがあるという話です。距離はさておき、ここには文化的な大きな差異があります。その差異は「かるい」とはいえないのではないでしょうか。  ともかく「片田舎」には「都」との大きな差があるように思います。  また「伊勢」の「梓弓」の話は、話の内容からすると、容易には帰れない土地から、宮仕えに出たとする方が味わいがあるように思うのですが。  それから「片田舎」は手元の何種類かの古語辞典では見出し語にはなっていなくて、接頭語の「片」の中の「片寄った、中央を離れた」という意味の用例として、「片田舎」が出ていました。いくつかに分けられる語は、分けて辞書を引いてみるというのも、調べる一つの方法だと思います。

回答No.4

 #2です。#3の方の回答を見て、いくつかの注釈書を確認してみると、たとえば「徒然草」137段の「片田舎の人」について、「都の周辺の田舎者をおとしめている」(「徒然草全注釈」安良岡康作)という記述があります。また、考えてみると、「京の片田舎」という言い方もあり、確かに「片田舎」を「都」に対する、「遠く離れた『地方』」のみに限定することはできないようにも思います。私の認識不足の点があったことを反省しています。  ただ「町へ行ける範囲」がどの程度の日数を想定して(日帰り?)おっしゃっているのか、分かりませんが、先生のおっしゃった「かるい田舎」という表現には抵抗があります。  日本国語大辞典を見ると「都を遠く離れた土地、辺鄙(へんぴ)な地方。」とあり、そのままお尋ねの「伊勢物語」や先ほどの「徒然草」の例をあげてありますので、現代語に限った語義というわけではないと思います。  現実の距離に関しては、確かに#3の方がおっしゃるように、様々な交通手段のある現代では何ともない距離が、昔では大変な距離になると思います。(「伊勢」に出てくる「風吹けば沖つ白波竜田山」にしても車か電車で迂回すればあっという間でしょうが、てくてく歩いて越せば大変な距離です。)それを「かるい」と表現したのならば、むしろ「現代」的なのではないでしょうか。  また、徒然137段の話にしても、風流の愛で方に、教養ある都人と「片田舎の人」では大きな違いがあるという話です。距離はさておき、ここには文化的な大きな差異がありす。その差異は「かるい」とはいえないのではないでしょうか。  ともかく「片田舎」には「都」との大きな差があるように思います。  また「伊勢」の「梓弓」の話は、話の内容からすると、容易には帰れない土地から、宮仕えに出たとする方が味わいがあるように思うのですが。  それから「片田舎」は手元の何種類かの古語辞典では見出し語にはなっていなくて、接頭語の「片」の中の「片寄った、中央を離れた」という意味の用例として、「片田舎」が出ていました。いくつかに分けられる語は、分けて辞書を引いてみるというのも、調べる一つの方法だと思います。

回答No.3

塾で高校国語を担当している者です。 >でも先生に、町にいける範囲のかるい田舎と習いました、先生が間違ってるんでしょうか? これは、辞書も先生も間違えてはいません^^ 国語辞書はあくまでも「現代語」として語の意味を載せていることに注意してください。 ですから、「現代」では『都会からす~~~っごく離れた田舎』という意味でいいのですが、 これを「古典の世界」の概念で考えると、ちょっと意味が変わってきます。 この「古典の世界の概念」は所謂「古典常識」というもので、 知っていたら得することもありますし、大学入試にも出題されることもありますので、 徐々に覚えていかれることをおすすめします。 話がずれましたが、 「古典常識」の中での「片田舎」は、先生がおっしゃっているように『町にいける範囲のかるい田舎』になります。 なぜかと言うと、 昔は交通手段と言うと、普通は「徒歩」ですよね? 「牛車」という話もありますが、あれは「徒歩」よりも速度が遅いので……^^; では、貴方が「徒歩」で50Km先へ行かなければならないとします(京都駅~天橋立を直線で結んだおおよその距離です。実際にはもっと遠いハズです)。 電車で移動すれば2時間程度の距離ですが、徒歩となると……私は絶対に歩きたくありません。 多分、貴方もそう思うと思います。 確かに50kmは頑張れば1日で往復できない距離ではないです。 近いんですが、遠いんですよね。 今のように交通の便も悪く、情報も入ってこない平安時代。 徒歩で50kmの距離を行く、というのはどんな気持ちだったのでしょうか? つまり、辞書は「現代の感覚」、先生は「昔の人の感覚」から答えたということになります。 あくまでも『昔の文学』を読んでいるんだということを忘れないように、 これからも古典の勉強、頑張ってくださいね!

回答No.2

> でも先生に、町にいける範囲のかるい田舎と習いました、先生が間違ってるんでしょうか?  これは#1さんの回答ならびに、お調べになった国語辞書の方に軍配を上げたいと思います。  参考URLはInfoseekの国語辞書(大辞林)ですが、「片」を調べますと、接頭語として、  「中心より離れ、一方に寄っている、へんぴである意を表す。『~田舎』『~山里』」という意味の他に、「すくない、わずかである意を表す。」「完全でない意を表す」というような用法もあります。  おそらく先生は後者の意味で、「完全な田舎でない」「ちょっとだけ田舎」という意味にとったのではないでしょうか。(この部分は「自信なし」)  まあ、弘法も筆の誤り・猿も木から落ちる・河童の川流れ、というところでしょう。  先生には、辞書を持参して「辞書には、こういう意味で載ってますけど、どうなんでしょうか。」と、質問の形で、そっと、やんわりと指摘してあげてほしいと希望致します。次の授業ででも訂正してくださるでしょう。

参考URL:
http://jiten.www.infoseek.co.jp/Kokugo?sv=DC&pg=jiten_ktop.html&col=KO

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