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新選組とアメリカの南軍
江戸幕府の士農工商といった 身分差別を守ろうとした新選組を好きになる、 支持するというのは同時期に起きた アメリカの南北戦争での南軍や リー将軍(奴隷制の象徴)を 白人至上主義者が支持するのと 変わらないんでしょうか?
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幕末を思想面から考えると、死んじゃった人も生き残った人も「結局お前の思想はどっちなん?」と聞きたくなるほど右に左にフラフラする人たちばかりです。 新撰組ができるきっかけを作ったのは清河八郎という人です。この人は元々苛烈な尊王攘夷論者で、討幕派でした。そしてその頃の京都には志士と称するテロリストがあちこちにいて京都の治安が不安定になっていたんですね。で、本来は取り締まりにあたるはずの武士は、テロリストと斬り合いになって殺されでもしたらたまったもんじゃないので困っていたのです(跡継ぎがいない状態で志士に斬り殺されたら御家が断絶してしまう)。折から、将軍が京都に行くという話が出ていました。将軍の身辺警護に不安があったのです。 そこで清河八郎は「江戸から腕に自信がある連中を連れて将軍の警護をして、京都の治安を安定させますよ」と幕府に提案して、なぜかそれが受け入れられました。そしてそれに応じたのが近藤勇や土方歳三らの新撰組メンバーです。 で、京都に着いたときに清河八郎は「将軍の警護っていうのはな、あれは実はウソだ。本当は尊王攘夷運動をする!」とぶち上げたのです。けれど芹沢鴨や近藤勇、土方歳三らはそれに反対してそこで彼らは清河八郎のグループから出て行ったのです。近藤らはそのまま京都に残り、清河八郎と同調したメンバーは江戸に戻ってくるようにいわれ、その後に清河八郎は「やっぱコイツ危ねえわ」と幕府によって暗殺されました。 伊藤博文らの明治の元勲も、江戸のイギリス公邸焼き討ちなど尊王攘夷のテロをやっておいて、時代が明治になると海外に留学して勉強してきてるんですから、彼らの思想って元々そんなもんですよ。よくいえば思考が柔軟な合理主義です。 でまあ近藤勇や土方歳三が思想的にどんなんだったかはあまり伝わっていませんが、おそらく彼らの本質は「一発当てて出世したかった」んじゃないかなと思います。彼らが夢見たのは「大名」だったんじゃないかな。後に江戸に戻って勝海舟から「将軍は甲府に逃げるから(元々徳川幕府の危機対策マニュアルに将軍が江戸で危険になったら周囲を山に囲まれている甲府に避難すると決まっていました。だから甲府に向かう甲州街道の八王子には千人町という将軍SPの人たちが住んでいる町がありました)お前らは先に甲府に行って守っておくように」と命じられます。その道すがらに、彼らは甲州街道を通って故郷の調布や日野を通るのですが、そこで地元の人たちから大歓迎を受けるんですよ。 そこで旧知の人たちから宴会に呼ばれるもんだからついついそこに立ち寄って結局討幕軍に先に甲府をとられてしまうわけですが、そういう席で近藤勇や土方歳三は旧友に「俺たちが大名になったらお前を家臣で雇ってやる」なんていって上機嫌だったというのですから、のんきというか、なんというか。だって彼らはその直前の鳥羽伏見の戦いに参加して惨敗を経験し、敗走中に多くの隊士に逃走されてしまったのにね。ま、この後歳三さんはどこでどう「銃の時代の戦い方」を会得したのか、無敵の野戦指揮官になるんですけどね。 それに士農工商はもう教科書からも削除されていて、確かに士分という身分はあり、その士分も上級武士である上士と下級武士である下士があって身分制度そのものは存在していたのですが、身分制度そのものは中国でもインドでも中東でもヨーロッパでも当時はどこでもありましたからね。「アメリカでは入れ札(投票)で国家元首である大統領を決め、誰でもなれる」と聞いたときに多くの日本人が「アメリカには王族もいないのか。なんつう野蛮な国だ」と思ったほどです。 また現代社会においても、自民党を支持するということは女性差別、在日外国人への差別、同性愛者への差別を支持するというわけではないと思いますので、それはそれなんじゃないのかなと。 明治生まれの祖母の看護婦の免許には名前のところに「士族」って書いてあったと祖母はいってましたよ。その頃はもう大正時代くらいのはずです。
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- 薫子(@kao-ruko)
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>リー将軍 ユニークな視点ですね! そのとおりだと思います。
お礼