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●言葉の置換と本質の隠蔽

「堕ろす」と言う言葉は「殺す」と本質的に変わるところは無いと思うのですがいかがですか? (その行為の善し悪しは別にして)「堕ろす」はどう贔屓目にみても「殺す」です。しかし言葉を置き換えることによって、(或いは違う言葉を作り出すことによって)、物事の本質をずらし、自らの贖罪を委ねているように思われます。 こういった例とそのことに対するご意見を教えてください。 もし設問の前提が間違っていると感じられたら、そのご意見も伺いたいと存じます。

質問者が選んだベストアンサー

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  • dawasa
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回答No.6

>もし設問の前提が間違っていると感じられたら とありますのでその方面からだけお邪魔します。 >「堕ろす」と言う言葉は「殺す」と本質的に変わるところは と書かれていますが、これが議論を混乱させるような気がします。質問者が意図しているのは、「堕ろす」行為は「殺す」行為と本質的には同じだと言いたいのではないですか? ところが主語を「言葉は」としているので言葉の本質について答えたくなってしまいます。言葉の本質で言えば、やはり「堕ろす」と「殺す」は違うと思います。質問者の立場からでも、「堕ろす」という「言葉の本質」には、事態の本質をずらすという意味が含まれているわけで、違うのでしょう? もうひとつこの問題の難しいところは、「堕ろす」という言葉が、本質からずれていると言ってみることは簡単でも、「殺す」という言葉が本質と一致しているということを証明ないし確認するのは難しいことだと思います。 例えばおそらく質問者さんは「殺す」という言葉がより大きな倫理的悪を含んだ言葉だと思われているのではないかと思います。ところでここに宗教的な心情かなにかで、「殺す」ことよりも「堕ろす」ことのほうがはるかにおぞましい行為だと思っている人がいて、質問者さんと論争することになったら、どうなると思います? 『「堕ろす」ことは人類にとって最もおぞましく恥ずべき行為であり、「殺す」などと一般化すべきではない』と言っている人を説得するのはかなり大変だと思います。(というかたぶん無理) というわけで、その問題へ言葉のすりかえという方面からアプローチするのはあまりいいとは思えません。

CageAnoe
質問者

お礼

全くもってdawasaさんの仰るとおりです。 設問がおかしかったので、皆さんを混乱させてしまいました。 閉じさせていただいて、自分の中でまとまってから、また質問させていただきます。 皆さんありがとうございました

その他の回答 (5)

  • betagamma
  • ベストアンサー率34% (195/558)
回答No.5

>「堕ろす」と言う言葉は「殺す」と本質的に変わるところは無いと思うのですがいかがですか? 本質をどう捉えるかによりますが。 日本語の意味としては、「堕ろす」という言葉と「殺す」という言葉は全く別のものです。 胎児を殺す、とは日常語では悪意が無い限り言いませんし、人が殺された、とはいっても、人が堕ろされた、とはいいません。 >物事の本質をずらし、自らの贖罪を委ねているように思われます。 そういう面もあるかも知れませんが、多くの場合は、別に本質をそらそうなどという意図があるわけではなく、その言語でたまたま、二つの言葉が用意されているだけという面の方が大きいのではないでしょうか? たとえば、日本語では、事故で人が亡くなったときは、「彼は車にひき殺された」のような表現はしません。「彼は事故で亡くなった」といいますね。 しかし、英語では、「He got killed by car.」=「彼は車に殺された」のような言い方をします。 ここで、英語が母語の人が、 「日本語では、車を運転していた加害者が被害者に与えるショックという本質から目をそらすために、亡くなったという言葉に置き換えて本質をずらしている。被害者が勝手に死んだわけではないのだから、きちんと本質をとらえて、彼は車に殺された、というべきだ」 というような主張をしたらどうでしょう?納得できますでしょうか? 別に本質から目をそらそう、などという意図が特にあるわけではない気がします。

回答No.4

 言葉に対するイメージ・感性は人それぞれで、置き換えることによって、例えば「おいしい料理がたくさんある」を「食べ甲斐がある」「景色がきれい」を「風光明媚」、のように、より本質を表したり、対象を上品に表現する場合もありますよね。  それはさておき、ご質問の例に関しては私もまったく同感です。 「援助交際」然り。 ちょっと違うかも知れないけれど、「ハウスマヌカン」だって「販売員」じゃ格好悪いからカタカナにしているだけだし、「さいたま市」だって「埼玉市」だとダサイからひらがなにしているワケです。 私は、販売員と表記しても職業の価値は変わらないと思うし、埼玉だって由緒ある地名なんだけどなぁ、と考えています。 ちなみに私は千葉県人です(笑)。

回答No.3

言葉には意識されなくてもそれを使う理由があると思います.堕ろすの本質というのは仮想的客観性であり,現実的には臨床医学的あるいは解剖学的な現象というべきでしょう。母体を救うためというのもあるいは別の目的のためというのも本質は同じといえるわけです.好例は例の大本営発表ではないでしょうか.撤退を転進というのは軍隊の移動という本質から言えば同じわけです.

  • shin189
  • ベストアンサー率28% (66/233)
回答No.2

今回ご質問にあげている、「殺す」と「堕ろす」は行為は同じでも本質は異なります。 「殺す」は人の生命をそこで終わらす行為のみを示します。 「堕ろす」は造語で元は「堕胎」。「堕」の意味は辞書で引けば判ると思いますが、「好ましくない状態や悪い状態におちる」意味を持った非常にネガティブな言葉です。 と言う事は、何も知らずに使っている「堕ろす」は、自分の落ちぶれ様を表現しているモノと解釈され、贖罪、冤罪どころか、罪を披露している事になります。 私のようなオヤヂ(でも独身。笑)は、「殺す」よりも「堕ろす」に対して眉を深くしかめます。 それよりも、未成年少女売春行為を援助交際と言ってる方がよっぽど本質を隠蔽している売春行為だと思いますけど。はい。

  • seinzeit
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回答No.1

それは、質問者様が「本質」をどう定義しているかによります。 まず言葉があって、そこから意味するものの概念が作られるのだ、とカント的に(あるいは後期ウィトゲンシュタイン的に)お考えなのでしたら、言葉が違うものは必ず本質も違う、よって「堕ろす」と「殺す」は完全に別の概念である、ということになります。 また、まず意味があってそこから言葉が生まれるのだ、という古典的な考えをお持ちなのでしたら、確かに「堕ろす」と「殺す」は本質的には非常に似た概念ということになります。

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