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原始仏典成立に関する最新の研究・論文
お世話になります。 よくこちらでとか、ネットのあちこちで、原始仏教のことを指して、「本来の仏教」という言い方がされます。原始仏教のことを、「本来の仏教」と定義するのは、釈迦の説いた仏教の意味であることが多いと解釈できますが、問題はその本来の仏教の内容的な定義です。 その「本来の仏教」の定義を方向付ける根拠となっている本や研究はなんでしょうか? 何の研究を持って論拠となしているのか、教えていただけないでしょうか? たとえばこういうことです。 ある書き込みに本来の仏教では輪廻を説かないと書いてあります。それが時代とともに入れられたと。こういう解説が出回っていることは、私も知っています。しかし、その要素を取り除いてしまうと、およそ原始仏典とされるものさえ、ほとんど「本来」釈迦が説いた部分はなく、読めないくらいに排除されてしまいます。原始仏典の代表とされるダンマパダですら、そうです。これについての簡単な成立についても、解説書でごく簡単に知ってはいます。曰く、輪廻を説いた巻があとから出来た、と。曰く、矢の喩えの経がある、と。ただ、そういった個別論ではなくて、輪廻を説かなかったとする人がよく根拠にする「無記」なども仏典の成立に組み込んだ形で、『原始三蔵』の成立を体系的に視野に入れて研究した研究・本が知りたいのです。たくさんの議論をネットを中心に拝見しました。でも、お考えはもう見るところまで見てしまいました。明確な根拠が知りたいのです。よろしくお願いします。
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ちまたに流布している原始仏教の姿の論拠となるもの、ということでしょうか。どうにも史料のない時代の話ですから、やはり論者の姿勢が大きいと思います。 私はあまり新しい文献を知らないので、厳密にはご紹介する資格がないかも知れませんが、基本的なところだけ。まずは中村元『原始仏教の思想』、二次的には『原始仏教の成立』。それから双璧として、当然、平川彰『原始仏教の研究』、『インド仏教史』。 内外の研究を網羅したものとして、(これも古いですが)前田恵学『原始仏教聖典の成立史研究』も目を通すべきでしょうか。 これはわりと脇道にそれますが、私が知っている範囲で多少最近のものということで、英語文献でしかも大部ですが、Winternitz『History of Indian Literature』というものもあります。(この人は「苦行者文学」という概念を言いだして、テーラガーターやスッタニパータなどの古い韻文史料の新しい位置づけを提唱しています) 初期の仏教については、残念ながらあまり詳しいことがわかっているわけではありません。 時代の下った大乗仏教の成立の頃の様子ですら、もうひとつわからないし(まあ最近は、在家から大乗が生まれたという平川説は揺るぎだしたのですが)、そもそも仏滅の年代だって百年単位で説にぶれがあるわけです。 ひとまず、上に挙げた中村先生の立場と平川先生の、初期仏教に対する認識の大きな違いなどを体感されて、いかにアプローチがむずかしいものか、というのを体感されるのがいいのではないかな、などと(最近の研究を知らないのを強みにして)思います。 いろいろ書こうかと思っていたのですが、ちょっと時間もありませんし、落ち着いたころにまだこの質問が開いているようなら、新しい研究も含めてまとまったことを書かせていただく…かも知れません。
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- neil_2112
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三たび失礼します。 先日若手の研究者の方と話をする機会があったのですが、初期仏典については、やはり国内では先にご紹介した三先生の著作以降、研究上の目だった更新はほとんどないそうです。 …というと話が終わってしまいますが、そうはいってももちろんそれらへの異論がないわけではありませんから、輪廻だけというより大枠でいくつか思うところを書かせていただきます。 そもそも、いわゆる「金口の直説」、つまり釈尊の直接の言葉は、仏典の中に直接みつけることはもちろんできません。ですから、仏教とは何であるか、釈尊は何を悟り何を語ったのか、という点を明らかにしようとする際に、どうしても方法論や立場の違いから見解の相違がうまれてくるわけです。実はここには、質問者氏の予想以上に、かなり大きな隔たりがあります。 アプローチの方法として代表的なもののひとつが、中村元先生のスタイルです。つまり、散文経典よりも古い形式が韻文経典であり、そこに教理化される前の初期仏教の真の姿を見出そう、とするものです。 ただ、散文よりも韻文を、整ったものより素朴なものを重視していくと、ややもすると初期仏教はヒンドゥー教やジャイナ教といったインド思想の中に解消されてしまいがちになります。例えば、仏教は無我を説いてアートマンを認めない、という古来有名なテーゼにも関わらず、『ダンマパダ』では「自己は愛しいものである、よく自己を守れ」というように、アートマン(パーリではアッタンですが)が必ずしも丸ごと否定されているわけではないことの扱いが問題になってきます。 こういった齟齬を、中村説では、初期仏教が主張するのは「無我」ではなくせいぜい「非我」である、という風に理解されるわけです。 実際に中村先生は、「…このように初期仏教においてはアートマンを否認していないのみならず、アートマンを積極的に承認している」、「(アートマンの観念に関する仏教の)それらの所説は、古ウパニシャッドおよびジャイナ教あるいはアージーヴィカ教において説くところと大体において共通である。何ら特異な新説あるいは新思想を述べているのではない」(中村元『原始仏教の思想』)と主張されています。 もともと「非我」であったものが、後の時代、散文経典よりも後のアビダルマの頃に、教理を精緻化し他教団との差別化を図るために「無我」が説かれるようになった、というのが先生の大まかなストーリーでしょう。 しかし、もちろんこのような見方に対する反論もあります。 例えば平川先生は、「仏教は原始仏教以来、無我を主張するが、これはインドの伝統的なアートマン(我)の宗教と敵対するのである」(『インド仏教史』)として、明らかに無我説にたって初期仏教を見ています。 これは、ウパニシャッドの哲学がアートマンとブラフマンという二つの概念の相即にたって世界を理解するのが普通であったのに相違して、釈迦は自己(アートマン)とその周囲世界の考察しか行っていないこと、そして何よりも、自己とは何か、という問いをたててそこに根本原理(いわゆる第一原因)を求めなかった、といった諸点に注目する立場ゆえです。 (余談ながら、この意味でもまた成立論としても、よくある「梵我一如が仏教の根幹」という理解がずれていることは明白です。梵我一如はせめて、如来蔵だとか仏教のインド化という枠を設定して語らないといけないのであって、大文字の「仏教」の議論に持ち出すべき内容ではない) ほかにも中村説に批判的な視点はいくつかありますが、そのひとつはまず、そもそも韻文経典が古いのかどうかが大問題であること、です(そもそも『経集』である『スッタニパータ』を、中村先生が『ブッダの言葉』と題するにあたっても、学問的にちょっとした論争があったのです)。 この問題については、文化思想史的なアプローチではなく、むしろ純然たる言語学的アプローチから韻文経典の成立史に迫ろうとする動きが海外で活発なようです。K.R.Norman(アショーカ法勅の研究などでも有名)、それから私も詳しくないのですが、R.Gombridge、O.V.Hinuberらが原始経典研究の前線でよく名の挙がる人たちですので、必要ならその研究をお調べくださるようお願いします。 もうひとつ韻文古層説への批判として、先にも挙げた「苦行者文学」という視点からするものもあります。要するに、マハーバーラタなどに連なる、ヒンドゥー教やジャイナ教の理想としての「苦行者」を描くスタイルの文献をさす概念なのですが、これがあまり仏教的とはいい難いのではないか、という見方です。 例えば『テーラガーター』「仏弟子の告白」には、577「独り瞑想するためには…修行者は猛獣の出没するような臥処を受容すべきである」、あるいは581「聖者は…在家者とも出家者とも、両者とも交わらず、人々から離れて住むべきである」などとあります。あるいはご承知の通りダンマパダにも同様の描写がいくつかあります。 これは確かに一面で仏教修行者の理想像とも読めます。しかし仏教修行者はごく初期の段階から「独り」ではなかったわけですし、サンガの存在を前提とした律のあり様や律が釈迦直説として教義同様に金言視されたこと、アランニャと言われるような実際の修行場所の様子を考えると、こういう理想像は仏教の理想像とはあまり重ならない部分もあるわけです。 また、この「苦行者」の概念が問題になるのは、ジャイナ教との関連からです。ジャイナ教は何よりも苦行を説いて断食死までをも美化しますが、その思想の背景には、清らかなる精神たるアートマンを肉体が覆っている、という心身二元論が前提されています。その不浄なる肉体から欲望が生まれるわけで、ジャイナ教においては欲望の滅却はアートマンとの関係で意味を持つわけです。 このスタンスで見ると、『スッタニパータ』には、761「自己の身体(=個体)を断滅することが『安楽』である」といった言葉のほか、多くの欲望断滅の教えが説かれています。個体の断滅とはつまり「死」を指すのでしょうが、これはジャイナ教的な見解からすれば、精神が肉体から解脱した望ましい状態ではあっても、仏教的にはなんとも肯定しがたいものです。 つまり、中村説のように古層の韻文をたずねて釈迦の教説がインド思想の中に解消させてしまうのでなく、釈迦が説いた教えをむしろ仏教思想の独立性・特殊性を手がかりにして知るべきではないか、という立場もあるわけです。これは一見因果関係が逆転しているようですが、例えば従来のように「縁起説」を釈迦直説としてこれをあまたある仏教思想の根幹とする考え方、仏教とはすなわち「縁起説」である、という基本的な見方にほかならないのですが。 というわけで、過去多くの仏教徒や仏教学者が、釈迦の直説を直接知ることができないならその影絵を、というわけでインド思想をとりあえず一通り学んで、その中で仏教を位置づけようとしてきた経緯があります。先にご紹介した典籍とあわせて、これがひとまず、仏教理解の大きな力になるのではないかと思います。 長くなって、しかも結論が尻すぼみに貧相(笑)で恐縮ですが、ひとつご了解ください。
お礼
早々のご回答、また度重なるご教示ありがとうございます。研究職の方にも聴いていただけたそうで、心強い限りです。お返事遅れて失礼しました。研究がひとつのまとまった形となるのに、20-30年くらいはかかるでしょうし、新しい研究といっても、まだそのような形にはなっていないかもしれませんね(ただ追跡調査するに身としては、新しい研究から古い研究に遡及する方が、どういう論文が参照されているか分かりやすいという利があり、楽ちんできるというのはあるかもしれませんね^^)。 確かに原始仏教の内容については、研究者個人の研究姿勢に左右されるところが想像以上に大きいように思いました。もちろん、私としましても、杓子定規にその姿は明らかにできるなどとは思っておりません。むしろ、一定の結論を出して、曲がりなりにも言い切ってしまわなくてはいけないというあたりに、研究者という職業の悲しさがあるのかもしれないと見えました。 無我説についても、大変わかりやすくまとめてくださいました。概説書においても、中村先生と平河先生の説によって書かれているものを見かけます。インド思想史における、原始仏教の位置付けも、相当違ったものになってしまいます。時々、あちこちのサイトで質問される問いにも、研究者の根拠や研究姿勢の背景を知らないままに、概説書を読んで混乱したと思われるものが見受けられます。入門書といっても、その入門書を書いた人が、よって立つところの学説が違えばかなり違った内容になるのですが、そういったことは初心者にはわかりません。また入門書というのは、切り落としてしまう部分がたくさんありますので、ある意味でとても怖いなと私は思っております。たくさんの入門書が出回りますが、研究という名前がついていても、うのみにしてしまえば、それは研究者のつくった別の宗教を信じるようなものでしかないと思います。 その道の研究者の方の名前もお聞きしましたので、私には読めそうであれば、挑戦してみたいと思います。大変有意義な質疑ができたと思っております。皆様ありがとうございました。
- Syo-ya
- ベストアンサー率31% (558/1780)
http://security.okweb.jp/kotaeru.php3?q=1180382 こちらの#1にも投稿させてもらったのですが、私が「これが本来の仏教だ」との、拠り所にしているのは、今でも俗に言う小乗仏教圏に伝わる「ヴィパッサナー瞑想」です。 これが、お釈迦さまが菩提樹の下でやっていた瞑想法だそうで、小乗仏教圏では今でも当たり前にやっているものです。 この実践があって、初めて仏教なんだと想います。 これは外せません。 やってみると縁起も無常も、無我も、無執着、中道、涅槃、無明、三毒、神の不在・・・が、この実践の上に成立して来たんだなぁということを実感します。ゴータマさんという人が本当に実在していたんだなあ、という想いが湧いてきて涙が出る想いです。 基本は「気付く」ということです。 大変奥が深いですが、端的にこの一点です。 気がついて正気に戻りなさい。 目を覚ましなさいという、その為の実践法です。 これが根拠で本来の仏教とは信仰する宗教ではなくて、実践する為の心理療法的なものであったろうと想っています。 (もちろん輪廻転生説は外せませんが) で、ちなみに、私が好きなのは、ちょっと変わってて、 「仏弟子の告白(テーラガータ)」 「尼僧の告白(テーリーガーター )」です。 これも、当然、文字化されたのは後代のことですが、これは、権威者(お釈迦さま)の詩句ではないので、後世に改ざんされている可能性も少ないといわれている経典です。実際に、他の経典のように部派の思惑も見受けられませんし、とても純粋な、生の言葉が多いと感じます。 この中は、ヴィパッサナー瞑想の実践の記述も、あと輪廻転生の記述も沢山出てきます (「前世」という記述も出てきます) いかに、当時の人たちが輪廻転生からの解脱をターゲットに修行していたかということが窺い知れます。
お礼
回答ありがとうございます。 はじめまして。5様(ネームは一応プライバシー保護の観点から外しますね)。以前から、投稿は拝見しておりまして、温厚な方と存じております。ヴィッパサナー実践のお人であることもよく存じております。テーラワーダ(罨法仏教圏)の人たちが広めておいてですね。仰るとおり、原始仏教では、あの瞑想は大きな位置にありますね。どうでもいいのですが、『尼僧の告白』って最初Hな小説のことだと思ってました(-_-)。←「先生」にだまされた。 信仰・・・信仰ではない、とスマナサーラ長老が仰せですね。信仰がないというよりは、信仰の概念が少し違うのでしょう。バクティと呼ばれる熱烈な信仰とは確かに別の系譜にありますね。 前世や輪廻の話がたくさん経典に出てくることは、誰も否定できないと思いますし、おっしゃっる通りだろうなぁとは思いますが、まぁ、難しい一面もないわけではないです。どういう文脈でどういう意味で使われたのか・・。そこに輪廻説とは経路の違う説法とどう絡むのか。言葉もこちらが使っているのと同じ意味で使っているのか・・翻訳で勉強する人にはもう一つ言葉に用心ぶかくないといけないと思います。対機説法というのは、もっともな理由でそれ自体否定要素はないのですけど、一面、際限なく矛盾するものを併呑していってしまい牽強付会になりやすい一面もあると思います。 とりあえず4さまをお待ちして考察を深めてみたいと思います。 なにやら難しい質問になっていますが、仏教は実践なのですけども、それを言ってしまうと、いつものパターン(しのごの言わずに実践しろ!)に引きずられますので(T_T)、今回は主知的な面から質問させてもらいます。というわけでなので、多めに見てくださいね~。
補足
>罨法仏教圏 そんな仏教圏ないない(汗)。信じる人がいると困るので訂正。 南方仏教圏です。寒いので手がかじかんで打ちにくいだけです。
- fukuyori
- ベストアンサー率45% (38/83)
最近このカテゴリで「仏教は輪廻する主体の存在を否定する」と書いた者です。「もともとの仏教」という表現も用いました。なものでご質問の意図──初期仏教というものに対するロマンティックな偏見を指弾するものと受け止めました──には強く胸を突かれる思いでした。 ご質問の趣旨である最新の仏教学の知見については、学問の外に身を置く私は回答する能力を持ちません。ですので黙したまま質疑応答を見守ろうとも思ったのですが、どうして自分が上記のような表現を行ったかを書き留めることにもなにがしかの意味はあろうと考え直し、少し言葉を紡いでみようとしています。 まず「もともとの仏教」「本来の仏教」と私がいう時、実は意識は必ずしも初期仏教の方ばかりを見ているわけではありません。むしろ「本来でない仏教」を強く意識し、その反作用として「本来の仏教」という言い方が出てきているように思います。私は鎌倉仏教の流れを汲む宗派の僧侶です。ご承知のように、大乗の伝統教学の物言いでは初期仏典の思想は「小乗仏教」として軽視され、「○○だから大乗仏教に属する自分たちの教えの方が優れている」と高らかに宣言されます。私はそうした物言いに常に違和感を抱いてきました。岩波文庫などで普及している初期仏典の言葉は、身も蓋もないほど端的な叡智に満ちています。大乗仏教は明らかに初期仏典の指し示す世界とは大きく異なる世界を打ち出しており、その世界を自分が信仰していることには何の迷いも疑問もないのだけれど、だからといって初期仏典の価値を拒絶するつもりもありません。ルーツを知ること、ルーツとの違いを意識すること、そしてルーツを正しく評価することが、学問的には後代の仏教徒の創作とされる大乗経典を信仰する自分にとって欠かせないことだと考えてきました。そんな思いが先走り、曖昧な理解のままに漠然と初期仏教を指して「もともとの仏教」といわせたのだと思います。 上の発言をしたのは、私と同じ鎌倉仏教に由来する宗教の話題に関連した質問に対する回答でした(その意味でその時には「専門家」としました)。その宗教の教義(しかも現代的なアレンジを経たもの)を前提とした質問に思えたもので、それが仏教の全てではない、という意識で執筆したことは確かです。そのために、正確性を欠いた表現となったことは否めません。 また輪廻については、初期仏教が輪廻説そのものを拒絶しているわけではないことは理解していました。それは初期仏典を紐解けばすぐに分かることです。だからこそ「輪廻の主体を否定した」という表現になったのですが、では自分が初期仏教における輪廻説の様相をどれだけ理解していたかといえば、概説書から得た知識の域を出るものではありません。これもまた、初期仏教を正しく学び扱おうとしておられる人からは眉を顰められて当然の言動であったと反省しています。 最近たまたまパラパラとめくっていた宮元啓一『ブッダが考えたこと』(春秋社)は、まさにご質問の趣旨に叶う内容であるように思います。著者は冒頭から、ゴータマ・ブッダが輪廻説を否定したとする意見が学会でも時折見られるが極めて非学問的な説だ、と述べています。古代インドの宗教伝統・文化事情から仏教が完全に独立無縁であった筈がない。その事自体は頭では理解をしているつもりだったのですが、感覚のどこかにロマンティックなステレオタイプを抱え、思考の怠惰を招いていたように思います。その事に気づかせていただいたことに心から感謝して、今後精進に努めたいと思います。
お礼
回答ありがとうございます。長いお返事を書いていてたら、PCがフリーズして消えました。同じくらい長いのが書けるかわかりません。まず、回答者様をとがめるかのような印象を与えてしまったとしたら、本当にごめなさい。そういう意図は全然ありません。前からの疑問でしたので、NIFTYのふぉらー無は半年ほど見ないうちに消えていたし・・そういえば最後の方は殺伐としていましたが(-_-)。聞くところがないので失礼しました。 本来の仏教・・難しいです。時系列で本来を指すのであれば、まだ分かります。でも、この言葉はたぶんに発言者の宗教観にリンクしますので、新興宗教の人でも使っております。私は発言者の宗教がだいたい分かりますので(「真理仏法」とか耳慣れない熟語使われるので分かるのです)、そのお立場が分かりますが、それがわからないとこれくらい広い言葉もないと思います。でも、初期仏教至上主義にいるわけでもありません。原始仏典を奉じても、結局いろいろ雑多な要素の処理は、問題になってきますし、その時の態度は人によってかなり違いますので。個人的受容の点では、本質的には同じ問題を、どこかで処理しているはずです。でも、これもいろいろ難しい問題です。 輪廻の主体・・主体とか言い出すと、とたんに難しくなります。こんな難しい無記ってなんなんだ~~~(たとえば長阿含の清浄経とか)!ってのもありますね。無記にもいろいろ発展と用法があるのかもしれません。私は知らないけど。 紹介のご本読んでみます。同氏の本はいくらかは読んでおり、面白いです。 なにかとげのある言い方になっていたら、すみません。今後ともこちらこそよろしくお願いいたします。
- neil_2112
- ベストアンサー率73% (196/268)
ちょっとご質問の意図が理解しかねるのですが、どのような見解に立たれたうえでのご質問なのか確認させて頂きたく思います。 輪廻だけが質問の主題でないことはわかったうえで例を輪廻にとるのですが、例えば「ダンマパダから輪廻を除くとほとんど教説が成り立たない」という趣意は、具体的にはどこの部分をさしておられるのでしょうか。 また、雑阿含経や中阿含経などを中心にした経典群には、無記をはじめとした初期仏教の立場や思想のエッセンスが散りばめられていますが、このようなものは既に読了されたうえでのお立場でしょうか。だとするとどのあたりを念頭においておられるのでしょうか。 現代思想ふうにいえば、どんな思想も語り手の個人的・社会的な歴史やエートスのもとにしか生まれ得ないわけですから、真に「オリジナル」といえる思想など存在しないといえます。つまりすべては差異のなかに位置づけるしかできないことになります。この意味で、仏教の神話化に向かう立場は解体される必要があるでしょう。 ただしかし、仏教は具体的にはウパニシャッドの思想体系の中から立ち上がったわけですが、輪廻や業も含めてそこに思想面で有意の差別化をはかることができれば、ひとまずそれを「独立した思想体系」として扱うことは可能ではないでしょうか。そしてそれは原始経典群に明らかになっているように思えるのですが。
お礼
回答ありがとうございます。 まず私には知らない点が多々あるので質問していますので、不勉強をおとがめにはならないでいただけるとありがたいです。 まず、スッタニパータです。この書は、第4章と5章が最古層とされています。3章では、地獄の話がたくさんくわしく出ています。原始仏典ですが、決して無記ではありません(また4.5章とそれ以外を分けて、4章5章を他章と比較して、ブッダの非神秘性(たとえば神について)を考察しているのも見たこともあります)。でも、成立論の立場から、この部分は付加されたと考えられているわけですね? そういった研究を知りたいのです。それと私には特定の思想的立場・学問的主張はありませんので、その点はご了承ください。この点についても不明な点について、確定的なことを書き込んだこと・主張したことは、当方はございません。 >例えば「ダンマパダから輪廻を除くとほとんど教説が成り立たない ごめんなさい。成立論に関して思い浮かべていたのでは、上に述べたスッタニパータのことでした。ダンマパダでもいいのですけども(成立論は聞いたことが無くて知らないのです)、たとえば輪廻思想について述べられています。これも無記ではありません。こういった発言がたくさんあるのはどう説明をつけているのか?ということなんです。あと「教説が成り立たない」とは少し違っていて、ある観点から見たときに、「雑多なもの」がたくさんあるので、これをどんどん外すことがどこまで出来るのか、疑問だと言うことなんです。不純物と言って、キっていくには比重が重いと私には思われますので、その辺の研究と根拠を知りたいわけです。そのためには、岩波文庫だけでは限界があるのです。 >このようなものは既に読了されたうえでのお立場でしょうか 「読了」ではありませんが、翻訳されているものはかなり読んでいる方だとは思います。
補足
>ただしかし、・・(中略)・・ひとまずそれを「独立した思想体系」として扱うことは可能ではないでしょうか。 そのこと自体に反対する意図は全然無くて、ただ「それだけが」原始仏典のエッセンと考える根拠があるのか知りたいのです。それで成立とか広い視点でもっとも参考にされている本・研究はどうなのですかと聞いてみたわけです。 「そういった個別論ではなくて、輪廻を説かなかったとする人がよく根拠にする「無記」なども仏典の成立に組み込んだ形」と質問したのは、その意図からです。よろしければ、紹介の方もお願いできませんでしょうか?
- yuhkoh
- ベストアンサー率48% (350/723)
そういった点についても本書に、釈尊在世当時の仏教も、インドの神話世界・宗教観・社会、民族、政治状況、風土などの影響を受け、さまざまな思想、信仰が複合的に存在していたと分析しています。そしてそういったところに、後世の大乗や密教が生まれる素地が有ったとしています。ですので“仏教から神話性を取り除けば本当の仏教があるという考えは、これも仏教の神話化ではないか”と批判的に捉えています。
お礼
再回答ありがとうございます。「これも仏教の神話化」・・・中村先生を中心とする研究の態度にそうした批判があることは輪廻皇帝派の人の所説から分かるのですけども、結局研究者の読み方に還元される部分が大きいとなると難しい問題ですね。
- yuhkoh
- ベストアンサー率48% (350/723)
釈尊在世中のインドの多文化性から初期仏教の姿を探る良書として、名古屋大学名誉教授で現在、真言宗智山派管長・智積院化主である宮坂宥勝先生による『ブッダの教え スッタニパータ』(法蔵館)があります。
お礼
回答ありがとうございます。 まだ読んでおりませんんで、読んでみます。従来の読みへの反論が含まれていることは承知で、こういう原始仏典の研究方針全体に疑問がありますので、お聞きしたいのですが・・。 ひとつお伺いしたいのですが、質問文にあるような現在ちまたでよく聞く説(たとえば「本来の仏教」では輪廻は説かないなど)のもととなる学説の「研究方針」(結論ではなくて、方針として無理がありますか?)には、何か問題点があるとお考えですか?
補足
結集と三蔵成立についてのまとまった研究もありましたら、よろしくお願いします。
お礼
首をなが~~~~っくしてお待ちしておりました。許されるようなら、今月いっぱいくらい開けておきますので、またよろしくお願いします。新しくなくても、基礎的なもの(古典的名著)も大歓迎です。経典の編纂・成立に焦点を当てたものがありましたら、それもよろしくお願いします。初期仏教に姿を明らかにすることなんて、少々仏教に詳しいくらいのレベルの一般人にできるわけがありません。えーと、質問が偉そうかもしれませんが、それほど自分を買いかぶってませんよ^^。 ただ、それなりに言い切る(輪廻は在家用の方便説とかいろいろ)からには根拠があるだろうから、その根拠の基礎的部分を跡づけたいと思っているわけです。残された経典をどう史料として位置づけて読むかで姿勢が変わると思うんですが、ここの姿勢の根拠を知らないで、結論だけ聞いてもあんまり意味ないなぁと思いまして・・やっぱり経典の成立をある程度視野に入れた説明が欲しい。何度かネットの議論を拝聴したことがあるのですが、感想は「ふーん。なんか人によっていろいろあるようだし、難しいこと考えるんですね」となってしまうんです(汗)。それで、この問では、あえて「本」と「論文」を紹介してくださいということにして、根拠を跡づけるということに焦点を絞ってあるというわけです。えらぶった質問になっていますが、そういうこれまでの見聞も背景にあります。外国語の論文は読めないかもしれません。英語自体得意ではないし、専門的英語になると、なおのこと読めるかどうか微妙です。もちろん質問者だけがこの問を見るのではないので、質問者の語学力に考慮下さる必要はまったくございません。フランス語で良いものがありましたら、お上げ下さること、大歓迎です(よ、読めないけど・・)。 いつも、回答者様の精緻かつ懇切なご回答には感銘しております。後進のため、ひとつ研究のご紹介をよろしくお願いいたします<(_ _)>。