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古文漢文
僕は今高2なんですが、国語の古文漢文の意義が分かりません。 昔の日本や中国の文化を知るためなら、全部現代語訳したあとの文章で勉強すればいいんじゃないかと思ってしまいます。 なんでこれが必修みたいになっているのかと思います。 他にそう思う人はいませんか? 自分自身古文漢文が苦手なのもあって、勉強する気があまり起きません。 なにか前向きに考えるためのいい方法はありませんか? なんか少しひねくれたような質問ですいません!
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- staratras
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ご質問は、この国語カテゴリーなどにたびたび登場している「よくある質問」ですが、古文(日本の古典)は日本人が最低限身につけるべき教養の一つだと昔から考えられてきました。文化年間(19世紀初め)に書かれた式亭三馬の『浮世風呂』には、江戸の銭湯で「かも子(鴨子)」と「けり子(鳧子)」という二人の女性が宇津保物語や源氏物語などを学んでいる(単に読んで楽しむだけではなく、活字本と異同を訂(ただ)したり、注釈書を参考に書き入れをしたりする研究的な読書をしている)ことを話題にしている場面があります。 もちろん「浮世風呂」は創作(滑稽本)ですが、入学試験などが存在しない時代でも、銭湯に来るような(金持ちではない)女性のなかにも古典を学ぶ人が実際にいたからこそ、この話が成り立つのでしょう。 21世紀の現代の学校でも、発達段階や興味関心に応じて古文や漢文の基本的なことを教えるのは意味があると考えます。とくに俳句や和歌などの基本的な古典は、その後の長い人生の「心の糧」ともなりうるものなので、心が柔らかな若いうちに触れる方が有益です。「昔の日本や中国の文化を知るためなら、全部現代語訳したあとの文章で勉強すればいいんじゃないか」という考え方にも一理はありますが、「全部」はだめで、「俳句や和歌」のような韻文(広く言えば詩)は特にそれでは不十分です。それに古典を学ぶ目的は文化を知ることだけではなく、昔の言葉そのものを学ぶ目的もあります。 もちろん「教えられたが興味は持てなかった」というのならそれはそれで仕方がないと思いますが、古典に親しむ機会が存在することは重要でしょう。 一方高校の授業で教えるような「漢文」は基本的に日本語(国語)の世界です。もちろん、元の文章は中国人がその時代の中国語(文章語)で書いたものであることがほとんどですが、これに送り点などを付けたり、読み下し文にしたりする時点で、日本語に翻訳していることになります。杜甫の「春望」そのものは中国語の詩ですが、「国破れて山河あり(くにやぶれてさんがあり)城春にして草木深し(しろはるにしてそうもくふかし)」という読み下し文は、どう見ても日本語であり、中国語ではありません。 「外国語を外国語として理解する」という本来の外国語の学び方を考えれば、これは邪道です。しかし日本語と中国語がまったく別の言語にもかかわらず、「漢字」をおおむね同じ意味で使っていることを利用して文章を理解する特殊な翻訳技術(読み下すということ)が日本では大昔から発達しました。その蓄積(遺産)は無視できないものがあり、日本語も「漢文」の影響を受けています。日本語の読み書きのためにもある程度は漢文の知識が必要なのです。 回答者自身を振りかえれば、「古文」「漢文」が面白いと感じたのは、学校を卒業して「授業」「試験」「入試」などから解放された後のことでした。ただ、その興味を持つきっかけや読むための最低限の知識を与えてくれたのは学校の授業なので、その点は国語の先生に感謝しています。京都で仕事をしていたとき、ひっくり返った笊の上空を子雀が飛び去っている図柄の手描き友禅の着物に「若紫」という題が付けられているのを見て、高校で学んだ「雀の子を犬君が逃がしつる。伏籠のうちに込めたりつるものを」という源氏物語の一節が思い出せたのも、そのおかげです。優れた古典は決して「古い化石」ではなく「現代にも生きている文化」であり「社会に出て働く中で現実に役立てられるもの」だとそのとき痛感しました。 学校の授業は授業として、それとは別に自分が興味が持てる分野の「古文」「漢文」を読んでみたらいかがでしょうか。回答者は高校時代「地学部天文班」でその分野に熱中していました。漢文などにはあまり興味がなかったのですが、ある日先生がお休みのため高校の図書館で自習していたときに漢文対訳本「十八史略」の中に興味深い天文関係の記事を発見しました。(索引で天文関係の記述だけを探して拾い読みをしていた) 時は南宋の景定五年(西暦1264年)七月、大彗星が天にあらわれた。十数丈の長さの尾をひき、光の穂先が天を照らした。彗星は明け方に東方にあらわれ、日が高くなって消えた。それが一か月余りも続いてようやく見えなくなった。楊棟という者がこの星を指して「あれは蚩尤旗(しゆうき)という星です」といった。それがもとで世論は楊棟に厳しく、とうとう官を辞して故郷に帰った。云々とありました。なぜ官を辞さなければならなかったのかはよくわかりませんでしたが、 これ以来漢文も少し面白いと感じるようになりました。 30年後勤務先の資料室で「宋史」「元史」「日本天文史料」などを発見し、この大彗星が当時の南宋や元だけでなく日本でも長期間夜空に見られて大騒ぎとなっていたことなどを知りました。また「蚩尤旗」という言葉はさらに古く「史記」の「天官書」にも「蚩尤之旗、類彗而後曲、象旗、見則王者征伐四方」と書かれていることに気付きました。「蚩尤旗は彗星に似ているが後ろのほうが曲がっているので旗に見立てる。これが現れると王者が四方を征伐する」とあります。 蚩尤旗の説明と星占いを一緒にしたような、現代人から見ると奇妙に感じられる文章ですが、これを読んで初めて、なぜ楊棟が失脚したのかが理解できました。元に押されていた南宋にとって、この蚩尤旗は「王者が四方を征伐する」吉兆であるはずなのに、それを明確に指摘しなかったからです。 興味のない人から見れば、「だから何なんだ」と言われてしまいそうですが、回答者にとっては高校1年生の時の疑問が30年後に氷解したうれしい瞬間で、こうしたことがあるので古典の読書はたとえ雑読でも面白いと思います。
- kon555
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実際問題として「何で古文が今のような位置づけなのか」というのは、しかるべき立場のお役人か何かに聞いてみないと分からないですし、そちらでも色々と意見があるようですので、あくまで私個人の見解です。 私としては「全部現代語訳したあとの文章で勉強すればいい」という意見には反対です。古文漢文という歴史的な文法文体に、多くの人間が触れる事には一定の意義があると思います。 何故なら『現代語』というのは時代時代で変化していくものだからです。 貴方が今高校2年生という事ですが、私が貴方の年齢だった頃からすると少し変化しているでしょう。貴方が今の私の年齢になった時にも、また変化していると思います。 こうした変化は別に自然な事なのですが、どうしても当事者たちは気付きにくい部分でもあります。 それに対して、古文漢文というのは変化しません。当時の文化を強く反映しているため、日本の文化、日本語の由来、成り立ちなどの理解に繋がります。 要は日本語としてのスタート地点に近い分だけ、現代語とセットで理解する事で、現代語という「点」だけでなく、言語の変化という「線」で考える事ができるようになります。 さらに言うと、当時の言葉であっても案外人の考える事は変わっていなかったりするわけですが、これも「元々の文章で当時の考え方に触れる」のと「現代語に訳した文章で当時の考え方に触れる」のでは、やはり意味合いが変わってくると思います。 つまり古文や漢文を原文のまま知る事で、言語の変化という『変わっている部分』と、人間の心情や感覚という『変わっていない部分』をより生々しく知ることができるわけです。 これは現代語訳ではフォローできない、大きな意義だと思います。
- head1192
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イタリアの生徒はラテン語が必修である。 彼らの祖先のローマ人が何を考え何を欲し何をしたのかは、ローマ人の言語ラテン語を介してしか正確に知りえないからである。 そしてローマ人の成したことは、現代人の参考になること大である。 一から作るより先人の成したことをたたき台にした方がはるかに効率が良いし成功率も高い。 日本では「温故知新」という。
- ithi
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tacomettoさん、こんばんは。 日本の古い物語や随筆文学なんかは、その当時の日本人の考え方とか(例えば、「もののあはれ」や「をかし」)、習俗の様なものを、文字を通して、特に有職故実ですかね?考えていく。漢文は、例えば、熟語が生まれた故事について考えていく教科で、高校生に必要な教養を習得するという考えに基づいた科目ですね。漢文については句法の他に漢字の意味を考えていかないといけません。もしかしたら、現代では使用されていない意味が使われている可能性があります。 そりゃ、現代語訳してもらったものを、読むのも大意を理解する上では必要ですけど、多少、内容に諸説あって、そこに対する、意味が違う場合があり、理解することは難しいです。近代文学なんて、もう難解極まりないと思います。
お礼
回答ありがとうございます! なるほど古文・漢文を通して当時の文化や、熟語が生まれる過程を学ぶことで教養を身につけるということですよね(的はずれなことを書いていたらすいません‥)? でも僕は個人的には教養を身につけたいなら、例えば中国語やスペイン語を学んだほうが実用的でもあるんじゃないかと思いました。 現代語訳もAIなどによって(AIに頼りすぎもどうかと思うけど)精度が高まれば昔のことをそのまま現代の日本語で説明できるんじゃないかなと。 古文漢文の意義について詳しく書いて頂いてありがとうございました! もう少し考えて見たいと思います。
- m5048172715
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いる。 生徒や児童がその授業を受けても、学校が試験に出題しなければ、我が国にはそんな文化があったのか。あった事を知ったのでよかった。で終わるのだが、 文系の科目は、生徒や児童がどれだけ丸暗記をできるか競争ってところが多い。漢字や歴史など固定した事実などを覚えるだけなら、必要なときにノートやスマートホンで見れば・・・ということにはならない。理由は不明である。 そんな競争あるいは勉強ゲームを気にしない・乗り越えられる児童や生徒ほど高得点を取れる。 ------------------------------------------------------------- アインシュタインは取材で、記者に光速度を聞かれて、答えることができなかった。 記者はアインシュタインが光速度を覚えていないと揶揄したそうですが、アインシュタインは「本やノートに書いてあることをどうして憶えておかなければならない?」と答えた。 ------------------------------------------------------------- https://optica.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/by-7cfb.html 辞書の使い方や、スマートホンの使い方を知っていれば良いということだ。
お礼
回答ありがとうございます! 少なくとも一人は同じように考えている方がいて嬉しいです。 文系科目は確かに丸暗記でもなんとかやっていけるような気がします。 でも僕が理系なので少し偏見が入ってしまっているのかもしれません‥。 アインシュタインがそういう考えかたなのは知りませんでした。
お礼
回答ありがとうございます! 確かにイタリア人にとってのラテン語は日本人にとっての古文・漢文だと思いました。 そして先人に習うのも効率の上で大切なことだと思います。 ただ、やっぱり効率のことを考え出すとAI翻訳の発達もあり、一度全て訳してしまうのがいいんじゃないかと思ってしまいます。 もう少し考えてみます。