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蘇我氏と平家

蘇我氏と平家は、よく似ていると思いませんか? 栄華と滅亡の両方を短期間に体現したという点に於いて。 また、その原因が、王権(天皇)をも凌ぐ権勢が妬みを買った点に於いて。 また、栄華の源泉が、大陸との交易にあった点に於いて。

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  • hue2011
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回答No.6

明確に違うことがあります。 蘇我氏は、蘇我のなんとかという人間だけなんです。 まっすぐに遺伝継承するラインが一本あるだけです。それが独裁をしているのです。稲目、馬子、蝦夷とつながるわけですが、各代ともひとりきりです。 それに対し平家は大所帯で、たくさんの人間で組織を作っているのです。 ブロックブロックには束ね役のリーダがおり、構造的に連絡をとりながらやっています。 ただ必ずしもリーダーシップに優れた人間が育っておらず、清盛一人にすべての重荷がかかった。独裁には違いないが、いろいろな人が肩や腕にぶら下がっているのです。 滅ぼそうとしたら蘇我氏は簡単です。中大兄皇子が蘇我蝦夷に切り付け、首を飛ばすなり自害させればそれでおしまいです。うしろに中臣鎌足がひかえてますし。蘇我氏の政策を引き継ぐセカンドとかサブの人間なんかいないから敵はほかにないのです。あとになったら蝦夷がワルモノだったから退治した、で済みます。 平家はそうはいかない。清盛がいなくても、有象無象みたいにたくさんいますからひとりひとりを、虫をつぶすように撃破する必要があるのです。まとめてやるならどこかに閉じ込めておいて煙を焚くというような必要がありますが、たまたま壇ノ浦というところが戦場になり、水の中に沈める形でようやく滅ぼせたのです。 後始末としては、後白河法皇みたいな人に、天皇家を粗末にした集団だというようなことを吹き込んで支援してもらわないと、源氏が悪役になってしまいます。 これは、大塚商会をほろぼしてOAの商売を全部自分のものにしようというのに近い話ですから、別にワルモノをいくつも作って、個人的な恨みでないことを示さなければならないので、義経を討ち果たす必要が発生したのです。

gesui3
質問者

お礼

同じ独裁でも、個人と集団、という違いが決定的ですね! ありがとうございました。

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その他の回答 (6)

回答No.7

決定的な違いは 蘇我氏は大陸系の渡来人 平家は桓武天皇から派生した皇系貴族 蘇我はどっちかと言うと武士(当時は武士は無いけど武士に近い)←蘇我氏は戦も上手くて戦いで周りを滅ぼして勢力を伸ばした 平家は貴族の中の貴族です←平家は戦が下手(清盛はそこそこでしたが) なので娘を天皇に嫁がせて勢力を拡大した(この辺は蘇我氏もそうですが) と結構違う部分もあります

gesui3
質問者

お礼

回答をありがとうございました。 平家物語をよく読むと、平家はかなり強かったことが分ります。 また蘇我氏は自前の軍事力が弱かったからこそ、渡来系の軍隊が中臣に屈従したのを見て、これまでと覚悟を決めたとも言えます。

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回答No.5

すいません m(__)m 追加です..三番目の回答者様の,見識高いご回答内容を拝見して,そぅ言えば,平家も,源平合戦では,源頼朝氏の妻の尼将軍こと,北条政子氏や舅の北条時政氏などは,自称のようですが,坂東平氏でしたし,源頼朝氏の腹心の,土肥氏(後の小早川氏)や,梶原氏,千葉氏などは,坂東八平氏出身と言われていますね‥‥関東の城氏は,伊勢平氏出身の縁で,平清盛氏の平家側につきましたが,常陸平氏の鹿島氏などは,源頼朝氏側につきました..平清盛氏の出身の伊勢平氏自体は,もともと,関東の桓武平氏の武官や,武家などからの派生ですから,ずっと関東に根を下ろしている,八幡太郎源義家氏配下だった,坂東平氏達などからは,嫌われていたようですし,けっこうマイナーな一族だったようですね‥‥‥平清盛氏などの,伊勢平氏の後裔を名乗った一族に,ミツウロコで有名な,後北条氏が居ますが,こちらも,百年くらい,関東地方で栄えていたようですね‥‥豊臣秀吉氏に最後まで抵抗していましたが‥失礼しました m(__)m 。

gesui3
質問者

お礼

両氏混交や生き残りの存在ですかね。

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  • oska2
  • ベストアンサー率44% (2335/5193)
回答No.4

>蘇我氏と平家は、よく似ていると思いませんか? 表の歴史では、似ていますね。 確かに、表の歴史では王権よりも富と権力を持った点では似ています。 が、各地の伝承・逸話では全く似ていません。 蘇我一族の場合は、別ですかね? 私が読んだり聞いたりした伝承・逸話では、次の通りです。 「百済(祖国)が、滅亡の危機になっている。日本軍の救援が欲しい」 この事を、中臣鎌足は政権に伝えた。 ※百済の皇太子である「 扶余豊璋 ( ふよほうしょう」 が、中臣鎌足との説有り。 中大兄皇子(天智天皇)は、中臣鎌足の要請を受けて軍の派遣を決めた。 が、全方位外交(百済・高句麗・新羅と平等な外交)を主張する蘇我が強固に反対。 結局、邪魔に存在になった蘇我氏を殺した。 この百済救済問題前後の間は、中臣鎌足は日本史(記録)から消えていますよね。伝承・逸話では、百済に戻っていた様です。 日本は(どこかの国と違って)為政者が都合よく決めた「正しい歴史」が無いので、誰もが自由に推測できます。 色んな伝承・逸話が残っていて、面白いです。^^;

gesui3
質問者

お礼

ありがとうございます。

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  • D-Gabacho
  • ベストアンサー率64% (1099/1699)
回答No.3

似ているといえば似ている気もしますが、栄華と滅亡の両方を短期間に体現したという点に関して、蘇我氏と平氏はかなり違うと思います。『日本書紀』によれば、蘇我稲目が大臣になったのは宣化天皇が即位した536年。稲目から数えて三代目・四代目にあたる蝦夷・入鹿が殺された645年まで、100年以上にわたって人臣の頂点である大臣の地位にあったことになります。並び立つ大連の地位にある物部氏を滅ぼした587年から数えても60年近い年数です。また、教科書が「蘇我氏を滅ぼす」といった書き方になっているため、一族そろって滅んだ平家と同じように蘇我氏そのものが滅亡したような誤解をされている人も多いようですが、入鹿の従兄弟にあたる蘇我倉山田石川麻呂は共謀して入鹿を殺したメンバーの一人で、中大兄皇子の政権下で右大臣になっていますし、その弟の赤兄は天智天皇のとき左大臣になっています。その後、蘇我氏は天武天皇の八色の姓制定のとき石川氏に改姓し、奈良時代の朝廷でも中納言など公卿の地位にのぼった人が何人もいます。

gesui3
質問者

お礼

なるほど、繁栄の期間も違い、全滅でもないという違いがあるのですね。 ありがとうございました。

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回答No.2

私も そう思いました..NHKの,『歴史秘話ヒストリア』にも,蘇我の稲目,蘇我の馬子,蘇我の蝦夷と,三代目で,蘇我氏が滅んでいることと,平の正盛,平の忠盛,平の清盛氏と,三代目で,その栄華を極め,平清盛氏の死後,平家は,急速に衰退し,数年で,滅んでいることなど,正に,栄枯盛衰ですよね..足利将軍家も,三代目の足利義満氏の時代が,最も,栄えましたし,三代目で,頂点を極めるっていう現象は,多いのでしょうか‥‥奥州藤原氏なんかも,三代目で滅んだのでしょうか,蘇我氏は,蘇我稲目氏などから,もっと古い,蘇我天氏の時代から,いわゆる日本の大和朝廷の,武官貴族や兵士などとして,当時の高句麗の広開土太王(好太王;高談徳氏の軍勢)と,百済と共に戦ったりしていたようですが,仁徳天皇の時代でしょうか‥‥やはり,いわゆる藤原北家で有名な,藤原氏(旧中臣氏)の台頭などが,大きかったのかもしれませんね‥‥‥平家の場合は,後白河院に,最終的には,振り回された感じでしたが‥‥‥それでも,当時の後白河院や,天皇(高倉天皇)の居る御所などを凌ぐ,京・六波羅の邸宅や,一族の賑わい,勢いや,権勢を振るったことなどは,蘇我の蝦夷氏などの時代の蘇我氏と似ていますね..

gesui3
質問者

お礼

「身上潰す三代目」という諺があります。 案外と、世上にありがちかもしれないと思い始めました。 ありがとうございました。

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  • stss08n
  • ベストアンサー率16% (454/2764)
回答No.1

実際はどうなのでしょうか、天皇:王家との交わりだけはそうでしょうが。

gesui3
質問者

お礼

最近の発掘調査ではそうだと、歴史秘話ヒストリアでやっていましたよ。(^_-)

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