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平家と王朝について

平家の栄耀栄華は、王朝文化の最後の光輝であり、平家の滅亡と共に王朝の時代は終わったという説がありますが本当ですか?教えて下さい。

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回答No.2

まぁそう考えるのが妥当でしょうね。 平清盛は権力を握りながら、その証を「朝廷から貰う官位と律令制に基づく官職」に求めました。従一位だの太政大臣だのという、「朝廷から貰う官位と律令制に基づく官職」に求めました。娘を天皇の后にするという、藤原氏がずっとやってきたのと同じ事をしました。武士の出の癖に貴族になって王朝の一員として生きようとした、それが平家です。 平家滅亡の後、実権を握った武家の棟梁とその一族は、平家のように王朝の一員となろうという意識はどんどん薄れていきました。源氏政権は拠点を鎌倉という遠方に置いたし、足利政権は天皇と対立し天皇と戦うことも辞さなかったし、天皇を差し置いて「日本国王」になろうとしたという説のある将軍さえいます。この間、「武家政権」をどうにかしようとした天皇は武士政権によって処断されました。足利政権の途中から朝廷は資金不足に陥り、王朝文化どころか皇居の修理さえままならなくなりましたね。

kiyurohi88
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。目からウロコが落ちました。

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その他の回答 (2)

  • notnot
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回答No.3

「平家の滅亡と共に王朝の時代は終わった」という後半ですが、 鎌倉幕府成立後も、承久の乱までは、京都の朝廷はほぼそのままです。東日本のほとんどと西日本の一部の支配権を失っただけで、京都周辺を含む西日本の大部分は変わらずなので、それを「王朝の時代は終わった」と思うかどうかは人それぞれかと思います。 承久の乱以降を知っていて、そこから遡って考えるから、平家滅亡(鎌倉幕府成立)を王朝の終わりの契機と思うのでしょう。もし、鎌倉幕府が内部抗争で早期に崩壊していれば、「平家の滅亡で王朝の時代は終わった」とは誰も思わないでしょうね。 承久の乱以降は、次期天皇(東宮)の選定すら幕府の意向に従うので、朝廷が幕府の支配下に入って「王朝の時代は終わった」ということかと思います。 鎌倉幕府成立を何時とするかは、昔は頼朝が征夷大将軍に命じられた1192年の一択でしたが、今は頼朝が鎌倉に入って関東地方政権が誕生した1180年から、全国を支配下に置いた承久の乱の1221年まで色々な案があります。中高の教科書だと1192か1185ですかね。 前半の、平家の栄華を「王朝文化の最後の光輝」と思うのかどうかですがが、平家の文化は武士文化ではないと思うので、これが正しいと思う人が多数派な気がします。もちろん「王朝文化の最盛期」ではないですが。三代将軍実朝は王朝文化に憧れを持っていましたが、その時には「最後の光輝」は過ぎていて若干の残り火ですかね。

  • f272
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回答No.1

その後の歴史を見れば、実際にそのようになっています。 朝廷が力を持とうとした企ては、承久の乱では失敗していますし、元弘の乱では足利尊氏が幕府から離反したことがきっかけでいったんは成功しましたがすぐに建武の乱で武士が主導権を握りました。

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