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ゲームルールと自由の paradox
- トランプゲーム中のルールの拘束感が引き金で、自由の意味について考察。
- 友人との議論を通じて、自由の強要や基本的人権の尊重についてのジレンマに直面。
- 日本や西側の自由主義における自由と意志の尊重が、ゲームの場でも適用されるべきなのかを考える。
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以下のとおりお答えします。 卑近な些事のようで、深い問題のようにも思えますね。 >国際的にも最重要項目の1つである基本的人権の尊重について私は全ての人が自由であるべきだと考えていましたが、拘束され奴隷になりたいという人がいた場合、それはそのひとの意見を尊重され、強要した方は犯罪行為にならないのか?と疑問に思いました。 ⇒嘱託殺人や自殺ほう助に代表されるように、たとえ本人の頼みでも、一般に犯罪とされることを手伝うのは犯罪行為になりますね。ただし、刑罰は一般の場合より軽いのが普通らしいです。 >私の意見は 現実的な法治国家の少なくとも日本や西側の自由主義においては、本人(強要される側) の意志に関わらず強要した側は罪に問われるべきだという結論になりました。 ⇒おっしゃるとおりです。常識から考えても、「本人(強要される側) の意志に関わらず」何かを強要した場合、強要した側が罪に問われるのは当然の理ですよね。ただし、どういう舞台で起こっても、そうい事件・出来事の多くは明るみに出ず、あるいは重視されずに留保され、あるいは闇に消えていきますね。 >しかしゲーム上の(どうでもよい)ルールにおいて互いに尊重し合った場合、どちらの言い分が正しかったのか? 的確に答えられる方の意見を知りたいと思いました。 ⇒「自由」に2種類あります。1つは、「〇〇からの自由」で、他から強制されることを拒絶できる権利で、提起された本件の場合で言えば、「通常ゲームよりマニアックなルールでやろう」などの提案を断る自由に当たります。もう1つは、「〇〇への自由」で、自分がしたいと思うことをするのに他者から制約されることを拒絶できる権利で、この場合で言えば、「自分の好きなルールで」ゲームをする自由です。本件でのあなたとご友人の自由は、この2つの自由が絡んでいますが、どちらも基本的人権のうちであり、どちらの言い分が正しいかという問題は、残念ながら即断するすべがなく、的確に答えることもできません。 上述をまとめて考えますと、冒頭でも申しましたが、提起されたことはやはり深い問題ですね。人間としての理念や当為に関わる、哲学的な本質論にも繋がるからでしょうか。 人間、複数寄れば対立があり、しかも、(神ではありませんから)明快な結論はなかなか出せません。個人的願望としての「要不要」を重視するか、普遍的な理念としての「正不正」を重視するかなど、どういう原理を旨とするかとか、どういう政治的立場やイデオロギーを信条とするか、などによって異なった見解が導かれることでしょう。場合によっては、ダブルスタンダードを使い分ける御仁を見かけることもありますが、そんな場合でも、それを裁断できる能力や権限は、なかなか持ち得ません。 ということで、誠に情けない限りですが、「神の視点、と言ってまずければ、自然の理法や哲理にまつしかない」ということになるでしょうか。我々としてできることは、拙速な結論を出したり、逆に判断停止をしたりせず、「最小限意識に留めておき、折に触れて思いを致すというプロセスが大事ということ」ぐらいしか言えないと思いました。 明快なお答えにならなくてすみませんが、以上ご回答まで。
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- 濡れ猫のミコ(@nurenekonomiko)
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g) あなたの議論は、好みの問題に、法を持ち込んでいるように思えます。基本的に、各人の好みを法で罰することはできないでしょう。それが、あなたの議論の間違いです。
補足
私の質問内容は世にある紛争の原因について考え、解決の糸口を掴もうという議論です。 過去の偉人もIQ300の天才も平和な世の中にするために必要な法をひらめいた者は1人もいません。 正解も不正解もありませんが、あなたはご自身を神様か何かと思われているのでしょうか? あなたの言いなりになり、崇め奉れば満足してもらえますか? コメント結構です。
- 濡れ猫のミコ(@nurenekonomiko)
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f) 例えば、映画を観に行く場合、前の席を好む人もいれば、隅の席を好む人もいるでしょう。どれが正しい訳ではありません。好みが合わなければ、一緒に映画に行かなくなるでしょう。それだけのことです。
補足
座席変更にルールは無いので少し例えとして違うかなと思いました。 私は紳士的な態度が取れない訳ではありません。 集団行動を好まないのは相手を楽しませようと気を使い過ぎてしまう自分がいて自分を擦り減ってしまうからです。 重要な事は犯罪は身体に手錠をかけられる事で、法とは脳に鎖をかけ拘束される事です。 新設された法により活きる産業もあれば同時に死ぬ産業も生れます。 無神経に法を作れない理由ですね。
- 濡れ猫のミコ(@nurenekonomiko)
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d) 娯楽にもマナーは必要でしょうが、あなたが言うように考えていたら、何も楽しめなくなりそうです。 e) 例えば、将棋を娯楽で遊ぶ場合、「待った」を許す人と許さない人がいるでしょうが、このような二人は、結局将棋で遊ばなくなるかもしれません。それはそれで仕方の無いことでしょう。所詮娯楽なら、気の合う人とやれば善いだけです。
補足
ゲーム、スポーツなどは公式ルールで十分楽しめます。 自分の「楽しそう」というイメージを相手に共感してもらえると誤解する事から対立が始まってしまいます。 設定にもよりますが、漫才などを見ていて、ボケは変な人だが犯罪者ではない。ツッコミは一見正しそうな事を言っているが、法ではなく大多数の人が変だと感覚的に思う事に対して普通的な価値観を強要し、どついたりしています。 これを自分が楽しいからとイメージして一般人に漫才を求めると当然ツッコミが犯罪者になります。 法的にはどつかれた相手は殴り返して良い。「冗談やん?」 と言ったところで裁判所では通用しません。 自分が思う楽しいを共感して欲しいと思う事(承認欲求) にトラブルの原因があるのだろうというところで着地させてもらいました。
- Nakay702
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お礼を拝見しました。 >私は友人の発言に価値観が覆るような衝撃を受けたのですが、先に細かいルールを提案してくる側の先制悪で、私が拒否したのは「自由の強要」 ではないという解釈で一旦落ち着こうと思います。 ⇒そうですね。そういう解釈で落着とすることができると思います。 ご自分の願望を述べただけで、「自由の強要」になるはずはありませんからね。相手としては、少なくとも、①規定通りのルールでやる。②ゲームをやめる。③「そこを何とか考え直してはくれないかなあ」などと頼んでみる、などの選択肢もあるわけですからね。
- 濡れ猫のミコ(@nurenekonomiko)
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a) トランプゲームは、普通、娯楽に過ぎないので、ルールも娯楽の邪魔にならない程度で善いでしょうし、もし本気でやるなら、審判が必要になるでしょう。 b) 審判のいる娯楽など、通常考えられません。勝っても負けても、また、ルールを間違えても、笑って済ませれば善いだけです。 c) という訳で、ご質問の件ですが、厳しいルールを好む人もいるのでしょうし、どちらが正しいかは何とも言えませんね。そもそも娯楽に、正義も何も無いでしょう。娯楽は結局、楽しんだ者勝ちでしょうし、楽しくなければ、参加しなければ善いだけのこと。ご質問の件は、あなたが楽しくないと思って、降りただけのことです。
お礼