>人との会話の中で、学生生活、人生、の中で「ものごとの本質を見抜く」経験には何がありますか??具体例などをお聞きしたいです。
⇒面白い問題ですね。すでに寄せられている回答も興味深く閲覧させていただきました。そして、とりわけNo.2さんのお話に感動しました。とてもこれ以上の回答は書けないと思いますが、忘れられないことがありますので、少し観点が逸脱するかもしれませんが、以下のとおりお答えします。
父が不慮の事故で死亡したとき、私は小学生、兄は中学生でした。夏祭りがきました。同じ年代の友だち6,7人と連れ立って、お店や屋台を回り、ゲームをしたり駄菓子を食べたりしたのです。私は早々に小遣いを使い切って、兄に買ってもらって食べていました。兄は、母からもらったわずかな小遣いと中学生にできるアルバイト料を足して持っていたので、私よりは「金もち」でした。それでも…。
みんなは駄菓子に飽きて、果物屋の店先でうまそうな桃を買って、チューチュー音を立てながら食べ始めました。私は、兄がかってくれるのを期待して待っていました。しかし、さすがの兄も2人分の桃を買うお金はなかったようなのです。一瞬口ごもりながら「カネが…」と言いかけて、「そうだ、叔父さんのくれた桃がウチにあったかも…」と言いながら、私の手を引いて店を出ました。
兄は、家のすぐ手前で先に帰るよう私を促し、横道に入っていきました。家に着いた私は、早速「叔父のくれた桃」を探しましたが、見当たりません。夕餉の支度を手伝っているところへ兄が野イチゴのいっぱいついた茨を抱えて戻り、数えながら野イチゴをもいで目の前の茶碗に入れると、ほぼ茶碗一杯になりました。ざっと水洗いしてから私の目の前に置き、こう言ったのです。「桃よりは甘くないけど、野イチゴもうまいぞ」…。
後年、あのときの兄の振る舞いの「本質」に気づいた私は、兄に頭が上がりません。そして、昨今、被災民や難民に寄付を差し出すとき、なぜかあのときの兄の振る舞いや言葉が頭によみがえってくるのです。