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日本で自由な発想をもつ子を育てたい
海外(西洋)で生活している人から、日本の生活と違って自由で息苦しさがない、という声をよく聞きます。 「他人と同じでなければならない」という暗黙の縛りがなく、ひとりひとりの個性が尊重されるということのようです。 もちろん日本という国にすばらしい点は多々あると思うのですが、確かに日本では「同じである」という強い意識(前提)の基に、 少し人と違っていると「あの人はヘン」「常識がない」というように言われてしまう傾向があるように思います。 そしてそれは家庭の影響はおいておいたとしても、義務教育の過程とそれに続く社会生活ではなかなか避けられないことであるようです。 日本において子どもをのびのびと、「他人と同じでなければならない」という意識を抱かせずに自由に成長させるにはどのような方法があるでしょうか? 子どもだけではなく大人についても、何かご意見があれば書き込みいただければと思います。
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日本社会の個人主義の成熟度はまだまだ欧州社会ほどの段階にはありません。 おそらく感じることもあるでしょうが、日本は儒教倫理が根付いている国でもあり、公に対する意識が強いことは否定できないと思います。 では、日本社会で個人主義の尊重した教育を行うならば、という問題提起としての回答ならば、やはり家庭教育の時間を尊重することでしょう。 つまり、日本社会の一部である家庭において個人主義・自由を尊重するようにすれば、いいと思います。 ところで注意してほしいのですが、「自由の敵は我まま」だと私は思うのですが、自由に対する恐怖をまずは教える必要性があると思います。 簡単にいえば、自分の自由が”他人の自由を侵す”という自由の相克関係について教える必要性があります。 具体的には、「知る権利」⇔「プラシバシー権」などが具体例ですが、自由を教える際には、 「あなたの自由が誰かの自由を侵していることを想定して行動しなさい」という教育を行う必要性があると思います。 つまり、自由というのが天賦のものではなく、他者との相互尊重によって成立することです。 ここらの教育については、ペスタロッチなどの幼児教育課程で学習する機会がありますが、日本では「自由を疑う」という意味が極めて不健全であることを考えて、 「自由に対する責任感」と「自由への恐怖」を教えてほしいと思います。 そんな教育されると自由という言葉を濫用できなくなりますし、自制心・利己性の排斥ができる日本社会に馴染みえる個人主義・自由が理解できると思います。 ちなみに、「同じであることも個性」ではないでしょうか? 比較論では常に差異性を要求されますが、同じことであることも比較として重要な結論です。それを個性と言わないような考えも考えものだと思います。 最後に、質問者の自由観と私の自由に齟齬がある可能性もあるので、ご注意ください。
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No.4です。ありがとうございました。 ちょっと難しくてなかなかついていけないのですが、 主に義務教育の問題点なのでしょうね? 大体は、同感しているつもりです…。(同じでなければ…(^.^)) 教育の、社会→学校→家庭(個人)というような向きが強すぎるか、その向きがあるとすればそれが気にはなってます。 あまりにも一方通行になっているか、逆の勢い(真の意味?での)が弱いか…??? じゃないでしょうか???
お礼
ご回答ありがとうございます。 義務教育だけではなくて、社会のあり方に根ざしている問題のような気がしています。 単一民族(ではほんとうはないのだけれど)で成り立っている国なので、はじめから同じであることを前提にしていて、違いを認める必要を意識してこなかったのではないでしょうか? 教育に関していえば、おっしゃるとおり、社会→個人のベクトルが強いのかもしれません。 社会(国、組織、集団)が前提にあって、今ある社会をうまく維持していくための個人を育てるという発想。 もちろん社会で役に立つ人材を育てるのは必要ですし、当たり前ともいえるのですが…。 わたしは教育そのものよりも、家庭から出て子どもが接する、学校を含めた社会において、人々が潜在意識のようにしてもっている「他人と同じでなければならない」という考え方の方が怖いと思っています。 どうすればそのような考え方を避けて、あるいはそれに触れてもその考え方に染まらずに生きていけるのだろうか、ということを考えたくて、この質問をさせていただきました。
- jamiru
- ベストアンサー率5% (170/3044)
NO6です。回答ありがとうございます。 日本の漫画アニゲーが海外ではほとんど規制を食らってるのですけどホントに自由は発想って持ってるの?と疑うときもありますけどね。 それに、自由な発想ってのは勝手に思いつくものです。 意図的に創れる才能じゃありませんよ。 「他人と同じでなければならない」は商売上の話です。 教育の話じゃありません。 こういう考えがあるからモノが大量に売れ日本経済を支えているのです。 過激なことを言えば、いくら良い点悪い点を並べたところで人間様ってのは大したことはないので心配するだけ損です。 子どもが楽しいと思ったことをさせればいいと思いますけど? 不安は伝染するのでこれに気をつければいいと思うよ。
お礼
ご回答ありがとうございます。 繰り返しになりますが「自由な発想をもつ子を育てたい」ではなく「子どもを型にはめずに育てたい」が正しい表現でした。 >こういう考えがあるからモノが大量に売れ日本経済を支えているのです。 あまり本論とは関係ありませんが、物が大量に生産されて大量に消費される社会というのが健全な社会なのかどうか疑問です。 その経済だって今や……という状況ですし。ずっと右肩あがりだというのは幻想で、それは崩れるものだというのを示しているのが現状ではないでしょうか? >不安は伝染するのでこれに気をつければいいと思うよ。 確かにそうですね。 神経質になりすぎないで子育てしたいと思います。 ありがとうございました。
- dai-ym
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親がちゃんと子供の個性を把握し、容認し、誉めて伸ばせば、日本でも十分にそういう子育てが出来ます。 逆にアメリカンスクールや海外に行っても親が周りに合わせるような、その子の個性を認めない、周りと同じになることを強要すればそういう子育てが出来ません。 個性を認めると言う事はその子の劣っているところも認めることになります。 日本ではへんな平等意識やエリート意識があり、自分の子供が他の子よりも劣っている部分があることを認めない親が多く居ます。 そうでなく、劣って居るところもその子の個性と認め、劣っているなりにどう伸ばすか、を考えることが出来るだけでかなり違ってきます。 また、特にバブル前後から後の日本では、安定して給料が良い仕事につくことが素晴らしいかのようにいう親が多くなっています。 そのため、どういう仕事をするかの夢を見ることも自由でなくなっているところがあります。 もし息子さんがある程度の学歴があり、安定していると思われる会社に就職できるのに、食っていけるか分からないことを生業にしようとしたときに、それを認めることが出来るのでしょうか? 別に犯罪者でもない、仕事をしないわけでもない、ただ多くの稼ぎを得ることが難しい、何とか食っていけるかどうかの職業をすることをです。 親が子供に安定を求めだしたら自由は難しくなってきます。 それは海外でも同じで、エリート意識の強すぎる親の子供は自由度が少なく窮屈な生活になるようです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 確かに多くの子どもが(より偏差値の高い)大学を目指し、一流企業につくことを目指すという社会になってきているのは親の影響が大きいでしょうね。 そのようなレールを走るための偏った教育が、子どもを没個性的にするという面はあるかもしれません。 わたしは自分で言うのもおかしいのですが高学歴で安定した職業についていますが、そのことに大した価値を見いだせずにいます。 それよりも自分の考えをはっきりと述べる、他者への思いやりをもつ、自分一人でたくましく生活できるといった基本的な力のある子に育てたいと思っています。 エリート意識で子どもの自由を縛るようなことは(意識していないと難しいかもしれませんが)しないように努力したいです。 >劣って居るところもその子の個性と認め、劣っているなりにどう伸ばすか このように考えたことはありませんでしたが、おっしゃるとおりですね。 ありがとうございました。
- bismarks05
- ベストアンサー率33% (221/666)
NO8の回答者です。 質問者さんからの返礼を受けて、回答させていただきます。 こちらも抽象的な回答で、質問者さんの意図しない回答があったと思いますが、要点を再確認させて再回答とします。 >「家庭において個人主義・自由を尊重する」ということ、文字で読むほど簡単なことではありませんよね。 大変な無理難題を回答にしてしまったことを恥じていますが、この回答は私見でいえば、家庭教育におけるレッセフェールだと思います。 無責任ではない放任主義・裏で支える家庭教育という発想ですし、教育の理想像だと思います。 実は、親というものは、安易に子供に「選択肢を提供してしまう」傾向にあります。もちろん、回答期限が切迫している状況では、選択肢を提供することも必要でしょうが、選択肢を全く提供せずに当人の発想の広がりを待つ教育が、自由思想には重要でもあります。 現代社会は情報過多になって第三者が情報過多な状態から選択肢を提示してしまう状況が多くなっています。そんな状況の現代社会においては狭量な自由しか理解できない部分があります。 パソコンの環境はマイクロソフト社で一括支配されていることに何ら違和感を覚えなくなったり、与えられたシステムに安住して、新しいシステムを作ろうとする創造性がなくなってきています。 今、自由を生長させるには、選択肢を与えるのではなく、選択肢を見つける・選択肢を創造するという教育が重要だと思います。 これが日本社会に馴染まないとしても、それも重要な自由ですので、是非、配慮されるといいのではないでしょうか? > 「人と同じでなければならない」という強いプレッシャーを子どもが受け続けること、 その結果子どもが型にはまり、萎縮するような事態を避けたいというように考えています。 これに関しては、やはり一般常識という世界観に対する考えの問題を根底から考える必要性があると思います。 「他人と同じであるべき」というのは、COMMON SENCE(常識)の尊重と言えますが、その常識を疑う必要性は当然です。 問題は、その常識を疑う思考回路が極めて希薄な市民がいることでしょう。 近年、『共同体幻想』という言葉で常識論に対する警鐘が鳴らされていますが、そのような認識でも常識というものは、処世術として信仰されているものだと思います。 あくまでも私の立場は、常識に対する懐疑から始まり、常識を疑わない知性を知的弱者の護身術だと思っていますから、「他人と同じこと」に価値観を見いだせませんが、これは自我の強い人でない限りは無理かもしれません。 従って、上辺だけ「常識」を尊重して、内心では「他人と同じこと」への価値を見出さないようにする方法がいいかもしれません。 最後に >「自制心・利己性の排斥ができる、日本社会に馴染みえる個人主義・自由」について、 ですが、私の発想は極めて過激です。 私はアナーキストです。徹底した個人主義・自己決定権の尊重が健全な社会だと思っていますから、現状の日本社会を変えるという視点が強くあります。 つまり、自分を変えるつもりはなく、社会が変化してゆくという見方ですから、「社会変化が自分と同質化してゆく」と楽観しています。 己が社会に馴染むのではなく、社会が変化して、馴染んでゆくという結果論になると思っています。 日本社会に馴染みえるという表現は少し語弊があったかもしれません。 こんなことを言うのは危険かもしれませんが、社会に馴染ませる必要性はないとも言えます。 近代自由権については、JS・ミルの『自由論』から立脚すれば、 「他人に迷惑をかけない限りは、人は本質的に自由」とする公共性射程 のある普遍的自由権で人権が成立しています。 日本人は連帯性を重んじる民族性でもありますが、今日では、「他人に迷惑をかけない限り」という公共性射程の自由が一般化しつつありますので、もう「社会に馴染まない」ものでも問題ないと考えて生きてもいいと思います。 少なくとも、私は自我が強く利己的な人間ですが、 他者の自由を尊重し、”自由の競合時”に自分の自由を優先する理由つけ・法的正当性の説明を行える自信をもっています。そこまで強い思想は必要はないと思いますが、自由を疑いつつも、自由に対する理性を失わずに生きればいいと思います。 他人のヒステリックを気にすることは、他人の自我の肥大化にもなりますので、自由の競合時は、相互に自由の優先順位を議論するのも重要だと思っています。 PS 日本人は自我主張がヘタです。これはエゴに対する嫌悪感が過剰であるがゆえだと思います。人間の行動は須くエゴであり、人間活動はエゴとエゴの衝突であり、より多くの人間の利益になるエゴを優先するべきだと思いますが、議論をしない日本人は相互のエゴ・自我の確認作業を行えないことが多くあるでしょう。 日本人が議論できる民族になれば個人というものの考えも変わるとは思いますが・・・・・・・・希望的観測かもしれません
お礼
ご回答ありがとうございます。 >選択肢を全く提供せずに当人の発想の広がりを待つ教育が、自由思想には重要 >選択肢を見つける・選択肢を創造するという教育が重要 おっしゃるとおりだと思います。 親が選択肢を与える、あるいは押しつけることによって、現代の子どもは人生を他人に決めてもらうことに慣れてしまうのでしょうね。 >上辺だけ「常識」を尊重して、内心では「他人と同じこと」への価値を見出さないようにする 常識について懐疑を抱く必要性はよくわかるのですが、上辺と内心を分けるのは子どもにとってはなかなか難しそうですね。 大人にとっても難しいですが。 親にできることは、学校ではKYなどと言われないように他人に話を合わせるしかない子どもが、家に帰ってきたとき素に戻れるように環境を整えてあげることくらいでしょうか。 >社会に馴染ませる必要性はないとも言えます 日本社会が「同じことを求める」から「違うことを認める」へ変化するのは望ましいことと思いますが、日本において個人主義が成熟するのはだいぶ先ではないでしょうか。 10年や20年では変わらないような気がします。 確かに「他人に迷惑をかけない限りは、人は本質的に自由」というのは正論として多くの人に認められていますが、個人・集団の意識レベルではやはり「違うものは理解不能(したくない)・排斥したい」というのが一般的ではないでしょうか? 欧米で実際に多様性が広く認められ尊重されているのかどうかは知りませんが、少なくとも「違うものも理解すべき」という考え方であるように思います。日本では「違うものは理解されず、排斥されても当然」といった雰囲気がありますよね。残念なことですが…。 >議論をしない日本人は相互のエゴ・自我の確認作業を行えない 同感です。 もちろんエゴをぶつけあうだけの醜い事態を避けうるという意味で良い面もあるのだとは思うのですが、議論することで初めて理解できる、認められるということもあります。 逆に、議論を避けるということ自体が「我々は同じだ(議論しなくても雰囲気で、空気で理解しあえる)」という意識から生まれているのかもしれません。 議論する必要がないと考える=議論しなければ理解しあえないものを避ける、ということにつながっているようにも思えます。
- potachie
- ベストアンサー率31% (1065/3387)
良くも悪くも日本の教育システムは、日本の社会構造を保つためによかれと思って作られています。 そこからはみ出そうというのですから、「日本」という枠からはみ出すことを躊躇すること自体がおかしな話です。 ご質問の避けたい状況は、教育だけでなく、日本の社会一般にあることですよね。だからこそ、学校は、そういう社会で生きていける人を育てようとしているわけです。 ただ、適合できるかの心配は、国内でも外資系の企業に勤めれば、解決されます。ご要望の通りに個性を重視した達成主義で、収入に上限がない反面、下位10%か25%になると、即、クビをくられる仕掛けです。こういう社会でのびのびと実力を発揮されている日本人も数多くいますから、今では特別な人生というわけではありませんし。 他人と同じなら歯車として働くことができますが、他人と同じことができない社会人は、自分自身で実績を残すことで社会に必要とされます。 前者は、日本的組織、後者はグローバルスタンダードといわれる組織です。 どちらも人としての幸不幸とは関係ない、生き方に対してのスタンスの問題ですね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >ご質問の避けたい状況は、教育だけでなく、日本の社会一般にあることですよね。だからこそ、学校は、そういう社会で生きていける人を育てようとしているわけです。 もちろん日本社会で生きるための常識や分別は必要だと思うのですが、過剰なまでに「他人と同じにしなくては」という意識をもっている子どもが多いような気がしています。 学校がどう教育しようとしているかということとは別に、子ども達の中で、そうでなくては集団から排斥されるというような現状があるのではないでしょうか? >ただ、適合できるかの心配は、国内でも外資系の企業に勤めれば、解決されます。 やはり日本の中の海外で生きるという方法ですね。 それも選択肢のひとつですね。 ありがとうございました。
- tanuki4u
- ベストアンサー率33% (2764/8360)
海外で暮らしたことはないが、なぜアメリカの映画を見ていると「こんな息苦しい田舎から出て、都会で自由になりたい」というものが多いのだろうか? 私には「隣の芝生は青い」という事ではないかと思える。 そして海外で生活して「日本は不自由だ」と言っている人は、海外で成功した人のように思える。 この場合、「海外で自由だ」=「海外で成功した」という事では無かろうかと思える。
お礼
ご回答ありがとうございます。 アメリカ映画の「こんな息苦しい田舎から~」は、確かに「隣の芝」である面もあると思いますが、 密接な人間関係や限られた情報の中で生きることがほんとうに息苦しい、という場合もあるのだと思います。 同じように「海外で自由だ」=「海外で成功した」という場合もあるのかもしれませんが、 島国である日本の息苦しさというものも確かにあると思うのです。 日本の文化や習慣などを否定しているわけではないのですが、集団や個人といったものの考え方が 基本的に西洋とは違うからかなと考えています。
- jamiru
- ベストアンサー率5% (170/3044)
本屋に行けば自由な発想を持つ人がたくさん本を出しているじゃあないですか。
お礼
ご回答ありがとうございます。 質問では「自由な発想をもつ子を育てたい」と書いてしまいましたが、皆さんのご回答を読ませていただくうちに、 「型にはめずに育てたい」「同じでなくてはならないというプレッシャーを与えずに育てたい」 という表現の方が自分の考えにうまく当てはまることがわかりました。 今の日本では、子ども達のほとんどが「みんなと同じでなくてはならない」というプレッシャーを受けて 育っていくようにわたしには思えます。 それをうまく乗り越えられた人、例えば周囲の環境がよかったり、自分の意志が強かったりした人、あるいは 努力したけれど他人と同じようにはできなかったという人だけが型にはまらずに成長できたのかなと。 それでもずいぶん居心地の悪い思いをしてきたという声をよく聞きますので、 せめて(自分のためにも)環境の面で、より個性を殺さない道を選択できればと思いました。
- potachie
- ベストアンサー率31% (1065/3387)
インタースクールに進学させて、義務教育が終わったら海外に進学をさせることでしょうか。 ただ、日本の高校生の学力は基礎力という意味合いでは、トータルでは、未だに世界有数の状況で、「自由でのびのびとした教育」を経た人たちと、難関大を目指す高校生の間では大きな差があると思いますので、大学進学は、国内は目指さない方が良いかと。 「西洋」では、小学生程度で、将来学問で身を立てる人たちと、職で身を立てる人たちの道が分かれます。競争が始まるわけですが、この辺を把握された上で、教育方針を考えられていますか? 日本では全員に高校まで教育を施そうという社会を作っていますが、こんな制度を持っている国はあまりありません。 西洋では、自己責任の上に早く自活するように育てる訳ですから、お子さんの将来への道も含めての方針を考えられることをオススメします。
お礼
ご回答ありがとうございます。 やはり海外、あるいは国内の海外コミュニティで教育するしかないのでしょうか。 わたしは大学教育に携わっているのですが、大学全入時代と言われて目的もなく高等教育を受けている学生達を 見ていると、早くから人生の目標を定めて、自分で考えて生きていく西洋の子ども達のあり方は好ましく思えます。 日本では、大学まで進学することが当たり前、大学卒業までは親が養うことが当たり前で、 大学三年生で就職活動をするまでは人生について保留状態……というケースが非常に多いように思います。 大学に入学するための学力よりも、自分の考え・意見をきちんともって相手に伝えられるというような 力の方が重要だと思うので、そのような教育を施したいと思うのですが(もちろん学問の基礎を疎かにはしたくありませんが)…… 学力はおいておいたとしても、インタースクールのような日本における特殊コミュニティで教育をするとなったら、 それまでの教育で身につけた性質、他人と同じでなくてもよいという考え方ゆえに、 日本の大学を卒業して日本の社会でうまくやっていくというのは難しいような気がしていますが、どうなのでしょう。
出来れば、そういう縛り?にあまりとらわれずに、けれど、同じにしたほうがお互いに?良いような時?、事?などでは、自分からそう出来ればよいのかな?とは思うのですけどね・・・。 同じじゃないですし…けれど、同じとこも多いし、違うとこもありますし。 全く同じを由としている、ということは、たぶん、無いと思います。 まとまらないんですけれど。
お礼
ご回答ありがとうございます。 和をもって尊しとなす、というような日本の考え方は大切であると思うんですよね。 相手への共感は日本の社会においてのみではなく、コミュニケーションの基本として必要なことだと思います。 ただ日本では違っていることを認め合うということが意識的に教育されないような気がしていて、 少しはみ出ると「変わっている」という評価になってしまうように感じています。 その結果、子ども達は無意識のうちに型にはまっていってしまうのではないでしょうか……
- 007_taro
- ベストアンサー率29% (540/1831)
「子供の個性を大事に」を名目に打ち出されたゆとり教育は、結局、湖西を作る核ができない幼少の頃から「個人が個人らしくあるように」と言われて「自分らしさ」に迷った子供達を作り出し、ガングロなど変わったことをしても、やはり皆同じになったように、「同じにならない」と頑張るのは、子供を迷わせるように思います。 海外が自由といいますが、彼らの自由はかなり厳しく責任を負った自由であり、日本でいう自由とはまた違うものです。海外の自由さを目標とするのではなく、自分自身の気持ちを表現できるよう、どんな言葉ででも気持ちをゆっくりと聞いてあげるのは必要ではないかと思えます。上手に自分を表現できるようになれば、変とか非常識に思われることも少なく、相手に理解を得るような言い方を習得できると思いますし、それが国内外問わず「自由であること」に繋がるのではないかと、私は考えています。
お礼
ご回答ありがとうございます。 ゆで卵を冷水にさらしながら四角いケースに入れると、四角くなると聞いたことがあります。 分かりにくい質問になってしまいましたが、わたしは個性のある子にしたい、他者と同じにならないようにしたいというよりも、 元々丸かったものが、外部から「同じでなければならない」というプレッシャーを受け続けることによって 四角くなるような事態を避けたいと思っています。 >海外の自由さを目標とするのではなく、自分自身の気持ちを表現できるよう、どんな言葉ででも気持ちをゆっくりと聞いてあげるのは必要ではないかと思えます それはほんとうに大切なことだと思います。 相手に理解してもらえるような話し方ができることは重要ですね。 007_taroさんのおっしゃる「国内外問わない自由」について、もう少し考えてみたいと思います。 ありがとうございました。
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お礼
ご回答ありがとうございます。 >日本社会で個人主義の尊重した教育を行うならば、という問題提起としての回答ならば、やはり家庭教育の時間を尊重すること >自分の自由が”他人の自由を侵す”という自由の相克関係について教える必要性があります 個人主義を身につけた人間が日本の義務教育や社会の中でうまくやっていくことは なかなか難しいことのように思うのですが、そこの部分を乗り越えるためにとれる方法のひとつが 「自制心・利己性の排斥ができる、日本社会に馴染みえる個人主義・自由」を教えることである、ということですね。 分かりにくい質問でしたのに、核心を突いたご回答ありがとうございます。 >ちなみに、「同じであることも個性」ではないでしょうか? わたしの書き方が悪かったのですが、個性のある子に育てたいとか、人と同じであってはならないと 考えているわけではなく、「人と同じでなければならない」という強いプレッシャーを子どもが受け続けること、 その結果子どもが型にはまり、萎縮するような事態を避けたいというように考えています。 「自由な発想をもつ子を育てたい」ではなく、「子どもを型にはめずに育てたい」が正しい表現でした。 「家庭において個人主義・自由を尊重する」ということ、文字で読むほど簡単なことではありませんよね。 家庭の中での個人主義について、どのような方針をとり、具体的にどのような教育をしていくか 考えあぐねています。 「自制心・利己性の排斥ができる、日本社会に馴染みえる個人主義・自由」について、 もう少し詳しく教えていただけると大変ありがたいです。