具体的に役立った事例です。転勤族だった回答者が京都で勤務していたころ、仕事で京友禅の着物のコンクールに行く機会がありました。ひっくり返った笊の上空を雀が飛んでいる図柄の着物に「若紫」という題が付けられている入選作品がありました。直ぐに「雀の子を犬君(いぬき)が逃しつる、伏籠の内に…」という源氏物語の一節を思い出し、高校の国語の恩師に感謝しました。この図柄の意味がわからなければ京都の関係者から「伝統文化の教養に欠ける」と思われたかもしれないからです。京都が「源氏物語千年紀」(源氏物語が史料で初めて確認できる年から千年の記念行事)で賑わっていたころで、京都では古典が今も生きていて、現代のビジネスにもその知識が必要であることを痛感しました。
それから今でも覚えているのは神戸で勤務していた40年ほど昔の冬の深夜のこと、業務上どうしても会う必要がある人の帰りを屋外で待つことが数日続きました。今のようにスマートフォンはもちろん(ポケットに入るような)携帯電話もない時代、暗い場所なので本を読むこともできず、退屈しのぎに思いついたのは百人一首の「むすめふさほせ」を思い出すことでした。「村雨の…」「住之江の…」とスタートは順調ですが、歌そのものをど忘れしているものや歌の細部があいまいなものがあり結構寒さを忘れて時間を潰すことができました。それでも時間が余れば「あ」で始まる百人一首の歌を可能な限り思い出すのです。実に些末なつまらない例ですが、古文の知識は思わぬところで役に立ちます。高校時代冬休み明けに百人一首のクラス対抗戦をしていたことも記憶に残っています。
また古文は現代の日本語を考える上でも有用です。例えば「目が不自由」という表現があります。視覚障害者への配慮から最近使われるようになった比較的新しい表現だと誤解している傾向もあるかもしれませんが、江戸時代の文化年間に書かれた式亭三馬の「浮世風呂」のは「おまへの所の御隠居様はお目が御不自由だが、御不足のないお娵御(よめご)さまをお貰ひなすつてお仕合わせだ」という女性の会話があり、江戸時代にも現在と同様に「目が不自由」と話していたことがわかります。同様に「ぷりぷりする鰹」など「今風」に思える表現も登場します。
さほど古文を読んでいるわけではありませんが、日本の古典が面白いと感じるようになったのは学校を卒業してからでした。古典を読むことの真の意義を理解できるようになるのは、学校を離れて入学試験や国語の成績などの重圧から解放され、自分の好きなものを自由に読めるようになった後のことかもしれません。